artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
Face Forward
会期:2015/08/22~2015/08/30
KUNST ARZT[京都府]
日本とオーストリアで活動する11作家による、自身の身体を題材に用いた作品で構成されたグループ展。「身体」はまずもって個を構成する物質的基盤であり、触覚を通して他人を含めた外界を感知する場であり、痛みの感覚は逆説的な生の実感と、時には自身の身体が異物化される感覚ももたらす。また、身体の加工や「第二の皮膚」である衣服をまとうことによって、アイデンティティの表出や書き換えが行なわれ、差異が読まれる場としての身体が現われる。ジェンダー、人種や民族、社会的立場などの差異を表わすとともに、様々な社会的規制や抑圧を受ける場でもある身体。そうした身体への抵抗は、ボディ・アートやフェミニズム・アートの諸実践が示すように、身体それ自体をポリティカルな闘争の場として用いて行なわれてきた。本展出品作においても、身体の題材化が喚起するそうした様々なトピックが提出されている。
例えば、松根充和は、剃った眉毛を髭として貼り付けたセルフポートレートと、その顔写真で取得したパスポートを作品として発表し、身体(の構成要素)が自分の所有物であることの自明性と社会的制度との関係の曖昧さについて問う。岡本光博は、人種の坩堝と言われるニューヨークで購入した絆創膏のパッケージと、その絆創膏を自分の腕に貼った写真を並べた作品を発表。白人用、ヒスパニック用、黒人用など様々な「皮膚の色」に合わせ「人種的に配慮した」商品と、そこから排除された東洋人としての自身の身体を浮かび上がらせる。
また、作家自身の身体を用いてジェンダーの問題に言及するのがヤコブ・レーナ・クネーべルとアンナ・イェルモラエヴァ。クネーべルは、自身の裸体にピカソの女性像を描いたセルフ・ポートレートを発表し、イェルモラエヴァは裸体の上にミニカーを走らせ、丘を登ったり下りたりするようなミニカーの様子が愛撫のようにも見える映像作品を発表。両者はともに、男性中心の眼差しによって形成されてきたアートや文化における、女性身体の物象化に対して批評的に介入する。
さらに、身体の露出や排泄など、身体をめぐるタブーや社会的規範に対して、ユーモアをもって自由さや抵抗を表明するのが、高嶺格と池内美絵。高嶺は、肛門を口に見立て、臀部の筋肉を動かすことで、肛門=口がポップソングを歌っているように見えるコミカルな映像を制作。また池内は、ミニチュア人形を飲み込み、排泄後、バラバラになったパーツを組み立てた人形を美しい宝石箱のような箱に収めて展示することで、内と外、美と醜、身体表面を飾って他人の眼を惹きつけるものと他人の眼から排除されるもの、といった様々な境界を撹乱する。
このように本展では、身体の直接的な提示やパフォーマンスの記録が中心であったが、その中で、「不在」によって身体の存在感をより強く感じさせたのが、井上結理の写真作品《ヌケガラ》である。衣服、靴、アクセサリー、下着に至るまで、その日に身に付けていたもの全てを脱いで床に置いて撮影し、床の上に展示することで、脱いだ時の状態を再提示する作品であり、作家によれば撮影は日課のように10年以上続けているという。衣服や靴を脱ぐ行為自体は、誰もが毎日行っている日常的な行為であり、脱ぎ捨てられた衣服や靴が原寸大でプリントされ床に置かれることで、観客は、脱いだものを見下ろす視点を作家と共有する。そのとき、身体を包む衣服の形、とりわけ脱いだ後にできた皺や立体感は、かつて身体がそこにあった痕跡を示すがゆえに、存在の不在感を逆説的に強調する。そこに、「下着」までが写されることで、身に付けていたのが若い女性であることを示すとともに、下着が被写体として成立する背後にある欲望のコードの存在をほのめかす。この時、井上の写真作品が「その上を踏んで歩いてかまわない」という展示条件は、日常的な眼差しの共有を超えて批評性を発動させる。偶然にも、ある男性の観客の靴が写真の上を踏んでいる瞬間を目撃したとき、(不在の女性の)身体に外部から加えられる暴力がはからずも具現化して現われたように見え、戦慄を覚えた。
2015/08/22(土)(高嶋慈)
BORDER
会期:2015/07/26~2015/09/13
旧名ヶ山小学校「アジア写真映像館」[新潟県]
第6回目を迎えた「大地の芸術祭」(越後妻有アートトリエンナーレ2015)の一環として、新潟県十日町市名ヶ山地区の廃校となった小学校で「アジア写真映像館」という写真展イベントが開催された。東京綜合写真専門学校がプロデュースする同企画は、前回の2013年からスタートしたのだが、今回はより規模を拡大し、田口芳正、石塚元太良、大西みつぐ、錦有人、進藤環、高橋和海、伊奈英次、比舎麿、金村修の9人が参加していた。
「波欠け(マクリダシ)」という海岸浸食現象をダイナミックな映像インスタレーションでとらえた錦、コラージュによって名ヶ山と他の地域の風景を多重化していく進藤、精密に撮影した産業廃棄物の画像を壁いっぱいに展開する伊奈、都市風景を引き伸したモノクロームプリントを雨ざらしにして放置する金村など、自然環境に恵まれた環境で、のびのびと競い合うようにしてテンションの高い展示を実現していた。「私たちを取り巻くあいまいさや、相反、矛盾といった”さかいめ”について、9人の写真家の視線を通して現在の写真として発信する」というテーマ設定の意図が、よく伝わってくる展示だった。
「アジア写真映像館」では、他に中国・北京で「三影堂攝影藝術中心」を運営する榮榮&映里が出品し、若手写真家の登竜門として、同藝術中心で2009年から毎年開催されている「三影堂攝影賞」の受賞者たちの作品を紹介していた。また同じ名ヶ山地区で、2006年から住人たちの「遺影」を撮影する「名ヶ山写真館」の活動を粘り強く続けている倉谷拓朴も、撮影と作品展示をおこなっていた。とはいえ、「大地の芸術祭」の全体としては、写真作品の比率は高いとはいえない。もう少し写真家の参加が増えてもいいのではないだろうか。
2015/08/22(土)(飯沢耕太郎)
TODAY IS THE DAY:未来への提案
会期:2015/07/26~2015/09/27
アートギャラリーミヤウチ[広島県]
現美から広島駅に出てJRで宮内串戸まで行き、そこからバスのはずだったが、ちょうど行ったばかりなのでタクシーに乗る。ここは財団法人の運営するギャラリーで、モダンなビルの2、3階を占めている。展示はさらに周囲の2軒の民家も使っているので、けっこうなボリューム。わざわざ見に行くだけの価値はある。同展は平川典俊とデイヴィッド・ロスが企画し、飯田高誉が監修したもので、第2次大戦から3.11まで繰り返される悲劇に対して、芸術は肯定的なヴィジョンを示すことができるかを問う試み。出品はヴィト・アコンチ、ピピロッティ・リスト、リュック・タイマンス、ビル・ヴィオラ、アピチャッポン・ウィーラセタクン、奈良美智、小沢剛ら16人で、驚くべきは大半の作家が今回のために新作を出してることだ。アコンチは最近日本で、カメラに向かって指を指し続ける映像《センターズ》が注目されているが、今回はそれを44年ぶりにリメイクした《リ・センターズ》を公開。指を指してるのが映像を見る観者に向かってではなく、カメラの下のモニターに映る自分に対してであることを明確にしたとのことだが、髪が薄くなってるのが気になる。小沢は、福島の子どもが描いた人の顔を小沢自身が模写して横一線に並べている。子どもの絵を模写するというのが意表を突く。いちばん感心したのは伊藤隆介の2点で、1点は破壊された原子炉に出入りする映像がスクリーンに映し出され、手前にはお菓子の箱などでつくったちっちゃな原子炉と、前後に動くマイクロカメラが置いてあるという仕掛け。もう1点は、核爆弾が雲を貫いて落ちてくる映像とその装置で、映像には映らない位置に恐竜のフィギュアが置いてあったりして、思わず笑ってしまう。彼の作品は何度か見たが、見るたびに感心する。
2015/08/21(金)(村田真)
コレクション展──われらの狂気を生き延びる道を教えよ
会期:2015/07/25~2015/10/18
広島市現代美術館[広島県]
核関連の作品を公開する被爆地ヒロシマならではのコレクション展。本田克己《黒い雨》とか細江英公「死の灰」シリーズなど、直接ヒロシマの災禍を表わした作品もあれば、イヴ・クライン《人体測定170》とか高松次郎《影の母子像》など、なぜヒロシマと関係があるのか一見わかりにくい作品もある。おもしろいのは後者のほうで、いってしまえば解釈次第ということでもある。たとえばヘンリー・ムーアの彫刻《アトム・ピース》は、ヒロシマでは反核のモニュメントとされているのに、同じ形状の《ニュークリア・エナジー》が置かれたシカゴでは、核エネルギー開発の成功を記念するモニュメントになっているという。同じ作品がまったく正反対の意味を担わされることもあるのだ。これこそ芸術の恐ろしいところであり、またおもしろいところでもあるだろう。同じようなことは戦争画(なかでも藤田嗣治の《アッツ島玉砕》)にもいえることで、そうした多義的な解釈が可能な作品こそ傑作と呼ぶべきかもしれない。
2015/08/21(金)(村田真)
被爆70周年 ヒロシマを見つめる三部作 第1部「ライフ=ワーク」
会期:2015/07/18~2015/09/27
広島市現代美術館[広島県]
県美からタクシーで現美に移動。「ライフ=ワーク」は事前情報ではいまいち意味がピンと来なかったが、展示を一巡してなんとなく納得。まず最初に目にするのは被爆者が描いた50点ほどの「原爆の絵」だが、これがスゴイ。全身に黄色い菊の花をまとってるように見えるのは腐乱した死体だし、アフロヘアの黒人女性がヌードで横たわってるように見えるのは真っ黒焦げの女性だし、ホタルイカみたいなのがたくさん浮いてるのは川面を埋め尽くした死体の群れだし……。爆発の瞬間を捉えた絵もあって、1点は街の上空がピンクと水色のストライプで覆われ、もう1点はちょっと理解しがたいのだが、乳房みたいなかたちが向かい合わせになり、先端から赤、白、ピンク、黄色、黒の順に塗られていて、どちらも抽象画に近くなっている。爆心に近くなればなるほど具象物は消え去り、抽象に染まるはずだろうけれど、それを見たものも消え去ってしまうわけだ。いずれも稚拙な絵ばかりだが、にもかかわらずスゴイものを見てしまったという気分。不謹慎を承知でいえば、もはや悲しいとかカワイそうとかヒドイとかいった気分を通り越して、笑いさえ出てくる。稚拙な絵であるにもかかわらずではなく、稚拙な絵だからこそ見る者の心をざわつかせるのだ。これはまさにアウトサイダー・アートならではの力、美術館ではなかなか出会えない衝撃だろう(ちなみにこれらの絵は平和記念資料館蔵)。おそらくこれら「原爆の絵」の対極に位置するのが、県美で見たばかりの技量を尽くした戦争画ではないだろうか。
その後、シベリア抑留体験を終生のテーマにした香月泰男や宮崎進、被爆体験に基づく作品を手がけた殿敷侃、被爆者の衣服などを撮った石内都らへと続き、県美とも一部かぶっている。ところが終盤になると、戦争をテーマにしてるけどまだ30代前半の後藤靖香や、戦中戦後にかけて30年間にわたり路傍の草花を細密描写し続けた江上茂雄、花のある風景写真を色鉛筆で克明に写し取った吉村芳生など、作品は徐々に戦争や被爆から離れ、最後は延々と迷路を描き続けるTomoya、映像とインスタレーションの大木裕之で終わる。最初の「原爆の絵」からずいぶん逸脱したような印象で、いったいどういう展覧会なのか、なにを伝えたいのか混乱してしまうが、ここに通底しているのは、彼らの「生」と作品が一致している(ライフ=ワーク)ということだろう。これらの作品は作者の人生に、否応なく降り掛かった運命に決定づけられているのだ。
2015/08/21(金)(村田真)