artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
パロディ、二重の声 日本の1970年代前後左右
会期:2017/02/18~2017/04/16
東京ステーションギャラリー[東京都]
「パロディ」の展覧会ならパルコあたりでやってるだろうけど、「1970年代前後左右」という限定つきだと(左右ってなんだ?)わかる人にはわかるというか、50歳以上にはピンと来るものがある。それはマッド・アマノの「パロディ裁判」であり、赤瀬川原平の『櫻画報』であり、雑誌の『ビックリハウス』だったりする。同展はそのど真ん中を行く企画。まずプロローグとして、最初の部屋には山縣旭(レオ・ヤマガタ)によるモナリザのパロディが40-50点ほど並ぶ。作者は今年83歳で、作品の大半は昨年つくられたというから同展の主旨からそれる番外編だが、1978年に「日本パロディ展(JPS)」でパルコ賞を受賞した経歴から特別展示となった模様。それにしても80歳すぎても人真似(パスティーシュ=文体模写というらしい)に専念とは、見上げた根性だ。展示は、60年代の篠原有司男、赤瀬川原平、横尾忠則、立石紘一(タイガー立石)らネオダダ、ハイレッドセンター周辺から始まり、木村恒久のフォトモンタージュ、誌面が白紙の『週刊週刊誌』、つげ義春の『ねじ式』をパロッたつげ義悪(長谷邦夫)の「バカ式」と赤瀬川原平の「おざ式」、読者投稿で成り立った『ビックリハウス』の創刊号から130号まで全巻、といった具合に進む。
ここまで来て、ふと思う。60年代の前衛美術にはまだ社会批判や毒があったが(パロディという言葉はまだあまり使われてなかった)、70年代になると政治性や芸術性の薄いナンセンスなパロディが蔓延していくのは、なぜなのかと。それはおそらく、70年安保闘争の敗北に連動して過激な批評精神が後退し、「シラケムード」が漂ったことがひとつあるだろう。もうひとつは、同展のオオトリとして控えていた「ミスター・パロディ」ことマッド・アマノの、いわゆる「パロディ裁判」も影響しているのではないか。これは写真家、白川義員の写真を無断使用して訴えられ、法廷闘争の結果アマノの敗訴となったもの。最高裁の判決が出たのは80年代だが、その過程で権威や権力(実際は「著作権」だが)に楯突くとヤケドするぞと、みんなビビったのかもしれない。いわば自主規制が働いて、パロディの矛先が内側に向かったということは考えられる。余談だが、パルコが始めた「日本パロディ展」は1980年に「日本グラフィック展」に発展、そこから出てきたヘタウマやニューペインティングが80年代のアートシーンの一角を占めていく。そう考えると、60年代の毒のある前衛美術は、70年代にパロディとして毒抜きされて、80年代に再びアートシーンに還流したといえるのではないか。
2017/02/26(日)(村田真)
キリコ展「mother capture」
会期:2017/02/25~2017/03/25
ギャラリーヤマキファインアート[兵庫県]
会社を辞めてニートになった元夫との関係を綴った《旦那 is ニート》や、売れっ子の舞妓だった祖母の写真を再構成したインスタレーション、その祖母が娘によって介護される光景を「逆転した母娘関係」として介護用監視モニターの画面を切り取った《2回目の愛》。写真家のキリコはこれまで、家族や配偶者といった親密圏の中に身を置き、極めて私的な関係性を見つめながら、女性の生き方や家庭、コミュニケーションのあり方について作品化してきた。
本個展では、自身が不妊治療中であり、母となった友人たちへの複雑な思いが制作の契機になった《mother capture》が映像と写真で発表された。薄く透けるカーテンで仕切られた半個室には、壁に大きく映像がプロジェクションされている。こちらに背を向け、自宅の一室で、光の差す窓辺に向かって座る女性たち。一見、静止画のように動かない彼女たちは、授乳中であることが分かる。ふと髪をかき上げる仕草、わずかに動く赤ん坊の小さな足、風に揺れる窓辺のカーテン。授乳中の女性を背面から捉える固定カメラの記録映像が(無音で)淡々と流れていく。また、この動画から静止画として切り出した写真作品9点が、9人の女性のポートレイトとして展示された。
「授乳」という、母と子の最も親密な身体的コミュニケーションが、撮影者不在の固定カメラによって機械的に切り取られ、しかも背面から撮影されることで、表情や眼差しなど親密さの核心部分が隠されていること。「母子間の愛情に満ちたコミュニケーション」を定点観測的な固定カメラに委ね、「自分自身がその濃密な空間に入れず疎外されていること」を露呈させる手法は、前作の《2回目の愛》とも共通する。(《2回目の愛》では、食事や排泄の介護をする娘を「おかあさん」と呼んで依存するようになった祖母の姿が、介護用モニターの画面を再撮影することによって、ある種の「距離」の介在として表出されていた)。
《mother capture》も同様の手法を採りつつ、「女性像の表象」をめぐるより戦略的な転倒が仕掛けられている。「母子像」は、イコンとして聖化された「聖母子像」を常に内在化させながら、西洋美術における定番モチーフとして生産・消費されてきた(授乳中のマリア像も多数描かれている)。また、「窓辺に佇むポートレイト」も女性の肖像の定番である。キリコは、「母子像」「窓辺の女性像」という女性表象をあえて戦略的に用いつつ、後ろ姿として反転させることで、見る者の眼差しが期待する「最も親密な空間やコミュニケーション」を隠してしまう。クリシェを反転させて「裏側」から撮る、すなわち同性としての視線から眼差すことで逆説的に浮かび上がるのは、孤独さの印象、「背中を見つめる」視線の憧れやそこに辿り着けない焦燥感、手の届かない疎外感だ。またそれは、「母性愛」を「自然」なものとして肯定的に投影する態度を取り払った地点から、再び眼差すことは可能か、という問いをも提起している。
加えて、背景の空間がみな、「プライベートな室内風景(自宅の一室)」で撮影されていることにも留意すべきだろう。「女性の社会進出」がうたわれる一方で、授乳スペースの整備など、社会的なサポートはまだまだ十分とは言い難い。《mother capture》の沈黙の後ろ姿たちは、「なぜ彼女たちがこの限定された場所で撮影されねばならなかったのか」というもうひとつの問いをも喚起している。
2017/02/25(土)(高嶋慈)
とりのゆめ / bird’s eye
会期:2017/02/18~2017/03/05
神戸アートビレッジセンター[兵庫県]
「地域アート」と、資料のリサーチに基づく「アーカイヴァル・アート」、隆盛する両者を批評的に検証する好企画。会場の神戸アートビレッジセンターが位置する「新開地」という土地をめぐり、架空の神話の提示とそれを裏付ける各種資料の「捏造」の中に、実際の地形の考察や史実を織り交ぜ、虚実入り乱れる「ミュージアム」を擬態した空間をつくり上げた。出品作家は、解体された建築の廃材をウクレレ化する作品で知られる伊達伸明と、建築家の木村慎弥。また、木村が参加する建築リサーチ組織RAD - Research for Architectural Domainを立ち上げた建築家・リサーチャーの榊原充大がリサーチ&ドキュメンテーション担当として参加している。
本展は、「新開地」という土地の誕生を物語る架空の「神話」をベースに、絵本風のストーリーが展開される順路と、戦前の尋常小学校(風)の教科書のテクストに沿って展開する順路の2つに分岐し、最後のオチで両者が再び合流する、という空間構成も工夫が凝らされている。対象年齢(?)によって微妙に異なる語り口や解釈も、物語の受容の多面性を示す。神話のあらすじは、「カチン石」という石を山に運ぶ命を天の神から受けた「カブーク」という巨鳥が、山の神と海の神の争いを引き起こし、陸地はめちゃめちゃに荒らされるが、流された土砂の堆積が形づくった三角形の土地を「bird’s eye=俯瞰」で見ると、青い海=青空を背景にそびえる山の形になり、その天辺に置かれた「カチン石」が5つに砕けて「シンカイチ」になった、というものだ。この、地域に伝わる「神話」を裏付ける資料として、古文書、絵図、土偶といった物体の展示に加えて、「地域各所で信仰される巨石」の記録写真やレプリカ、「巨鳥の足跡が見つかった」と報じる新聞記事、教科書、年表など、真実性を保証する制度化されたフォーマットが総動員されて「偽造」されている。一方で、神戸の水害についての年表や新聞記事の複写パネルも配置され、単なる制度批判に堕すことなく、フィクションを経由して多発する水害の歴史や地形の特徴についても学べるようになっている。また、落語のオチのようなラストは、視点の転換による再発見や、物事の多面的な見方についても示唆的だ。
こうした「偽の資料のアーカイヴ」という手法は、例えば、「架空の画家が描いた絵画の展覧会」というフォーマットを採るイリヤ・カバコフの作品や、レバノン内戦に関するドキュメントを偽造したアトラス・グループの作品を想起させる。本展もまた、歴史そのもののフィクショナルな性格や、「アーカイヴァル・アート」が依拠する資料の真正さ、それを保証する制度への疑義を呈し、危ういもののうえに成立していることをメタな視点で問い直しつつ、想像力でもってどう地域へ還元できるか?という問いに応えていた。
2017/02/25(土)(高嶋慈)
1980年代再考のためのアーカイバル・プラクティス
会期:2017/02/18~2017/03/05
京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA[京都府]
京都市立芸術大学が所蔵する卒業生の作品から、1980年代のものを選び、当時の印刷物を交えて当時の動向を振り返った。出展作家は、石原友明、上野政彦、長尾浩幸、片野まん、栗本夏樹、砥綿正之など20名である。1980年代の関西は続々と有望な新人が現われ、「関西ニューウェーブ」と呼ばれる活況を呈した。約30年の時を経て、当時を振り返ることは有意義だと思う。ただ、印刷物が貧弱だったのは残念だった。今後の充実が望まれる。本来ならこの手の企画は地元の美術館が担うべきものだ。しかし、景気が冷え込んで美術館の予算が激減した1990年代後半以降、関西では同時代の地元の活動をフォローする企画がやせ細ってしまった。このままだと後世に過去30年間の動向を伝えられないのではなかろうか。京都ではギャラリー16も過去に同画廊で行なわれた個展を再現する企画展を断続的に行なっているが、一大学、一画廊の孤軍奮闘には限界がある。関西、特に京阪神の美術館の奮起を期待している。
2017/02/24(金)(小吹隆文)
普後均「肉体と鉄棒」
会期:2017/02/15~2017/02/25
ときの忘れもの[東京都]
「肉体と鉄棒」というのはなかなか面白いタイトルだ。ある日突然、普後均にそのタイトルが「降りてきた」のだという。すぐに近くの鉄工所に赴き、「高さも幅も2mほどの組み立て式の鉄棒を作ってもらった」。タイトルが先に決まるというのは、特に珍しいことではないが、そこから作品に落とし込んでいくときには、周到で注意深い操作が必要になる。普後は、まず新品の鉄棒を数年間自宅の外に放置して錆びさせ、2003年頃からようやく撮影にとりかかった。それから10年以上をかけて、少しずつ数を増やしていったのがこの「肉体と鉄棒」のシリーズである。会場には深みのあるトーンのモノクローム印画、17点が展示されていた。
鉄棒にはさまざまなものが乗ったり、ぶら下がったりしている。ヌードの女性もいるし、バレーシューズを履いた脚、猿、蛇、カタツムリなどの生きもの、氷や医療用器具まである。それらの取り合わせは、当たり前のようでいて、そうではないぎりぎりの選択がされており、ピンと張り詰めた緊張感を覚える。とはいいながら、融通無碍で、どこかユーモラスでもあるのが面白い。ほぼ同時期に撮影していた、貯水槽の丸い蓋の上にさまざまな人物たちを配置する『ON THE CIRCLE』(赤々舎、2012)のシリーズでもそうなのだが、普後は演劇的なシチュエーションを緻密に構築していくことに、独特の才能を発揮しつつあるようだ。このシリーズもぜひ写真集にまとめてほしい。同時に、彼が次にどんな写真の舞台を設定するのかが、とても楽しみになってきた。
2017/02/23(木)(飯沢耕太郎)