artscapeレビュー
鈴木理策写真展「水鏡」
2016年08月15日号
会期:2016/04/16~2016/06/26
熊野古道なかへち美術館[和歌山県]
田辺市美術館から、熊野の山の中へ分け入り、熊野古道なかへち美術館へ。妹島和世+西沢立衛/SANAAによる美術館建築は、展示室の外側をガラスの壁が取り囲み、鬱蒼とした山や川辺を眺めながら、回廊のように一周することができる。
こちらでは、鈴木理策の「水鏡」シリーズの写真と映像作品を展示。写されているのは、睡蓮の浮かぶ水面や、緑深い森の中の池や湖だ。上下反転した鏡像として、現実世界の像を複製する水面。イメージを写しとる皮膜としての、写真との同質性。そこには、シンメトリックな構造のみならず、水面上に浮かぶ睡蓮/空や樹木が写り込む水面=鏡面/水面下に沈んだ情景、さらに手前に写された木の枝や幹、といったさまざまな階層構造が出現する。加えて、浅い被写界深度とピントの操作により、手前に存在する睡蓮はぼやけて実体性を失う代わりに、鮮明に写された水面の反映像がむしろクリアな実体性へと接近する。こうした虚実の撹乱は、森の中の樹木が映り込んだ水面が、風の揺らぎによってブレることで、凸面鏡のように歪みながら現実の光景と浸透し合う写真によって完遂される。
こうした鈴木の写真では、「見る」ことが対象の全的な統一をもたらすのではなく、むしろ「見る」ことによって次々と分裂が引き起こされていく。そこでは、咲き誇る爛漫の桜や緑深い森の中の水辺といった極めてフォトジェニックなモチーフは、徹底して人工的な知覚世界を露出させるための口実/生け贄として捧げられているのだ。それは写真を見る経験において、視覚的酩酊の快楽や没入感を与える一方で、「見る」主体について問い直す醒めた姿勢を差し出している。私たちは、審美的な相を通過して、「美しい日本の原風景」といった被写体に付着した意味や物語性を振り払いながら、「見ること」をめぐる問いへと漸次的に接近するのだ。
2016/06/25(土)(高嶋慈)