artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

ポコラート全国公募vol.7 応募作品一挙公開!!

会期:2017/03/03~2017/03/05

アーツ千代田3331体育館[東京都]

元体育館だった巨大な空間にポコラートがびっしり並んだ。何百点、いや何千点あるんだろう。このなかから審査で選ばれた作品が「ポコラート全国公募vol.7」として正式に展示されるわけだ。ポコラートってなんだ? と問われると困るが、たぶんアートの常識にとらわれないアートらしきものだろう。それがこれだけ集まるともはや壮観を超えて、こちらのアートの常識が揺らぎ始め、ゲシュタルト崩壊を起こしそうになる。それならこれを正式の展覧会にして、あえて審査して大半を落とす必要はないとの意見もあるはず。でもこれらを見ているとやはり優劣というか、おもしろいかおもしろくないか、あるいは刺激が強いか弱いかには分けられる。ポコラート界も競争が熾烈になりつつあるようだ。

2017/03/05(日)(村田真)

日本財団DIVERSITY in ARTS─MAZEKOZEプロローグ

会期:2017/03/03~2017/03/05

コレド室町 江戸桜通り地下歩道[東京都]

ダイバーシティ・イン・アーツとはお台場の芸術、ではなくて多様性の芸術のこと。いいかえればアウトサイダーアート、アールブリュット、ポコラートともいう。だれがどんな思惑で仕掛けたかは知らないが、障害者のアートがまた新たに言い換えられて世に発信されようとしているわけだ。なのに展示は地下歩道のずいぶん劣悪な環境のなかで3日間だけ。それでもさすがに作品はすばらしく輝いていた。

2017/03/03(金)(村田真)

THE 女流展 vol.4 2017

会期:2017/03/01~2017/03/07

日本橋三越本館6階 美術特選画廊[東京都]

10人くらい出品していたが、ほとんどがどこかの団体に属しているなか、インディペンデントな画家は福田美蘭ひとり。尖閣諸島を巡る2点の絵画を出品している。ひとつは龍安寺の石庭の石を尖閣の島に見立てたもの、もうひとつは水墨画と琳派を混ぜたような作品。「THE・女流展」というタイトルからして時代錯誤的な、そして彼女にとってはいささか場違いとも思える展覧会に臆せず(たぶん)出し続ける。福田美蘭は相変わらず戦ってるなあ。

2017/03/03(金)(村田真)

田口芳正「反復3」

会期:2017/02/27~2017/03/05

トキ・アートスペース[東京都]

昨年、写真集『MICHI』(東京綜合写真専門学校出版局)を刊行した田口芳正が、東京・神宮前のトキ・アートスペースで新作展を開催した。『MICHI』は、写真を「撮る」ことの意味を徹底して検証する「コンセプチュアル・フォト」の極致というべき1977~79年の作品を集成した写真集だったが、今回展示された作品もその延長上にある。撮影機材はアナログカメラからデジタルカメラに変わり、プリントもモノクロームではなくカラー出力になっているが、制作の姿勢、方法論がまったく同じであることに、逆に感動を覚えた。
今回の「反復20161206」、「反復20170108」、「反復20170110」の3作品は、すべて同一のコンセプトで制作されている。被写体になっているのは、イチョウなどの枯葉が散乱している地面で、それらを1秒ごとにシャッターを切るように設定したインターバル・カメラで、ひたすら歩きながら撮影し続けていく。さらに、それらの画像をA3判にプリントアウトした用紙を、壁にグリッド状につなぎ合わせて貼り付ける。その数は各63枚で、縦横2.3m×4.8mほどの大きな作品に仕上がっていた。この作品にも、いつ、どこでシャッターを切るかを主観的に選択することを潔癖なまでに拒否し、機械的な「反復」のシステムに依拠していくという彼の方法論が明確に貫かれていた。だが、カメラやプリンターのちょっとした誤作動によって、被写体がブレたり、画像の色味が違ったりしているパートもある。そういうズレや揺らぎすらも、「意図通り」と言い切ってしまうところに、田口がこの「反復」のシリーズを制作・発表し続けている理由がありそうだ。写真という視覚媒体の存在条件を、ミニマルな表現として問いつめていく、いい仕事だと思う。
トキ・アートスペースでの新作の発表は、これから先も1年に1回のペースで続けていくという。次作がどんな風に展開していくのかが楽しみだ。同時に、『MICHI』の続編にあたる1980年代以降の作品も、写真集のかたちでまとめていってほしいものだ。

2017/03/03(金)(飯沢耕太郎)

花森安治の仕事─デザインする手、編集長の眼

会期:2017/02/11~2017/04/09

世田谷美術館[東京都]

雑誌『暮しの手帖』をつくり上げた名編集者、花森安治(1911-1978)についての展覧会。同誌の編集作業に用いられた原稿や写真、表紙絵などをはじめ、同誌の代名詞とも言える「商品テスト」で使用した数々の商品、学生時代の水彩画や新聞原稿など、約750点の資料が展示された。花森の回顧展はこれまで幾度か催されてきたが、規模の面でも内容の面でも、今回は決定版と言えるほど充実した展観である。
会場に立ち込めていたのは、全人生を仕事に費やした花森の熱量。事実、花森の仕事は「編集者」という肩書きを大きくはみ出すほど多岐にわたっていた。原稿を執筆することはもちろん、写真を撮影し、表紙絵やカット絵を描き、電車の中吊り広告のデザインも自ら手がけた。雑誌づくりのほとんどすべての行程に眼を光らせ、辣腕を振るっていたと言ってよい。細かく分業化された現在の雑誌づくりと比べると、花森のある種のエゴイズムは羨望の的以外の何物でもあるまい。
むろん、その熱を帯びたエゴイズムはたんなる利己主義ではなかった。会場には、編集部員が撮影してきた早朝の築地の写真について烈火の如く怒りながら説教する音声が流れていたが、その様子を想像すると花森の家父長的な権威主義を実感できるのは事実である。だが展示でも強調されていたように、その権威性の根底には明確な批判精神が宿っていた。同誌は広告を一切掲載していないが、それは広告収入に依存することで商品への批評が鈍ることを避けるためだ。「商品テスト」が目指していたのは、客観的な実験と忌憚のない批評によって、庶民の暮らしを豊かに拡充することだった。
「暮らしなんてものはなんだ、少なくとも男にとっては、もっと何か大事なものがある、何かはわからんくせに、何かがあるような気がして生きてきたわけです。あるいはあるように教えられてきた。戦争に敗けてみると、実はなんにもなかったのです。暮らしを犠牲にしてまで守る、戦うものはなんにもなかった。それなのに大事な暮らしを八月十五日まではとことん軽んじきた、あるいは軽んじさせられてきたのです」(『一億人の昭和史4 空襲・敗戦・引揚』毎日新聞社、1975)。このように花森が戦争を振り返るとき、おそらく念頭にあったのは大政翼賛会の記憶だろう。花森は戦時中、大政翼賛会に在籍し、戦意の高揚と銃後の守りを庶民に訴えかける宣伝活動に従事していた。展示には大政翼賛会のコピーも含まれていたが、それと『暮しの手帖』の広告の類似性には、誰もが驚かされたにちがいない。花森が編集部で愛用していたという質実剛健な机は、大政翼賛会が仕事を発注していた報道技術研究会から譲り受けたものだったというから、花森の手と眼は、つねに戦争に加担した反省と贖罪の意識のうえで動いていたのかもしれない。
国や企業と私たちの暮らしとのあいだに明確な一線を画すこと。戦後、花森が『暮しの手帖』で実践してきた仕事を要約するとすれば、こうなる。つまり花森にとっての「暮らし」とは、たんに生活を美しく豊かに改変することだけではなく、国や企業に脅かされかねない生活を守り、それらに抵抗するための準拠点を意味していた。新たな戦前の気配が漂い始めたばかりか、豊かさの陰で生活そのものが成り立ちにくく、しかも私たちの生存が国や企業に完全に包摂される時代になりつつある昨今、私たちが花森の批判精神に学ぶことは多い。それは、公的領域と私的領域を明確に峻別するという点で、きわめて近代的な意識だった。
しかし、その一方で、花森の近代的な批判精神には拭い難い難点があることも否定できない。それは、その社会的な意義が高まれば高まるほど、個々の自由は失われていくという逆説である。むろん国や企業と暮らしを混同せず、双方を明確に区別するという批判精神が意義深いことに疑いはない。だが、そうであればこそ、まるで社会的正義のようなテーゼが私たちを苦しめる。例えば花森が自ら描いた表紙絵は、どれも丁寧な筆致で、美しい。けれども、それらを立て続けに見ていくうちに、得も言われぬ息苦しさを覚えたのも否定できない。正しいがゆえに苦しい。ここにこそ花森安治の批評精神の本質的な二面性が体現されているのではなかったか。

2017/03/03(金)(福住廉)

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