artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

カンコウツウコウ展─秋の会合─

会期:2016/09/06~2016/09/11

SARP[宮城県]

毎年、秋にSARP(仙台アーティストランプレイス)を会場に開催されている「仙台写真月間」。今年は山田静子、小野寺香那恵、カンコウツウコウ「(阿部明子+榎本千賀子)、花輪奈穂、酒井佑、小岩勉、野寺亜季子が参加したが、そのうちカンコウツウコウの展示を見ることができた。
カンコウツウコウは、阿部明子(1984- 宮城県生まれ)と榎本千賀子(1981- 埼玉県生まれ)が今年結成したばかりの写真制作ユニットである。今年になって、阿部は仙台から宮城県小牛田に、榎本は新潟から福島県金山町に住まいを変えた。その「新生活を報告しつつ、共同制作の可能性」を探るというのが本展の企画意図で、SARPの2つのスペースでは、それぞれの新作の展示のほか、ある1枚の写真を起点にして、阿部が榎本の、榎本が阿部の写真を選んで交互に並べるなど、2人の写真を交差・浸透させる試みが展開されていた。阿部の新作は、自宅の庭を撮影した複数の画像を大きく出力して、微妙にずらしたり重ね合わせたりする作品であり、榎本は日々の暮らしを記録した断片的な写真群に、メッセージを記した手紙を添えている。それらのメイン展示を中心に、2人の写真が触手を伸ばすように絡み合って、洗練されたインスタレーションが成立していた。
阿部と榎本は、写真による風景表現の可能性を模索して2013年から毎年開催されているグループ展「リフレクション」(ディレクション/湊雅博)のメンバーでもある。個の表現と共同性とをどのように両立させていくのかは大きな課題だが、このユニットの活動は今後も充分期待できそうだ。

2016/09/11(日)(飯沢耕太郎)

第15回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展 ドイツ館ほか

会期:2016/05/28~2016/11/27

[イタリア、ヴェネチア]

日本館のピロティは縁側空間となっていたが、ほとんど人は滞留せず、対照的に、隣りのWi-Fiフリー、充電OKのドイツ館は人がたまっていた。ここは国が難民を受け入れるように、建物を24時間開放する場所に変えた。ジャルディーニのパヴィリオンのなかで最もいかついドイツ館の壁を本当にあちこちぶち抜くという改造を実施(閉じるドアもない)しており、通常の状態を知っているとより驚かされる。またデントン・コーカー・マーシャルの設計で新しくなったオーストラリア館は、黒い箱となって水辺との関係性を強く打ち出す。内部に入ると、本物の大きなプールがあって度肝を抜く。展示は同国におけるプール建築をテーマとするが、水に足を浸してくつろぎ、来場者にその場を楽しませる空間演出だった! 金獅子賞になったスペイン館は、未完成というテーマ、洗練させた展示インスタレーションもいいけれど、何より紹介されている作品群のデザインのクオリティが異常に高いことに感銘を受けた。かなりの数だったが、それらのレベルが一様に高く、説明があまりなくても、写真だけでも十分に記憶に残る造形力である。そして個人的に強く印象に残ったのは、ロシア館だった。ソ連が1930年代以降に開催してきた巨大博覧会の建築をたどる。ミースの高層ビルが登場する同時代にアナクロな古典主義ががんがんつくられており、完全に建築史の空白である。以前もロシア館は冷戦時代の秘密工場の展示をやったが、知らない歴史は本当に面白い。なお、ジャルディーニでは、日本館とベネズエラ館がリニューアル工事をしていた。前者は伊東豊雄事務所が関わり、後付けのスロープを側面に変えるなど、なるべく吉阪建築の原形をリスペクトした介入である。またベネズエラ館は以前よりもカルロ・スカルパのデザインがくっきりと感じられて、初々しい感じになった。

写真:左=上から、ドイツ館、穴があけられたドイツ館、オーストラリア館 右=上から、スペイン館、ロシア館、ベネズエラ館

2016/09/11(日)(五十嵐太郎)

第15回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展 日本館「en[縁]:アート・オブ・ネクサス」

会期:2016/05/28~2016/11/27

[イタリア、ヴェネチア]

日本館は数を絞り込む例年とは違い、10組以上が参加したが、展示のデザインを巧みにまとめていた。ただ、説明を読む観客はほとんどいない。短時間滞在で視覚的に記憶されるのは増田・大坪とヨコハマアパートメントだろうか。なお、1970年代に磯崎新が成功させた間(MA)展から約40年、21世紀になっても、「縁(en)」という日本古来のマジックワードを使って海外に効率的に売り出すというやり方は、変わらないのかという思いもある。筆者が2008年のビエンナーレにおいて、石上純也の温室を展示したとき、そういう説明はこちら側からしないと踏ん張ったのだが(それでも海外は日本的だと評価するけれど)。

2016/09/11(日)(五十嵐太郎)

第15回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展 ジャルディーニ地区

会期:2016/05/28~2016/11/27

[イタリア、ヴェネチア]

ヴェネツィアビエンナーレ国際建築展2016のジャルディーニ会場へ。2014年のコールハースがディレクターだったときは、圧倒的な情報量で見るのが大変だったが、今年はだいぶ楽にまわれる。ただし、歴史的なリサーチを各国館に強いたのはクオリティを一定水準にする底上げ効果があったようで、館ごとのばらつきは大きい。ヨーロッパのパヴィリオンは難民問題を扱うものが複数見受けられた。これに対し、国家として難民受け入れの可能性が低く、近隣コミュニティの「縁(en)」を掲げた日本館は、日本らしいかもしれない。またチリの建築家がディレクターだったためか、全体的に非西洋圏のプロジェクトが目立ったことも、今回の特徴と言える。もっとも、内容・主張は別にして、単純に楽しめるかどうかで言うと、これまで見てきたビエンナーレのなかでは、今回の展示はあまり面白くない。建築の社会性を見せる展示はどうしても説明的になってしまうからだろう。

2016/09/11(日)(五十嵐太郎)

横田大輔「MATTER / 」

会期:2016/09/02~2016/10/23

G/P gallery Ebisu[東京都]

デジタル画像とインターネットの時代における写真アーティストたちの多くは、現実世界の様相をストレートに提示する写真のあり方に懐疑的だ。それはそうだろう。物心がついたときから、加工、改変、再編が自在にできるヴァーチャルなメディアにどっぷりと浸かっていた彼らにとって、現実とは強固で不変なものであるわけはなく、むしろ画像を再構築、再組織化するための材料として利用すべき対象だからだ。彼らはデジタルカメラやスキャナーなどで画像を取り込み、それらを増殖・分裂させたり、ほかの画像と合成したり、別な媒体に上書きしたり、3D化したりする。そんなリミックス的な「写真」作品は、2010年代以降、どうやら日本だけでなく世界中に広がりつつあるようだ。
横田大輔も、デジタル化以降の写真表現の拡張と加速化を、最前線で推し進めようとしている一人である。だが、彼の作品には「テーブル・マジック」(シャーロット・コットン『写真は魔術 アート・フォトグラフィーの未来形』(光村推古書院、2015))のような小手先の操作が目につくほかの作家たちとは、やや違った肌触りを感じる。それは、今回G/P galleryで展示された新作「MATTER」にもあらわれていた。「MATTER」は2015年に中国・アモイで開催されたJimei X Arles国際写真フェスティバルに出品したロール紙に出力した大量の写真を、展示終了後に空き地で焼却するというパフォーマンスの記録である。その経過は約4,000カットの画像データとして残されたが、横田はそれらを再び紙にモノクロームで出力し、ワックス加工したうえで、皺くちゃに丸めてギャラリーの床の上に撒き散らし、積み上げた。ほかに動画による記録映像や、炎上の様子をカラー画像で出力した写真も展示されていた。
出力、再出力を繰り返すことで、元の現実とヴァーチャルな現実との境目が消失し、ただの「情報」と化していくプロセスへのこだわりは、「ポスト・インターネット」世代のほかの写真家、アーティストたちとも共通している。だが、横田は写真画像の変換・加工を、無制限に自由な移行とは考えていない。ぎくしゃくとして無骨な彼のインスタレーションには、自らの身体性の限界、情報化し切れない写真画像の物質性(肉体性)に対する、圧倒的に過剰なこだわりがある。横田は赤石隆明との対談で「制限や負荷って重要なんだと思う。鬱屈したり、欠落した何かからしか表現は生まれないから」(『invisible man/ magazine 05: TRANS#1』G/P GALLERY, 2016)と語っている。小林健太との対談では「壊れた状態からしか何かを見出せなくなってるのかも」(同)と述べる。このような切実な「現実」感覚は貴重であり、信頼できる。彼の、一見写真から遥か遠く離れたもがきこそが、「写真家」の本質的なあり方を体現しているのではないか。

2016/09/10(土)(飯沢耕太郎)