artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
岡本光博 69
会期:2016/09/10~2016/10/08
eitoeiko[東京都]
某ヴィトン社のモノグラム入りのバッグでバッタをつくった《バッタもん》をはじめ、漫画「ワンピース」のキャラクター人形をつなげてワンピースに仕立てた《ワンピース・ワンピ》、奈良某の犬に軍帽を被せてガマグチにした《犬死》(村上某のDOB君を逆さまにした《BOD君》もある)、放射能汚染廃棄土を入れる黒いバッグに目玉をつけた《モレシャン》、福島県に山積みされているそのバッグに目玉をつけて撮影した《モレシャンズ》……。徹底して権威をこき下ろし、禁忌に挑戦している。しかもそれを嘲笑に変えている。これはアートのひとつの原点ですね。どこか彼の回顧展をやってみようという美術館はないだろうか。でもやったら最後、“自爆展”になりかねないが。
2016/09/24(土)(村田真)
あいちトリエンナーレ2016
会期:2016/08/11~2016/10/23
芸術文化センター、長者町ほか[愛知県]
あいちトリエンナーレ2016をまわる。芸文センターは、2週目の鑑賞だ。メタ・ミュージアムというか、収集・コレクション系の作品が多く、実際に展覧会内ミニ展示やリサーチ・プロジェクトも複数企画されており、さまざまなモノが並ぶ、というのが今回の特徴だろう。やはり、芸術監督の個性がよく出ている。長者町の会場は3週目だが、2010年以降のあいちトリエンナーレを契機にこのエリアは本当におしゃれなお店が増えた。またトリエンナーレ会場になった建物は、経済が活性化しているために、多くが解体の運命で消えていく。
2016/09/24(土)(五十嵐太郎)
山本聖子「色を漕ぐ:Swimming in Colors」
会期:2016/09/10~2016/09/25
Gallery PARC[京都府]
メキシコとオランダでのレジデンス経験を機に、近年、「色」を手がかりとした思考と制作を展開している山本聖子。本個展では、新作3点が発表された。
《からっぽの色》は、「“からっぽ”という言葉を聞いて何色を思い浮かべるか?」という質問を、日本・オランダ・メキシコなどさまざまな国の街頭で投げかけたインタビュー映像。「白」や「透明」という答えが多い日本人。国籍は異なっても、「空は何もない空間だから青」という答えも共通する。子供の頃に読んで怖かった本の記憶から「黒」と答える人、「血の色だから赤」と言うメキシコ人、平らな草原を見渡して「ここには何もないから緑だ」と言うオランダ人。「からっぽの色」という抽象的な概念だからこそ、各自が想像する答えの多様性は、文化、歴史、宗教、個人的な記憶、環境などが背後にあるのだろう。「継続中」という本作はまだ素材集めの習作段階と言えるが、より掘り下げた探究が作品として結実するのを待ちたい。
一方、《私の身体の一部は、私の生まれた国に行ったことがない。》は、作家自身を含め、空港や語学学校などで集めた「メキシコにいた外国人」の髪の毛を、「メキシコ滞在期間に伸びた部分(根元の方)/メキシコに来る以前から生えていた部分(先端の方)」に2分割して並べたもの。《からっぽの色》とは対照的に、国籍、人種や民族、性別、価値観といった多様性が、標本のように情報へと還元化されているが、「国籍」という規定の自明さが、「私の一部」であるはずの身体細胞によって、かくもあっけなく裏切られることを示している。この先にあるのは、「もし、全ての体細胞が『メキシコ生まれ』に入れ替わったら、その身体は『メキシコ人』と言えるのか」という、ナショナリティの自明性への問いである。
また、出色だったのが《きみの内に潜む色》。茶褐色に濁った水槽の一面に、さまざまな人々のポートレイトが1人ずつ投影されるが、その映像は波に揺られる船のように上下に不安定に揺れている。彼らは船に乗っていたり、背景に水辺が映っていることで、旅や移動、海を越えて移動する移民の不安定な生やアイデンティティを連想させる。一方、濁った水槽には、枯葉や木の枝、泥が堆積し、さらに内部を見通せない物質的厚みが「沈殿した記憶の器」を想起させる。土や泥、落ち葉の断片、さまざまな色が混じりあった濁りと、船を「漕ぐ」ような不安定な揺動。私たちはそれぞれ、「記憶の器」を抱えながら、不安定だがフレキシブルな揺らぎを生きているのだ。
2016/09/24(土)(高嶋慈)
彦坂尚嘉「FLOOR EVENT 1970」
会期:2016/09/09~2016/10/29
MISA SHIN GALLERY[東京都]
彦坂尚嘉は1970年に、自室の八畳間と縁側に工業用ラテックスを流し込み、そのプロセスを記録するというパフォーマンスをおこなった。彦坂が所属していた美術家共闘会議(美共闘)は、この頃「1年間、美術館と画廊を使用せずに、おのおの1回ずつ有料の美術展を開催する」というプロジェクトを展開しており、この「FLOOR EVENT」もその一環として企画されたものである。彦坂が全裸でラテックスを撒く作業は、友人のアーティスト小柳幹夫が補助し、その様子を現代音楽家の刀根康尚が彦坂の用意したカメラで記録した。その後、彦坂自身が、ラテックスが乾いて、乳白色から透明になっていく過程を撮影している。ラテックスは10日後に床から剥がされた。
小柳と刀根以外は観客なしで、ひっそりと行なわれたこのパフォーマンスは、だが写真によって記録されることで、「アート作品」として自立していくことになる。翌71年には、第1回美共闘Revolution委員会のプロデュースで、記録写真による個展が開催されており、今回のMISA SHIN GALLERYでの展示には、ヴィンテージ・プリントと個展の案内ハガキが出品されていた。前衛アーティストたちの、体を張ったパフォーマンスの記録は、当時の空気感をいきいきと伝えてくれるだけでなく、一過性のイベントをアート作品として成立させるために、写真メディアが不可欠の役割を担っていることを明らかにする。この作品だけでなく、羽永光利や平田実による1960~70年代の前衛美術家のパフォーマンスの記録写真が注目を集めているのは、単にその資料的な価値というだけではないはずだ。パフォーマンスを画像として封じ込める写真が、むしろその行為の意味を補強・増幅し、魔術的なイメージに変換するのに一役買っているということだろう。
2016/09/23(金)(飯沢耕太郎)
みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ2016
会期:2016/09/03~2016/09/25
山形県郷土館「文翔館」、とんがりビル、BOTA coffee & BOTA theater、山形県緑町庭園文化学習施設「洗心庵」ほか[山形県]
山形ビエンナーレへ。おそらくあまり予算はなく、入場無料なので仕方ないかもしれないが、作家や内容の山形縛りが強過ぎるかもしれない。その結果、どうしても同じ人物が何度も登場し、持ち弾が少ないように見えてしまう。作品としては、デザイン系よりもアートの方が印象に残る。メイン会場の文翔館では、魚市場で働きながら生涯独自の絵を描き続けたスガノサカエを知ったことが収穫だった。日本近代美術史を振り返る若手の久松知子も参加している。前回、「東北画は可能か?」が面白かった東北芸工大の会場に行く時間は、残念ながらとれなかったが、街中は一通りまわれた。ギャラリー絵遊・蔵ダイマスは一目見て、建築家物件だなと思ったら、やはり竹内昌義さんの設計である。リサーチを伴う田中望の巨大な絵画が天井高のある空間をうまく使っていた。
写真:左上2枚=スガノサカエ 左下=久松知子 右=上から、《ギャラリー絵遊・蔵ダイマス》、田中望
2016/09/23(金)(五十嵐太郎)