artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
塩田千春「鍵のかかった部屋」
会期:2016/09/14~2016/10/10
KAAT神奈川芸術劇場[神奈川県]
昨年のヴェネツィア・ビエンナーレ日本館に出品した塩田千春の帰国記念展。なんですぐ近くの神奈川県民ギャラリーを使わず、わざわざKAAT(神奈川芸術劇場)のスタジオでやるのかよくわからないが、一説によればキュレーターの中野仁詞氏がKAATの担当になったからだという。そもそも中野氏が県民ギャラリー時代に塩田千春の個展を開き、高く評価されたことがヴェネツィアにつながったとすれば、同じギャラリーでやることもないかと勝手に納得。さて、スタジオに入ると、黒い部屋のなかに赤い毛糸が張り巡らされ、5つの古びたドアが円状に設置されている。その奥には赤い毛糸から無数の古い鍵がぶら下がっている。ヴェネツィアに展示された船はない。毛糸は一巻き75メートルのものを3千個、総延長200キロ以上使ったという。これはKAATからいわき市までの距離に匹敵するらしい。また、鍵は世界中から提供されたうちの1万5千個をぶら下げたという。すごい量だが、糸は細いし鍵は小さいから圧倒感はない。もともと塩田の作品はドラマチックな上、今回は会場が演劇用のスタジオで照明も劇場用のせいか、いつにも増して演劇的に感じるなあ。
2016/09/18(日)(村田真)
ルーヴル美術館特別展 ルーヴルNo.9 漫画、9番目の芸術
会期:2016/07/22~2016/09/25
森アーツセンターギャラリー[東京都]
フランスの漫画はバンド・デシネ(BD)と呼ばれ、「第9の芸術」ともてはやされている。そもそもバンド・デシネは日本の漫画のように量産されたり、週単位で雑誌に掲載されたりするものではなく、初めから単行本として描き下ろされる場合が多い。紙質もよく、フルカラー印刷なので値段も高いため、子どもが読み捨てるものではない。と解説に書いてあった。なるほど、だから「芸術」なのね。そこでルーヴル美術館もバンド・デシネに目をつけ、ルーヴルをテーマに自由に描いてもらうという「ルーヴル美術館BDプロジェクト」を企画したってわけ。展示されているのは、日本人を含めた16人の漫画家。でも漫画の原画って小さいうえに枚数が多いから、美術館での展示には向いていないんだよね。だからここでは一部しか見せておらず、ストーリーを追っていくと不満が残る。逆にストーリーを追う必要がなく、1枚でも見るに耐える作品もある。ダヴィッド・プリュドムの「ルーヴル横断」がいい例だ。いちおうストーリーはあるらしいが、ルーヴルの所蔵作品と観客をおもしろおかしく対比させたり、額縁とコマ割りを巧妙にダブらせたり、1枚ごとに堪能できる。エンキ・ビラルの「ルーヴルの亡霊」は1枚1コマで、作品の写真や館内の展示風景に亡霊の絵を重ねたもの。こういう実験的な試みは日本人には少ない。日本人は谷口ジロー、荒木飛呂彦、松本大洋、五十嵐大介、寺田克也、ヤマザキマリ、坂本眞一が出しているが、ほとんどストーリー中心で、絵だけで見られるのは寺田くらい。漫画文化の違いですね。
2016/09/18(日)(村田真)
青野文昭 個展
会期:2016/09/07~2016/09/18
gallery TURNAROUND[宮城県]
仙台を拠点に活動している青野文昭の新作展。遺物(異物)を異物(遺物)と接合しながら「なおす」作風によって知られる造形作家で、とりわけ3.11以後の造形表現を考えるうえで注目を集めている。先ごろ東京藝術大学大学美術館で催された「いま、被災地から──岩手・宮城・福島の美術と震災復興」展(2016/05/17~2016/06/26)では、収納用具と衣服を融合させることで、いままで以上に人間の気配を強く醸し出していたが、今回の個展でも、その特徴をさらに押し広げた作品を発表した。
縦に長い箪笥が2つ、お互いに体重を預けるかのように支え合っている。その外形がすでに「人」という文字を連想させるが、それらのうちの一方に埋め込まれた衣服が赤く着色されていることもまた、人間の血肉を感じさせてやまない。水平方向に寝かせられた別の作品にしても、表面に描き出された人型が実物のブーツを履いているので、いまにも立ち上がりそうな雰囲気だ。物であることにはちがいないし、決して人間そのものでもないのだが、だからといって単なる物として割り切ることも難しい。青野は文字どおり人間と物質のあいだを──もの派的な作法とは異なるかたちで──巧みに切り開いているのである。
ここで脳裏をよぎったのが、漫画家の諸星大二郎による短編「壁男」。壁男とは、アパートやマンションなど、室内の壁の中から住人の暮らしを観察する者たちだ。時として別の壁に移動することもできる、ある種の肉体をもちながらも、機能面では視線に特化している。つまり壁男とは、もっぱら「見る」ことに専念する近代的な視線の象徴である。青野による人間が埋め込まれたかのような造形物は、肉体こそ残されていないにせよ、あたかも壁男の存在を物語っているかのように見えた。いや、より正確に言えば、青野による造形物の中に壁男がいるかのように「見えた」というより、むしろその中から壁男によって「見られていた」ような気がしたのだ。
むろん、これは主観的な印象にすぎない。だが青野は、会場の一角に学生時代の課題として取り組んだ恐山のフィールドワークの記録を置いていた。写真と文章で構成されたそのフィールドノートは確かに貴重なものだが、むしろ強調したいのは、壁男と恐山の共通性である。それらは、いずれも私たちに「見られている」ことを強く意識させるからだ。通常、私たちは壁男の存在を知らないため「見られている」ことを意識することはない。だが、ひとたびその存在を認識するや、自分が彼らに「見られている」恐れが心のなかで果てしなく膨張してゆくのだ。恐山にしても、此方から彼方を見通すことができるわけではないが、彼方からは此方を見ているような気がしてならない。だからこそ参拝客は、心の内側に刻み込まれた深い傷を「なおす」ために、イタコの口寄せに頼らずとも、その一抹の可能性を信じていまもこの霊山を訪ねているのだろう。
青野文昭の作品が優れているのは、「見る」ことや「見られる」ことを含めて、造型表現の可能性を真摯に突き詰めているからだ。だが、その真骨頂は、そうした造型表現の展開を、従来の戦後美術の大半がそうしてきたように、人間の営みと切り離すのではなく、あくまでも人間の存在と同伴させているところにある。それは美術にとっての新たな原点になりうるのではないか。
2016/09/17(土)(福住廉)
杉本博司 ロスト・ヒューマン
会期:2016/09/03~2016/11/13
東京都写真美術館[東京都]
写真美術館のリニューアルオープンは2フロアを使った杉本博司の個展だが、これはおったまげた。展覧会は3階の「今日 世界は死んだ もしかすると明日かもしれない」と、2階の「廃墟劇場」および「仏の海」の3部構成だが、3階は写真がほとんどない。いやたくさんあるのだが、それ以上に杉本が集めたおびただしい量の化石、古書、土器、看板、ポスター、隕石、能面、能装束、バービー人形、解剖図、卒塔婆、ラブドールなどのコレクションであふれ、そういえば杉本の写真もあったなあってなもんだ。展示は「理想主義者」「古生物研究者」「ラブドール・アンジェ」「安楽死協会会長」「宇宙飛行士」「コメディアン」など33のカテゴリーに分かれ、それぞれさびたトタン板で仕切られたブースごとにガラクタと写真が並び、「今日、世界は死んだ」で始まる肉筆の文章がそえられている。これを代筆したのは浅田彰、福岡伸一、朽木ゆり子、ロバート・キャンベル、極楽とんぼの加藤浩次ら。どういう人選だ? ともあれ一つひとつ物語仕立てになっているのだ。例えば「ラブドール・アンジェ」は寝椅子にラブドールが横たわり、脇にランプ、背後に杉本の「ジオラマ」シリーズの《オリンピック雨林》が置かれている。手前に《マン・レイによるマルセル・デュシャンのポートレイト》があることから、これがデュシャンの遺作を再解釈したものであることがわかる。ここでは「ジオラマ」は本来の文脈をはぎ取られ、単なる背景画もしくはイラストとしてラブドールに奉仕させられているのだ。ちなみに文章を代筆したのは束芋。いやー楽しかった。2階の「廃墟劇場」もぶっとんでる。映画館のスクリーンに映し出された1本の映画の光で撮影した「劇場」シリーズのいわば未来編で、廃墟となった劇場内部が写し出されているのだ。1枚で「劇場写真」と「廃墟写真」のふたつが味わえるってわけ。もうサービス満点の展覧会。
2016/09/17(土)(村田真)
レオナール・フジタとモデルたち
会期:2016/09/17~2017/01/15
DIC川村記念美術館[千葉県]
昨年は戦後70年でたくさんの戦争画展が開かれ、映画「FOUJITA」が公開されたこともあって、藤田嗣治への関心が高まったが、いまふたつの大きな「フジタ展」が首都圏で開かれている。府中市美術館の「生誕130年記念 藤田嗣治展」は総合的な回顧展だが、こちら川村記念美術館のほうはタイトルにもあるように、モデル=人物表現に焦点を当てた企画だ。それにしても川村で「フジタ展」という取り合わせは意外な気もするが、同館は肖像画《アンナ・ド・ノアイユの肖像》を所有していること(依頼主が気に入らなかったため未完成に終わったというエピソード付き)、そして藤田の最初の妻とみの実家が同館近くの市原市にあったことも関係しているかもしれない。その妻宛の手紙やパリから送られたモード雑誌なども展示されている。作品は初期から晩年まで約90点。戦争画はないが(人物表現としては特殊すぎる?)、例の乳白色の裸婦をはじめ、だらしない姿を見せつける戦前の《自画像》や、細部まで丁寧に描かれた戦後の《ジャン・ロスタンの肖像》など、よく知られた作品もそろっている。圧巻は《ライオンのいる構図》をはじめとする4点の群像表現。3メートル四方の大画面にそれぞれ数十人の人物が描かれた大作だ。この大作志向、物語画志向がのちの戦争画につながっていくのだろうか。
2016/09/16(金)(村田真)