artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
早瀬道生 個展「表面/路上/その間」
会期:2016/09/13~2016/09/18
KUNST ARZT[京都府]
「メディアと写真」について対照的なアプローチで問う2作品が発表された、早瀬道生の個展。《Newspaper/20160711》は、タイトルの日付に発行された、複数の新聞の一面と社会面を複写し、画像をレイヤー状に重ねたもの。メディア報道によって共有化された情報が過剰に重ねられていくことで、画面はノイズの嵐と化し、むしろ不可視に近づく。早瀬はこのシリーズを昨年から続けており、《Newspaper/20150716》《Newspaper/20150918》《Newspaper/20150920》を制作している。不明瞭な紙面と対照的に、唯一クリアな情報として残ったこれらの「日付」はそれぞれ、安保法案の採決が衆院を通過した日、民主党が提出した安倍首相の問責決議案が参院にて反対多数で否決された日、そして安保法案が前日未明に成立したことが報じられた日である。真っ黒に塗りつぶされて「読めない」紙面は、情報の不透明さや検閲の存在を示唆するかのようだ。そして、これら3つの日付の延長上にある、新作の《Newspaper/20160711》。この日付は、前日の参院選の結果、改憲4党が憲法改正発議に必要な2/3(162議席)に達したことが報じられた日である。
この日付はまた、もう1つの出品作《Take Takae to here》にも関連する。この作品では、機動隊員の青年のポートレイトが12枚、観客を無言で包囲するように壁にぐるりと展示されている。「見つめられている」という感覚は、写真における擬似的な視線の交差であると分かっていても、かなり居心地悪い。よく見ると、彼らの背後には白いフェンスや車両、路上のブルーテントが写っている。タイトルの「Takae」は、米軍のヘリコプター着陸帯(ヘリパッド)の移設工事をめぐって、反対運動が起きている沖縄県東村高江地区を指す。「20160711」は、参院選の翌日、建設資材の搬入が突如始まり、全国から機動隊が集められた日でもある。ヘリパッド移設の撮影取材ができなかった早瀬は、反対運動のデモ隊に混じり、自分を取り囲む機動隊にカメラを向けて撮影。ポートレイトとして展示することで、「本土へ引き取ることが難しい基地の代わりに、本土から沖縄に派遣された機動隊員をここに連れ戻そうと試みた」という。
《Take Takae to here》の異様な不気味さは、至近距離でカメラを向けられても動じず、直立不動の姿勢で立ち続ける機動隊員たちの「顔」にある。「個」を消す訓練を受けているであろう機動隊員たちは、制服という装置もあいまって、一見、均質で無個性で、集団の中に埋没しているように見える。しかし、至近距離でカメラを向けるという行為が、そこへ裂け目を穿つ。職務としての機動隊員というペルソナが引き剥がされ、「個」としての顔貌がさらけ出される。表情や目線の微妙なブレに表われた、一瞬の心理的な反応を、カメラは捕捉する。真っ直ぐ見つめ返す、訝しげににらむ、伏し目がちに目をそらす、虚空を見つめ続ける……。眼差しや表情の差異は、ほぼ等身大のプリントともあいまって、機動隊という集団的な枠組みから切り離し、「個人」として眺めることを可能にする。
彼らが見ているものは何か。彼らの眼差しの先にある、「不在」の対象は何か。カメラという装置の介在によってここに凝縮されているのは、国(及びその背後の米軍)と沖縄、本土から派遣された機動隊員と沖縄市民、という構図である。無関心、無視、困惑、苛立ち、不信感、動揺……。《Take Takae to here》は、(一方的で都合の良いイメージの収奪としての)「沖縄の」像ではなく、「沖縄への」私たち本土側の視線である。向けられたカメラは鏡面となり、写真を鏡像として送り返す。そして、写真の中の機動隊員たちが見つめている、あるいは目をそらそうとする「不在」の対象とは、「沖縄の基地問題」に他ならない。
ポートレイトにおける「個」と「集団」、「見る」/「見られる」関係性がはらむ権力構造に加え、「写真と眼差し」の問題を通して、沖縄をめぐる視線の場をポリティカルに浮かび上がらせた、優れた展示だった。
2016/09/16(金)(高嶋慈)
未知の表現を求めて ─吉原治良の挑戦
会期:2016/09/17~2016/11/27
芦屋市立美術博物館[兵庫県]
関西に住んでいると、美術館で吉原治良の作品に出合う機会が多い。そのせいか、彼の主要作品を知っている気になっていたが、本展を見てそれが浅はかな思い込みだと分かった。本展は、芦屋市立美術博物館と大阪新美術館建設準備室(以下、大阪新美)のダブル主催だが、出展数約90点のうち約2/3が大阪新美のコレクションで、大阪新美が吉原作品をまとめて公開するのは2005年の「生誕100年記念 吉原治良展」以来だという。しかも初公開の作品が約20点もあるというのだから、筆者以外にも驚いた人は多いと思う。展示は年代順に構成され、戦前から終戦直後の作品に見慣れないものが少なからず含まれていた。展覧会のクライマックスは具体美術協会結成から晩年に至る期間だが、ここでの導線が少々ややこしく、先に最晩年の展示が見えてしまうのが惜しい。しかし、展覧会としての充実度は高く、優れた回顧展としておすすめできる。
2016/09/16(金)(小吹隆文)
毒山凡太郎「戦慄とオーガズム」
会期:2016/08/27~2016/09/24
駒込倉庫 Komagome SOKO[東京都]
キュンチョメと同じく、近年目覚ましい活躍を見せている毒山凡太郎の個展。同じ会場の2階で、旧作と新作あわせて6点の作品を発表した。いずれも同時代の社会問題と彼自身との距離感を感じさせる作品ばかりで、大変見応えがあった。明らかに毒山は今回の個展で新たなステージに飛躍したように思う。
先ごろ強制撤去された経済産業省前の脱原発テント村を主題にした《経済産業省第四分館》や高村光太郎の妻、高村智恵子が残した言葉「ほんとの空」を叫び続ける《千年たっても》など、出品された映像作品の大半はすでに発表されたものである。しかし、週末深夜の駅構内で酔いつぶれた酔客に企業のロゴで象った日の丸をやさしく被せる《ずっと夢見てる》は、同じコンセプトで制作された過去の作品を適切なかたちでアップデートしたものだ。前作は肝心のロゴが映像ではよく確認できなかったが、今回の作品ではカメラの画角やパフォーマンスを丁寧に心がけることで、その難点をみごとに克服していた。
なにより傑出していたのが新作《これから先もイイ感じ》である。映像に映されるのは土間に座り込んで泣き続ける赤ちゃんと介護施設のトイレで毒山自身の手を借りつつもなかなか立ち上がることのできない入所者の御老人。いずれも、立つことがままならない。人間の条件のひとつが立ち上がる運動性にあるとすれば、両者はともに人間の条件から大きく逸脱していることになる。しかし、双方はともに人間であれば誰もが通過せざるをえない現代社会の両極なのだ。
だが、毒山は誰もが眼を背けがちなそのような社会の盲点を私たちに突きつけるだけではない。毒山自身が介護施設の職員として日々労働しているという背景を知らずとも、この映像は私たちに非常に大きな衝撃を与えてやまない。映像の前には、その赤ちゃんの足を象ったいくつかの石膏がまとめて吊り下げられていたが、いずれも赤く染まっている。映像の終盤、毒山自身がその血塗られたかのような石膏の足をひきずりながら、黄昏時の海岸を無言で歩いてゆくのだ。一直線に伸びる路の向こうにゆっくりと消えてゆく毒山。それは、生まれてくる未来の子どもたちと、やがて死にゆく老人たちとを両肩に背負いながら、それでもなお前進していかねばならない現在の私たち自身の自画像ではなかったか。映像に染みわたる夕暮れの光が、やるせないほどの寂寥感と絶望感、そしてほんのわずかの力強さを浮き彫りにしていた。私たちに希望があるとすれば、それは血によって彩られているのだろう。
2016/09/15(木)(福住廉)
キュンチョメ個展「暗闇でこんにちは」
会期:2016/08/27~2016/09/24
駒込倉庫 Komagome SOKO[東京都]
キュンチョメの新作展。2階建ての倉庫をリノベーションした会場の1階のフロアをすべて使用して展示を構成した。出品された作品の大半は、トーキョーワンダーサイト本郷で催された「リターン・トゥ」(2016年4月16日~5月29日)などですでに発表されたものだったが、それでも質の面でも量の面でも充実した展観だった。
《ここで作る新しい顔》は、《新しい顔》をバージョンアップしたもの。後者は、はるか遠い場所から逃れてきた難民と新しい場所で、福笑いのように新しい顔をつくる映像作品だが、前者は実際に東京に在住する難民を会場に常駐させ、来場者とともに目隠しをしながら新しい顔をつくるライブ・パフォーマンス作品である。来場者は、おのずと生々しいリアリティーとともに難民問題に直面することを余儀なくされるのである。
なかでもひときわ強い印象を残したのが、新作の映像作品《星達は夜明けを目指す》(2016)。暗闇のなか星座のような明かりが見えるが、それらが小さく揺れ動きながらだんだん近づいて来ると、7人の男女が二人三脚の状態で横一列になってこちらに進んでいることがわかる。彼らはロンドンで暮らす移民や難民で、口にそれぞれライトを咥えている。言葉を発することがないまま、目前の明かりを頼りに足並みをそろえて前進する姿。むろん彼らの逃避行をそのまま再現したものではないにせよ、その脱出と流浪の軌跡を象徴的に示したパフォーマンスと言えるだろう。
以上の3つの作品はいずれも移民問題を主題にしているが、ここに通底しているのは向こうからこちらにやってくるというイメージである。《星達は夜明けを目指す》は言うまでもないが、《新しい顔》にしても《ここで作る新しい顔》にしても、いずれも難民問題が決して遠い向こうの国の出来事だけではなく、まさしくこの国とも無縁ではないことを端的に示している。難民は向こうからやってくるものなのだ。
だが、このイメージは実はキュンチョメのこれまでの作品には見られない新たな局面を示しているようにも思う。なぜなら、彼らの秀逸な作品はいずれも、こちらから向こうに出かけていくイメージが強かったからだ。福島の問題にせよ富士の樹海における自殺問題にせよ、彼らは生々しいリアリティーのありかを求めて率先して各地に出かけてゆき、そこで何かしらの作品を表現してきた。むろん以上の3作品も海外へのレジデンスが基盤となっていることに違いはない。けれども、そのようにして制作された作品だとしても、そこにこれまでとは正反対のイメージが立ち現われていることの意味は決して小さくないはずだ。
それは、おそらくこちらとあちらの双方向的なコミュニケーションなどを指しているわけではない。そうではなく、むしろこちらが待ち構えることの意味を彼らが重視していることの現われではないか。待ち構えるからこそ、向こうからやってくるものに遭遇し、それらを受け入れることができる。《星達は夜明けを目指す》で彼らがカメラを通過する瞬間のぞくぞくした感覚こそ、待ち構える態度の醍醐味である。
2016/09/15(木)(福住廉)
津田直「IHEYA・IZENA」
会期:2016/08/19~2016/09/17
POST[東京都]
津田直が辺境の地の人々の暮らしや儀礼を「フィールドワーク」として撮影するシリーズも、「SAMELAND」(2014)、「NAGA」(2015)に続いて「IHEYA・IZENA」で3作目になる。そのたびに、東京・恵比寿のPOSTで写真展が開催され、同名の写真集(デザイン・田中義久)が刊行されてきた。
今回、津田が撮影したのは沖縄本島北西部に位置する伊平屋島と伊是名島。2012年から福岡に住むようになったのをきっかけにして、沖縄を訪ねる機会が増え、本シリーズが少しずつかたちをとっていったという。北欧の住人たちを撮影した「SAMELAND」や、ミャンマー奥地のナガ族を取材した「NAGA」は、それほど長くない旅の時間から産み落とされてきたシリーズだが、「IHEYA・IZENA」は何度も島を訪れ、じっくりと熟成させていったものだ。その分、写真の構成に厚みが増し、信仰と深く結びついた住人たちの暮らしの細部が、鮮やかに浮かび上がってきた。「三部作」の掉尾を飾るのにふさわしい充実した写真群といえる。
津田の「フィールドワークシリーズ」は、これで一応完結ということだが、世界中に足跡を記す彼の写真家としての旅は、これから先もずっと続いていくのだろう。だが、そろそろ彼の世界観、写真観をもっと強く打ち出していかなければならない時期に来ているのではないかと思う。これまでの彼の写真シリーズは、それぞれの旅の目的地ごとにまとめられることが多かった。断片的に情報を提示していくのではなく、それらを統合する思考と実践の軸が必要になってきている。かつて『SMOKE LINE』(赤々舎、2008)で試みたような、いくつかの場所をつないでいく、より大きな視点の取り方が求められているのではないだろうか。
2016/09/14(水)(飯沢耕太郎)