artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
6th EMON AWARD Exhibition 神林優展
会期:2017/10/03~2017/10/14
EMON PHOTO GALLERY[東京都]
神林優は1977年、長野県生まれ。2002年に多摩美術大学卒業後、2010~11年のニューヨーク滞在を経て、ユニークな写真作品をコンスタントに発表してきた。多摩美術大学時代に師事した萩原朔美や、その同世代の山崎博など、「コンセプチュアル・フォト」の系譜を受け継ぐ作風だが、厳密な方法論に基づくのではなく、より軽やかに日常の事象に目を向けて作品化していく。ただ、発想は豊かで技術的にも洗練されているものの、フィニッシュワークがやや小さくまとまってしまう印象があった。そのあたりが、今年2月に開催された6回目のEMON AWARDでも、準グランプリにあたる特別賞の受賞に留まった理由といえる。だが今回の「受賞者展」では、作品がより力強さを増してきているように感じた。神林にとってはひとつの転機となる個展になりそうだ。今回展示されたのは、スケートリンクのブレードの跡を撮影した「FIGURE」(1点)、折跡のある折り紙を開いて撮影した「FOLD」(25点)、カッティングシートを被写体にした「CUT」(2点)の3作品である。いずれも「本来的な行為の目的からは解き放たれてはいながらも、わたしたちのある目的のために為された運動によって残された跡」を被写体としている。偶然の積み重ねによって生じたフォルムであるにもかかわらず、そこにはある種の必然性が感じられる。それらの「運動によって残された跡」の静謐な美しさが、あまり押し付けがましくない繊細な手つきで、だが確信を持って捉えられているところに見所があり、とても好ましいイメージ群として成立していた。この方向を突き詰めていくと、さらに大きな可能性が開けてきそうだ。
2017/10/06(金)(飯沢耕太郎)
新納翔「PEELING CITY─都市を剥ぐ─」
会期:2017/09/26~2017/10/07
コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]
新納翔の新作写真集『PEELING CITY』(ふげん社)の刊行記念展として開催された本展を見て、あらためて高梨豊の「東京人」を想い起こした。「東京人」は、高梨が『カメラ毎日』(1966年1月号)に36ページにわたって掲載した作品で、東京オリンピック直後の多層的な都市空間の諸相が、写真とテキストによってコラージュ的に構成されている。新納が撮影したのは、東日本大震災の前後の時期からの東京とその周辺だが、目の幅を大きくとり、さまざまな距離感の被写体を等価に捉えていく眼差しのあり方に共通性を感じるのだ。とはいえ1960年代と2010年代では、都市空間そのものの手触りがかなり違ってきている。そのことは当然、新納の写真群に写り込んでいるはずだが、ポートレート(近景)、路上スナップ(中景)、風景(遠景)が入り混じる構成に紛れて、くっきりと浮かび上がってこないもどかしさを覚えていた。ところが、10月6日にふげん社で開催されたギャラリートークにゲストとして参加した中藤毅彦の発言を聞いて納得するものがあった。中藤は新納が一時所属していた東京・四谷のギャラリー・ニエプスの主宰者であり、新納の写真を初期からずっと見続けている。その彼が指摘したのは、新納の撮影した写真の中に「ヘルメットをかぶった人物がよく写っている」ということだった。写真集で数えて見ると、たしかにヘルメットをかぶった人物が写っている写真は全111点中10枚ある。帽子をかぶった人物、傘が写っている写真を加えるとその数はさらにふくらみ、全作品の三分の一ほどになる。これはむろん、無意識レベルでの被写体の選択なのだが、ここまで数が多いとやはり何か特別な理由があるのではないかと思えてくる。それはおそらく、ヘルメットが(帽子や傘もそうだが)、何かから「身を守る」ための装具であるということなのではないだろうか。つまり、現在の東京に潜む「危険さ」が、ヘルメットや帽子や傘に対する鋭敏な反応に結びついているのだ。これはやや穿った見方かもしれない。だが、往々にして感度のいいアンテナを持つ写真家は、知らず知らずのうちに何かを嗅ぎ当ててシャッターを切っていることがある。それを無意識レベルから意識レベルまで引き上げて、さらに大きく変貌しつつある都市空間の「皮を剥ぐ」作業を推し進めていく必要があるだろう。
2017/10/06(金)(飯沢耕太郎)
アメリカへ渡った二人 国吉康雄と石垣栄太郎
会期:2017/10/07~2017/12/24
和歌山県立近代美術館[和歌山県]
カテゴリー:美術
20世紀初頭に移民としてアメリカに渡り、同地で画家として活躍した国吉康雄と石垣栄太郎。2人の作風は対照的で、国吉がアンニュイな雰囲気のなかにメッセージを偲ばせるのに対し、石垣は社会問題や政治的な主張を直接画面にぶつけた。両者はキャリアも対照的で、国吉がアメリカを代表する画家としてホイットニー美術館で回顧展を行ない、ヴェネツィア・ビエンナーレのアメリカ代表に選ばれたのに対し、石垣は戦後のマッカーシズム(赤狩り)で米国を追われ、日本で余生を過ごした。ただし国吉も、1950年代の抽象表現主義の流行と共に忘れられた存在となり、米国では近年やっと再評価の気運が高まっている。また国吉は米国で亡くなったが、最後まで市民権を得ることができなかった。本展では作品110数点と資料約50点で2人の画業を展観。黄禍論による日本人移民の排斥、戦争、大恐慌、戦後の赤狩りなど、激動の時代を生きたアーティストの姿を丹念に紹介している。折しもいま、欧米では移民やテロが大きな問題となっており、日本にも戦争の影が忍び寄っている。国吉と石垣の生き様は、われわれにとっても他人事ではないのだ。また、米国での国吉の再評価は、純粋に美的価値だけでなく、美術界からトランプ政権へのカウンター的意味合いがあると聞いた。彼は故人になっても政治に翻弄されているのだなと、暗澹たる気持ちになった。
2017/10/06(金)(小吹隆文)
震災・大事故と文化財を考えるプロジェクト シンポジウム「厄災の記憶 その表象可能性(はま・なか・あいづ文化連携プロジェクト)」
いわき芸術文化交流館 アリオス 中劇場[福島県]
いわき芸術文化交流館アリオスの中劇場で開催した震災・大事故と文化財を考えるプロジェクト・シンポジウム「厄災の記憶 その表象可能性」に参加した。現代美術、美術史、広島の原爆、第五福竜丸の事故、民俗学、建築学など、各分野の学芸員や研究者ら、12人が円卓で討議している様子を、ぐるぐるまわりながら藤井光が撮影する。厄災の記憶と表象をめぐってさまざまな話題が語られ、あっという間の休憩なしの3時間だった。これは映像作品として編集され、来年パリで発表される予定らしい。
2017/10/05(火)(五十嵐太郎)
大英博物館国際共同プロジェクト 北斎─富士を超えて─
会期:2017/10/06~2017/11/19
あべのハルカス美術館[大阪府]
カテゴリー:美術
本展は葛飾北斎の晩年30年に的を絞った企画展で、あべのハルカス美術館と大英博物館の共同プロジェクトである。先に行なわれた英国展は、同国では70年ぶりの北斎展ということもあり、約15万人を動員するヒットとなった。北斎の展覧会は関西でもしばしば行なわれているが、本展は約200件の作品のうち肉筆画が66件を占めており(海外の美術館の所蔵品を多数含む)、これまでの北斎展と比べても出色の出来栄えである。見所はやはり肉筆画で、特に展覧会末尾に並ぶ《富士越龍図》《李白観瀑図》《雪中虎図》など最晩年の作品は孤高の境地に達し、凄みすら感じられた。また、信州・小布施で描いた作品で、北斎が波の表現の極致とも言われる《濤図》、晩年の北斎を支えた三女・お栄(応為)の作品、浮世絵の原画の校正であろうか、描き直しや朱が入った作品などもあり、非常に見応えがあった。この秋、関西では「国宝」展(京都国立博物館)や「大エルミタージュ美術館展」(兵庫県立美術館)など話題の展覧会が相次いでいるが、本展はけっしてそれらに負けていない。むしろ深みやコクが感じられる点で、それらに勝っていると言えるだろう。
2017/10/05(木)(小吹隆文)