artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
ミュシャ展
会期:2017/03/08~2017/06/05
国立新美術館[東京都]
受付を抜けて展示室に入ると、目の前に現れる巨大な作品群に思わず息を呑む。過去のミュシャ展で《スラブ叙事詩》の習作や写真を見ていたのでそれなりに知っていたつもりだったが、実物のスケールにこれほど圧倒されるとは思わなかった。最大の作品は縦6メートル、横8メートル。天井高8メートルの国立新美術館企画展示室2はそのためにつくられたのではないかと思わせるほど、見事に作品が収まっている。これは「ミュシャ展」というよりも「スラブ叙事詩展」といったほうが良いかもしれない。いや、もちろん、日本で人気のアール・ヌーボーの作品もあるのだから、なんの間違いもないのだが、《スラブ叙事詩》全20作品がチェコ国外で公開されるのがここ国立新美術館が初めてだという点はいくら強調しても強調しすぎることはないだろう。
《スラブ叙事詩》はアルフォンス・ミュシャ(1860-1939)がその晩年、1911年から26年まで、約16年をかけて制作したチェコとスラヴ民族の歴史を主題とした20点の巨大な連作。よく知られているように、チェコ出身の画家アルフォンス・ミュシャは、1894年に俳優サラ・ベルナール(1844-1923)の公演ポスター《ジスモンダ》を手がけたことで、パリでポスター画家として華々しく活躍する。しかしながら、望郷の念と絵画制作に戻りたいという思いから、アメリカの富豪チャールズ・R・クレインから資金を得てスラブ民族の独立と連帯をテーマとした絵画の制作に乗り出した。ところが作品が完結した1926年までに社会状況は大きく変わっていた。第一次世界大戦が終わり、1918年にチェコスロバキアは独立。美術史家ヴラスタ・チハーコヴァーによれば、抽象美術とシュルレアリスムが躍進する大戦間期に、独立のための戦いやスラブ民族の連帯思想を訴える絵画は時代錯誤と見なされてしまったという。また、経済危機と政治状況の変化で、プラハ市がミュシャに約束していた作品展示場の建設は果たせなくなってしまった(本展図録、24-25頁)。
さて、正直に告白すると、現時点で筆者はこれらの作品を、いま、ここで見ることの意味を消化しきれないでいる。楽しみにしてきた展覧会であるし(一時は作品の移動の問題で開催が危ぶまれるという話もあった)、実際に作品を見て圧倒されたにもかかわらずだ。おそらくそれは民族の歴史と、ミュシャが作品に込めた思いを十分に理解していないからだろう。ミュシャのアール・ヌーボーの作品を見る機会はこれからいくらでもあると思うが、《スラブ叙事詩》が日本に来ることはそうそうあることではない。会期が終わるまでにチェコの歴史を学んで再訪したい。[新川徳彦]
関連レビュー
ミュシャ・スタイル|SYNK(新川徳彦):artscapeレビュー
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2017/03/07(火)(SYNK)
INTERACTION OF COLOR 色の相互作用
会期:2017/02/25~2017/03/18
ギャラリーヤマグチクンストバウ[大阪府]
ジョセフ・アルバースがアメリカのブラック・マウンテン・カレッジで行なった講義にもとづき、彼と学生たちが共同制作したシルクスクリーン80点付きの装丁本『INTERACTION OF COLOR』(1963)。同作を展示室の中心に配し、周囲の壁面に、アルバース、アレキサンダー・カルダー、桑山忠明、堀尾昭子、沢居曜子、日下部一司など17作家の作品が並んだ。会場のギャラリーヤマグチクンストバウはミニマルアートで定評のある画廊だが、本展の作品も同系あるいはコンセプチュアルな作品で統一されており、空間全体が美しい調和を奏でていた。まさかここまで充実した内容とは思っていなかったので、不意を突かれたのかもしれないが、その場にいるだけで幸福な気分に満たされる。こんな体験は滅多にできないだろう。
2017/03/07(火)(小吹隆文)
総合開館20周年記念 夜明けまえ 知られざる日本写真開拓史 総集編
会期:2017/03/07~2017/05/07
東京都写真美術館 3階展示室[東京都]
幕末・明治期の写真の研究はあまり目立つ分野ではないのだが、ここ10年あまりのあいだに新たな発見が相次ぎ、大きく進展している。その変化をもたらす大きな要因になったのが、東京都写真美術館で4回にわたって開催された「夜明けまえ 知られざる日本写真開拓史」展だったことは間違いない。2007年の「関東編」を皮切りに、「中部・近畿・中国地方編」(2009)、「四国・九州・沖縄編」(2011)、「北海道・東北編」(2013)と続き、今回その「総集編」が開催されることになった。
同館学芸員の三井圭司が主導したこの展覧会の企画は、まず全国の博物館、図書館、資料館などへのアンケート調査から開始された。アンケートを送付した7987機関のうち、2996機関から回答があり、そのうち358機関に写真が所蔵されていることがわかった。そのことによって、幕末・明治期の「初期写真」の全国的な分布が明らかになり、意外な場所、人物同士の写真の結びつきも見えてきたのだ。
これまでと同様に、今回の「総集編」でも「であい」、「まなび」、「ひろがり」という3部構成で写真が配置されている。西欧諸国から伝えられた写真術に日本人がどのように「であい」、その技術を「まなび」とり、いかに社会のなかに定着、拡大していったのか、そのプロセスを、重要文化財を多数含む実物の写真群でたどる展示は、じつに味わい深く、眼を愉しませてくれる。名刺版の肖像写真を少し高い場所に立てて展示し、写真台紙の表と裏を同時に見せる。また、アルバムを見せる時に、開いたページ以外の写真は複写して横の壁にスライド映写するといった、これまでの展覧会で積み上げられてきた観客への配慮も、すっかり板についてきた。今後の「初期写真」の展示企画の、モデルケースになっていくのではないだろうか。
展示作品の総出品点数が375点におよび、写真を所蔵する機関からの要請で展示期間が限られるため、会期中に4回の展示替えを行なうのだという。観客にとっては、やや不親切なスケジュールになってしまったのが残念だ。また、各作品のキャプションも、もう少し丁寧に、時代背景も含めて記述してほしかった。細かなことだが、そのあたりが少し気になった。
2017/03/06(月)(飯沢耕太郎)
総合開館20周年記念 山崎博 計画と偶然
会期:2017/03/07~2017/05/10
東京都写真美術館 2階展示室[東京都]
山崎博自身が発案したという展覧会のタイトル「計画と偶然」がとてもいい。山崎の写真は、基本的に被写体に依拠するのではなく、カメラとフィルムという光学装置をある条件の下で使用し、そこに発生してくる「光学的事件」をあたう限り精確に捉えることをめざしている。そこには、「計画」を厳密な手続きで実行することが求められるのだが、実際にはもくろみどおりに事が運ぶことはまずない。代表作といってよい、海面から天空に躍り出る太陽の軌跡を、ND(減光)フィルターを使って長時間露光で写しとめた「HERIOGRAPHY」のシリーズにしても、天候、季節、雲の有無、海面の状態などによって、どんな画像が定着されるかは「偶然」に身を委ねるしかない。つまり「計画と偶然」という、おそらく写真表現のあり方を最も本質的に指し示す言葉の射程に、山崎の45年以上にわたる写真家としての軌跡が、すべて含み込まれているのだ。
今回、東京都写真美術館で開催された、美術館レベルでは最初の大規模展となる本展には、初期から近作まで、211点以上の作品が、ROOM1からROOM7まで、7つのパートに分けて展示されていた。それを見ると、きわめて多様なアイディアに基づく写真群であるにもかかわらず、揺るぎないものの見方が貫かれているのがわかる。自宅の窓からの眺めをさまざまな手法で撮影した「OBSERVATION 観測概念」(1974)と、最新作の「UNTITLED(水のフォトグラム)」(2017)の両方に、自分の手が写り込んでいるのが象徴的だ。山崎には、あくまでも自分の身体の位置にこだわりつつ、写真を媒介にして現実世界のあり方を観測・探究しようとする一貫した姿勢がある。あらためて、その弛みない写真家としての歩みを、じっくりと見直すことができた。
展示構成については、一言いいたいことがある。ROOM1からROOM7までの区分と、作品の並べ方とが、特に後半になると混乱してくる。各作品にはキャプションがついてないので、観客は入口で渡されるリストの番号を頼りに見ていかなければならないのだが、その番号順に作品が並んでいないので、より混乱に拍車がかかる。必ずしも年代順に展示する必要はないが、もう少しすっきりと会場を構成してほしかった。
2017/03/06(月)(飯沢耕太郎)
ソーシャリー・エンゲイジド・アート展 社会を動かすアートの新潮流
会期:2017/02/18~2017/03/05
アーツ千代田3331メインギャラリー[東京都]
ソーシャリー・エンゲイジド・アート。訳せば「社会的につながる芸術」ですかね。長いんで「SEA」と略す。これまで「コミュニケーションアート」「関係性の美学」「アート・アクティヴィズム」「地域アート」などと呼ばれてきた、社会とかかわるアートの総称だ(でもそれぞれ少しずつ守備範囲が異なる)。出品はペドロ・レイエス、西尾美也、アイ・ウェイウェイ、スザンヌ・レイシー、丹羽良徳ら。社会とかかわるアートだから、成果物(作品)はあまり重視されず、おのずとこうした展覧会は資料展か記録展にならざるをえない。それはそれで貴重なものだが、そもそもこうしたギャラリーに収まるアートへの反動として生まれた側面もあるので、展覧会として見せるのはどうなんだろうという疑問もある。そのことも含めて、問題提起としては価値ある企画だ。
2017/03/05(日)(村田真)