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美術に関するレビュー/プレビュー

プレビュー:Art Court Frontier 2016 #14

会期:2016/08/20~2016/09/24

ARTCOURT Gallery[大阪府]

「Art Court Frontier」は、キュレーター、アーティスト、ジャーナリスト、批評家などが1名ずつ出展作家を推薦し、関西圏の若手作家の動向を紹介する目的で2003年に始まったアニュアル企画。2015年からは、作家数を約10名から4名に絞ることで、各作家の展示スペースが拡大され、ショーケース的な紹介から一歩進んで、4つの個展が並置されたような充実感が感じられるようになった。
筆者は、今年の推薦者として本企画に関わっており、2016年6月15日号と2015年7月15日号の本欄で取り上げた、写真家の金サジを推薦させていただいた。彼女が近年取り組む「物語」シリーズの作品が、2回の個展を経てどう深化した姿を見せるのか、期待がふくらむ。他の出展作家(括弧内は推薦者)は、迫鉄平(表恒匡:フォトグラファー)、水垣尚(堀尾貞治:アーティスト)、鷲尾友公(北出智恵子:金沢21世紀美術館学芸員)。写真、映像、インスタレーション、絵画や立体と表現媒体もさまざまな4名を通じて、何が見えてくるだろうか。

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金サジ「STORY」:artscapeレビュー
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2016/06/27(月)(高嶋慈)

日伊国交樹立150周年記念 世界遺産 ポンペイの壁画展

会期:2016/04/29~2016/07/03

森アーツセンターギャラリー[東京都]

今年は日伊交流150周年ということで、イタリア関連の展覧会が目白押しだ。作品数は決して多くなかったが、単純な第一から線が異様に細い第三様式、そして複合系の第四様式の推移がわかる建築画やエルコラーノの優れた人物画などが展示されていた。第二様式は、近景と遠景にラフな透視図、中景に軸測投影が混ざる興味深い空間の表現である。森タワーのエレベータを降りると、今度はカオス*ラウンジによる東京の場所の記憶を扱う風景地獄展が待ち受けていた。

2016/06/26(日)(五十嵐太郎)

鈴木理策写真展「水鏡」

会期:2016/04/16~2016/06/26

熊野古道なかへち美術館[和歌山県]

田辺市美術館から、熊野の山の中へ分け入り、熊野古道なかへち美術館へ。妹島和世+西沢立衛/SANAAによる美術館建築は、展示室の外側をガラスの壁が取り囲み、鬱蒼とした山や川辺を眺めながら、回廊のように一周することができる。
こちらでは、鈴木理策の「水鏡」シリーズの写真と映像作品を展示。写されているのは、睡蓮の浮かぶ水面や、緑深い森の中の池や湖だ。上下反転した鏡像として、現実世界の像を複製する水面。イメージを写しとる皮膜としての、写真との同質性。そこには、シンメトリックな構造のみならず、水面上に浮かぶ睡蓮/空や樹木が写り込む水面=鏡面/水面下に沈んだ情景、さらに手前に写された木の枝や幹、といったさまざまな階層構造が出現する。加えて、浅い被写界深度とピントの操作により、手前に存在する睡蓮はぼやけて実体性を失う代わりに、鮮明に写された水面の反映像がむしろクリアな実体性へと接近する。こうした虚実の撹乱は、森の中の樹木が映り込んだ水面が、風の揺らぎによってブレることで、凸面鏡のように歪みながら現実の光景と浸透し合う写真によって完遂される。
こうした鈴木の写真では、「見る」ことが対象の全的な統一をもたらすのではなく、むしろ「見る」ことによって次々と分裂が引き起こされていく。そこでは、咲き誇る爛漫の桜や緑深い森の中の水辺といった極めてフォトジェニックなモチーフは、徹底して人工的な知覚世界を露出させるための口実/生け贄として捧げられているのだ。それは写真を見る経験において、視覚的酩酊の快楽や没入感を与える一方で、「見る」主体について問い直す醒めた姿勢を差し出している。私たちは、審美的な相を通過して、「美しい日本の原風景」といった被写体に付着した意味や物語性を振り払いながら、「見ること」をめぐる問いへと漸次的に接近するのだ。

2016/06/25(土)(高嶋慈)

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鈴木理策写真展「意識の流れ」

会期:2016/04/16~2016/06/26

田辺市立美術館[和歌山県]

「Sakura」、「Étude」、「White」、「海と山のあいだ」の4つのシリーズで構成される本展。昨年、東京オペラシティアートギャラリーで開催された同名の個展を筆者は見ているが、本展では出品数を絞り、最新シリーズ「水鏡」は分館の熊野古道なかへち美術館に分けて展示することで、写真家のエッセンスをより凝縮して感じることができた。
とりわけ「Sakura」シリーズに顕著にみられる特徴が、浅い被写界深度とピントの操作による遠近感の撹乱と視覚的酩酊である。空間的には手前にある桜の花は曖昧にボケた白い色面となって浮遊し、ピントの合った遠くの枝は細部まで鮮明に像を結ぶため、むしろ手前に突出して見えてくる。そうした作品の構造を動的に提示しているのが、雪の結晶を捉えた映像作品《Sekka》である。水槽のような箱型のモニターをのぞき込むと、限定された狭い視野、ピント面の操作によって、結晶の像はクリアな輪郭を結んだかと思うと、たちまち溶けだすように曖昧にぼやけていく。水面を模したモニター面のさらに奥に、仮構的な透明の面が無数に存在するかのような深遠が錯覚される。
また、「White」シリーズでは、雪の「白さ」はその極点で印画紙の滑らかな表面の地色と溶け合って同化し、意味と物質の境界は弁別不可能になる。
一方、「海と山のあいだ」シリーズが展示された一室では、海辺から岩場、深い木々の間に顔をのぞかせる池などを写した写真群が、視覚的変奏をもたらすように配置されている。それは空間的、時間的な連続性ではなく、写真の視覚における連続性である。穏やかな波を縁どるキラキラとした光の粒は、淡くぼやけた白い円の重なりとなって浮遊し、円のイメージは森の中の池の波紋と共鳴し、浜辺に打ち寄せる波の曲線と響き合い、太い木の根や岩場の洞窟に開いた暗い穴へと姿を変えた後、その極点で日輪として出現する。そして再び、波に反射する無数の光の粒へと拡散していく。一部屋をぐるりと一周して連鎖的に展開し、クライマックスで闇から光への転調を迎えながら、円環状の完結へ。音楽にも似た連鎖と変奏が空間を満たしていた。

2016/06/25(土)(高嶋慈)

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山田弘幸「Fragment」

会期:2016/06/17~2016/07/09

EMON PHOTO GALLERY[東京都]

ちょうど東京国立近代美術館の吉増剛造展を見たばかりということもあって、EMON PHOTO GALLERYで開催された山田弘幸展の出品作にアーティストとしての共通性を感じた。山田は昨年度の第5回EMON AWARDのグランプリ受賞作家だが、写真家という枠組みから大きく逸脱した作品を発表し続けている。「素材」を得るための基本的なメディウムとして写真を使用してはいるのだが、それらをプリントするときに、画像に絵画的な操作を施したり、テキストを書き込んだり、実物とともにミクスト・メディアとして提示したりする。原稿用紙に書いた「男」という文字を重ねてプリントしたり(ネガ画像とポジ画像で)、紙に釘で無数の穴を穿って図像を描いたりといった、写真家の仕事とは思えない作品も多い。そのあたりの、発想をすばやくかたちにしつつ、変形し、拡張していく画像操作のあり方が、吉増と重なって見えてくるのだ。
あまりにも多彩な作品群なので、焦点を合わせるのがむずかしいのだが、今回の展示のメインとなっていた大作「NOSOTROS SOMOS」は、珍しく彼の意図がストレートに伝わってくる作品だった。とはいえ、この作品もかなり複雑な構成で、トレーシングペーパーにプリントしたセルフポートレートを中心にして、その背後に父親と母親の結婚式の写真、軍服を着た祖父の写真、母親が撮影した仏壇の写真などが二重、三重に重なり合っている。それに加えて、余白には「私たちは……」を意味する「NOSOTROS SOMOS」や、「一か八か」という意味だという「A TODA MADRE O UN DESMADORE」といったスペイン語の文字が書き込まれている。つまり、祖父、両親、自分と繋がってくる過去─現在─未来の時間軸を、一旦バラバラに解体し、強引に結び合わせて再構築する試みなのだ。
山田のようなタイプのアーティストに、「普通の」写真表現を求めても無駄だろう。彼の画像操作は単なる思いつきではなく、現実の背後に潜む「見えない」ヴィジョンを引き出したいという強い意志を持って、確信犯的に為されているからだ。まだ、思いつきを撒き散らしている段階だが、それがもう少し明確にひとつの方向に収束していくようになれば、恐るべき表現力を備えた「写真家」が出現してくるに違いない。

2016/06/25(土)(飯沢耕太郎)