artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

土木展

会期:2016/06/24~2016/09/25

21_21 DESIGN SIGHT[東京都]

21_21にて、「土木展」のオープニングに顔を出す。過去に前例がない企画なので、てっきりカッコいい、土木デザインの事例を紹介する作品主義だと思い込んでいたが、いい意味で裏切られた。これは楽しいドボクの展覧会だった。インタラクティブなインスタレーションなどを通じて、土木の世界を知る仕掛けの数々。また会場に置かれていた土木系カルチャーを扱う『ブルーズ・マガジン』も衝撃である。

2016/06/23(木)(五十嵐太郎)

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東京カメラ部2016写真展

会期:2016/06/23~2016/06/26

渋谷ヒカリエ9F「ヒカリエホールB」[東京都]

フェイスブックやインスタグラムに日々アップされている写真のあり方がとても気になる。正直、それらをこまめにフォローしようとは思わない。量があまりにも膨大すぎるし、質的にも玉石混交の極みであることは重々承知しているからだ。とはいえ、そこに現在の写真を撮ること、見ることの営みが集中してあらわれていることを認めるのにやぶさかではない。
そんなSNSにおける写真表現のあり方を概観するのにぴったりなのが、東京・渋谷のヒカリエホールBで開催された「東京カメラ部2016写真展」である。東京カメラ部というSNSでの発表を中心に活動している団体が主催している展覧会で「3億人が選んだ10枚」の写真の展示をメインに、『アサヒカメラ』と共催した「2016写真コンテスト 日本の47枚」、また「2016写真コンテストInstagram部門」で受賞した作品などが並んでいた。「3億人」というのは「東京カメラ部とその分室がタイムラインで紹介している作品の2015年延べリサーチ(閲覧者)数」だという。たしかに常時フェイスブックやインスタグラムにアクセスしている人の数を換算すれば、それくらいになるだろう。その「3億人」が46万枚から「いいね!」をつけて、今年の「10枚」に選ばれる確率は0・002%になる。
選ばれた写真には、たしかになるほどと思わせる魅力がある。地平線に見事な虹がかかっていたり、紅葉の山々に筋状に光が当たっていたり、夜桜に妖しい雰囲気の女性モデルを配したり、富士山にかかる笠雲を巧みな構図で捉えたり、それぞれ撮り方に工夫があるし、技術的なクオリティも当然高い。「いいね!」がつく写真の条件は見事に揃っている。とはいえ、それらの写真はどれも「どこかで見たことがある」想定内の範囲に留まっている。逆にいえば「どこかで見たことがある」写真でなければ、「10枚」に選ばれるわけはない。均質性と平均性と穏当さこそが、これらのSNS写真を貫く原理であることが、あらためてよくわかった。
ここに選ばれた写真家たちは、一般的に写真雑誌や写真ギャラリーで見る名前ではないが、その世界では有名人なのだろう。彼らが、どんな風に固有名詞化されていくのか、むしろそのあたりが気になる。ちなみに「3億人が選んだ10枚」の作者は以下の10人である。浅岡省一、北川力三、岩崎愛子、工藤悦子、柴田昭敬、黒田明臣、本間昭文、八木進、松岡こみゅ、伊藤公一。

2016/06/23(木)(飯沢耕太郎)

国吉康雄展 Little Girl Run For Your Life

会期:2016/06/03~2016/07/10

そごう美術館[神奈川県]

国吉康雄(1889~1953)は、20世紀前半の激動するアメリカで、移民排斥運動や「敵性外国人」のレッテルと戦いながら頭角を現し、教育者として多くの美術学生を指導し、アメリカ芸術家組合の初代会長を務めた画家。晩年はホイットニー美術館で大規模な回顧展が開かれ、ヴェネツィア・ビエンナーレのアメリカ代表に選ばれるなど、アメリカを代表する画家のひとりとして認められたのに、没後その名は急速に忘れられていく。その理由は明らかで、亡くなったころから抽象表現主義がアートシーンを塗り替え、国吉のような抒情的な具象画は早くも時代遅れと見なされたからだ。だいたい国吉の絵は、20~30年代はパスキン、戦後はベン・シャーンを思わせる画風で、デッサンは狂ってるし色は濁ってるし、むしろ生前なぜ高く評価されたのかわからないくらい。おそらく国吉の評価は作品自体より、日本人に対する差別と偏見を押しのけてアメリカに忠誠を誓った彼の生き方に対する評価ではないか。興味深いのは、第2次大戦中にOWI(戦時情報局)の依頼で描かれた戦争ポスターの下絵。中国人を拷問・殺戮するシーンや、日本の軍人を鎧兜姿の武士にたとえた絵もあり、早い話が、日本人が日本を敵に回した戦争画なのだ。そして国吉は戦後、藤田嗣治がアメリカで個展を開いたとき、日本で戦争画を描いて国民を煽動したという理由で個展を妨害したという。藤田はかつて国吉が一時帰国する際に紹介状を書いた「恩人」であるにもかかわらず、だ。無意味な問いだが、もし日本が戦争に勝ってたら立場は逆転しただろうか。このへんは歴史のいたずらというしかない。いろいろ考えさせる展覧会。余談だが、最後のコーナーには瀬戸内国際芸術祭の宣伝を兼ねたパネル展示があった。展覧会の主催に福武財団も名を連ねているからね。

2016/06/23(木)(村田真)

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圓井義典「点-閃光」

会期:2016/06/06~2016/08/10

PGI[東京都]

前回、フォト・ギャラリー・インターナショナルで開催された個展「光をあつめる」(2011)と比較しても、圓井義典が今回展示した「点-閃光」のシリーズ(17点)は、より思弁性、概念性が強まっているように感じる。もともと、考えながら制作活動を展開していくタイプの写真家なのだが、草むらや樹木、水面の反映、あるいは光の反射そのものなどの日常的な事物を撮影した本作では、ホワイトヘッドやロラン・バルトの知覚論や記号論を援用することで、「写真論写真」への傾きがさらに大きくなってきているのだ。
圓井が展覧会に寄せた文章でいう「日々の情景と(私でもある)それが、網膜を介して出たり入ったりしながら重なり合う」状況を、写真というメディムを通じて捕獲することは、むろんこれまでも多くの写真家たちによって試みられてきた。既成の意味の体系によって、そこに写っているモノを解釈されることを避けるために、それらは時にブレたり、ボケたりした光の染みにまで還元され、極端なクローズアップによって全体と細部との関係が曖昧にされる。だが時として、撮影行為の起点であるはずの「私」が、(私でもある)存在として宙づりにされ、被写体も何が写っているのかを特定できないように配慮されることで、緊張感を欠いた、似たような予定調和の画像の繰り返しになってしまうことがある。今回の展示を見る限り、圓井の営みは、そんな「写真論写真」の隘路に落ち込む一歩手前を、さまよっているように思えてならない。
いまさら「私」と被写体(世界)との二項対立を持ち出すつもりはない。だがそのあいだの「関係性」の戯れのみに写真行為を解消してしまう危うさも、よく承知しておくべきだろう。「何を、なぜ撮るのか」という問いかけは、古くて新しいものであり、いまなお有効性を保ち続けているのではないだろうか。

2016/06/22(水)(飯沢耕太郎)

モザイク展2016「絵本」

会期:2016/06/20~2016/06/25

オリエアート・ギャラリー[東京都]

「絵本」をテーマにしたモザイク展。モザイクも絵本も「絵」の一種だが、画像を載せる支持体がまるで違う。重厚でゴツゴツしていて物質感を主張するモザイクに対し、絵本は薄くて軽くて滑らかだ。あえて性質の異なる絵本というテーマを与えることで、モザイクの可能性を広げたいという思惑があるようだ。出品は13人(テーマ展示とは別に海外8作家の展示もある)で、よくあるパターンは「見開き」のように本を開いたかたちにしたもの。いちおう絵本に見えるけど、それだけでは工夫がない。橋村元弘の《わがはいはネコである》は、両面モザイクを真ん中に挟んで2見開きにしたもので、めくると猫の顔が現れ、目が変化する。少し進化した。戸祭玲子の《…?》は6枚のモザイク板を紐でつなげて綴じた作品。強引に本の形式に近づけた努力は買うが、かなり無理がある。一方、形式ではなく内容の面で本に接近する例もある。馬淵稔子の《死者の書(古代エジプトの)》は、「BOOK OF THE DEAD」の文字を埋め込み、本の表紙のようにした。絵とヒエログリフで死の世界への道行きを書いた「死者の書」は、究極の絵本かもしれない。岩田英雅の《タイルの町「水の都」》は、ビザンチン文化の栄えた水の都ヴェネツィアの歴史を、本という記憶装置に重ねて表現したものだろう。モザイクにも本にも縁の深い都市ヴェネツィアを選んだあたり、慧眼というほかない。

2016/06/22(水)(村田真)