artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
海峡を渡る布 初公開 山本發次郎染織コレクション ふたつのキセキ
会期:2015/09/09~2015/10/18
大阪歴史博物館[大阪府]
大正から昭和戦前にかけて大阪で活躍した実業家・山本發次郎(1887~1951)。彼は美術品コレクターとしても知られており、佐伯祐三や墨蹟のコレクションは有名だ。しかし、染織品のコレクションは知る人ぞ知るものであり、それらが脚光を浴びたという点で本展は意義深い。展示物はインド・東南アジアの染織品約100点+資料。19世紀の品が中心だが、17~18世紀の品も含まれており、なかには世界に2例しか現存しない超レア物もあった。それらの多くは布地のまま展示されているが、一部は上衣という衣装に仕立てられている。緯絣、紋織、バティック、更紗、印金などの技法が駆使された布地は美しく、エキゾチックな染織デザインの魅力をたっぷりと堪能できた。布地は傷みやすく保存が難しい。長年にわたり保存・修復作業を行ってきた所蔵元(大阪新美術館建設準備室)の労をねぎらいたい。
2015/09/08(火)(小吹隆文)
他人の時間
会期:2015/07/25~2015/09/23
国立国際美術館[大阪府]
日本、シンガポール、オーストラリアの美術館の4人のキュレーターによる共同企画により、アジア・オセアニア地域の若手を中心としたアーティスト25名を紹介するグループ展。非欧米圏の美術と「支配的な文法」としてのコンセプチュアリズム、ローカルな歴史の提示と「物語る」行為、ドキュメンタリーと美的性質の共存(あるいは美的な文脈への回収が孕む微妙な政治性)。本展の照射する問題圏はあまりに広範だ。ここでは、ヴォー・アン・カーンによるベトナム戦争のドキュメンタリー写真と、プラッチャヤ・ピントーンの《取るより多くを与えよ》に絞ってレビューする。
ヴォー・アン・カーンは、1960年代初頭から15年間にわたり、ベトコン・ゲリラ(南ベトナム解放民族戦線)の覆面カメラマンとして働き、米軍に対するベトナムの抵抗運動を記録した。本展で展示された2枚の写真は、マングローブの湿地帯に仮設した救急室と、機密訓練を受けるために身元を隠す覆面をして木々の間を歩く女性たちの列を写している。深い森、水辺、マスクや覆面で顔を隠した若い女性たち。ドキュメンタリーでありつつも、森や水辺と若い女性という組み合わせや巧みなフレーミングにより、何か秘密の儀式が行なわれているような、神秘的な光景を「演出」した美的な写真のように見えてしまう。そうした神秘性や美的質の付与は、本来この2枚が所属していたアーカイブからの「切断」によってより強められている。《軍属移動診療所1970年8月》《政治学の課外授業1972年7月》という簡潔なキャプションのみで提示され、歴史的・政治的なコンテクストから剥ぎ取られ、ホワイトキューブの漂白された白い壁に掛けられることで、美的な領域へと回収されてしまうのだ。確かにこれらの2枚のイメージは美しく、魅力的であり、「ベトナム戦争のドキュメンタリー」のステレオタイプ化に抗う力を持っている。だがそこには同時に、「美的な文脈への回収」という微妙な政治性が孕まれている。
また、欧米中心の美術の制度の受容・浸透という問題に対するアプローチが興味深かったのが、タイの作家、プラッチャヤ・ピントーンの《取るより多くを与えよ》。これは、ベリーの収穫作業のために雇われたタイ人労働者とともに、スウェーデンの収穫現場で作家が働き、収穫したベリーと同量の重さの「芸術作品」が美術館に展示されるというものだ。アジアの作家が、展覧会の開催される欧米諸国へ行って「労働」する、すなわち「移民」労働者として搾取される側に身を置きつつ、労働の成果が、収穫量に応じて支払われる賃金ではなく、同じ重さの「芸術作品」へと置換される。制度批判=制度との共謀を確信犯的に引き受けながら、欧米の制度と非欧米圏の作家としての自らの立ち位置、そこに含まれる非対称的な関係をあぶり出していた。
2015/09/06(日)(高嶋慈)
関口正夫「こと」
会期:2015/09/04~2015/09/27
関口正夫は1946年生まれ。1965~68年に桑沢デザイン研究所で牛腸茂雄、三浦和人とともに大辻清司に写真を学び、卒業後の1971年に牛腸と共著の写真集『日々』を刊行した。その後も、気負いなく淡々と路上スナップを撮り続け、2003年に写真集『こと 1969-2003』を刊行、2008年には三鷹市美術ギャラリーで三浦和人との二人展「スナップショットの時間」を開催している。
今回の東京・四谷、Gallery Photo/synthesisでの個展でも、まったく変わりなく近作のスナップショット18点を披露していた。とはいえ、かつての動体視力のよさを感じさせる切れ味鋭い画面構成というわけにはいかない。70歳近い彼の街歩きのリズムは、より「ゆるい」ものになってきている。とはいえ、その精度の甘さは、逆に「瞬間」に凝固することなく、柔らかに前後の時間に広がっていく「こと」のありようを捉えることにつながっている気がする。会場に展示されていた中に、上野の不忍池の周辺で撮影されたと思しき写真があった。男女のカップルと中年の男が後ろ姿で写っていて、池から飛び立とうとしている水鳥の群れを見つめている。その中の女性の右脚が、足裏を見せて花壇の囲み石の上に振り上げられた瞬間に、シャッターが切られているのがわかる。別にどうということのない光景なのだが、微かなズレをともなって定着されたその場面は、なぜか胸を騒がせる。
このような現実世界の些細な揺らぎ、身じろぎをキャッチすることこそ、スナップショットを撮り、見ることの歓びにつながるのではないだろうか。関口の写真はそのことを証明し続ける営みの蓄積といえる。
(金、土、日曜のみ開廊)
2015/09/06(日)(飯沢耕太郎)
VIDEOs - Critical Dreams -
会期:2015/08/22~2015/09/20
ヴィデオというメディウムの物質性に遡行的に焦点を当てたグループ展。記録や物語の伝達手段と見なされたヴィデオの使用においては、媒体の物質性が透明化され忘却されているという事実を喚起し、ヴィデオという電子機器を通して「見る」とはどういう経験なのかを改めて問う。
河合政之の《Video Feedback Configuration》シリーズでは、20~30年前に製造された中古のアナログヴィデオ機材が複数のケーブルで接続され、中央のモニターにサイケデリックで抽象的なパターンが生成されている。このシリーズで用いられている「ヴィデオ・フィードバック」とは、アナログなヴィデオ機材を用いて閉回路システムをつくり、出力された電子信号をもう一度入力へと入れ直し、回路内を信号が循環・暴走する状況を作り出す手法のこと。予め用意された映像を一切使わずに、無限に循環するノイズが偶然に生み出すパターンが、多様な形や色の戯れる画面を自己生成的に生み出していく。ただし、コンピューターを含むデジタル的システムでは、こうした電子信号の増幅や暴走はノイズと判断されるため、アナログヴィデオでのみ可能となる。河合の作品では、絡み合うコードに繋がれた機材が、人工物でありながら、血管や神経で接続された臓器のようにも見え、目に見えない信号やノイズの可視化や祭壇のような設えと相まって、呪物的な様相を呈していた。
一方、西山修平の《白の上の白の/white on white on》は、ヴィデオの知覚経験において通常は一体化している映像と音声を切り離し、さらに映像は三原色の光の点滅や矩形の光の明暗の強弱へと還元される。最小限の要素への還元でありつつも、まばたきや心臓の鼓動のようなリズムを感じさせ、河合の作品とともに、ヴィデオという媒体の物質性への探究から、「有機的性質をまとった人工物」という両義的な相貌を引き出している。
また、瀧健太郎と韓成南は、ともに家電という身の回りの電気機器と映像を組み合わせることで、現代社会における映像の受容について批判的に問うている。瀧の《流砂‐ビルト:ミュル#9》では、白く塗った家電ゴミを寄せ集めてつくった奇怪な塊に、さまざまなイメージの断片が脈絡なく投影される。それらは、ネットという広大な海を漂流する夥しい量の画像から切り取られたものであり、現実社会での「ゴミ」の上に重ねて投影され、ゴミの集積はイメージという皮膜をまとうことで、「その正体を隠す」醜悪にして幻惑的なモンスターが出現する。
一方、韓成南の《I vs/de O》は、テレビ、冷蔵庫、掃除ロボット(ルンバ)という3種類の家電に、私的な日記の文章のプロジェクションや監視カメラの映像を組み合わせることで、主体と客体(の転倒)、プライベートと監視、女性に期待されるジェンダー的役割への批評など、様々な問題を提起する作品である。冷蔵庫に収められたプロジェクターからは、母になる直前の日々と、母になった日を綴った作家自身の日記の文章が投影される。その上に、ギャラリーの外の風景や鑑賞者自身がリアルタイムで映った映像が重ねられ、複数の「監視カメラ」の存在を匂わせる。テレビには、赤ん坊の映像とともに、ルンバに仕込まれたカメラが「盗撮」した映像が時折挿入される。家電が象徴するプライベートな生活空間と、その中に張り巡らされた監視のシステム。そこでは、「見る」主体である鑑賞者は、絶えず「見られる」客体へと転倒され、一方的に眼差すという特権性を持ち続けることができない。さらに、これらの家電が掃除や料理といった家事を担うものであることから、女性の主体性への批評も含まれていると言えよう。ここで本作のタイトル《I vs/de O》を振り返るならば、「VIDEOs」のアナグラムであると同時に、大文字の「I」と「O」は、「I(私)」と「Object」の頭文字を指し、見る主体と見られる対象、主体(母になった私)から切り離された客体(赤ん坊)といった複数の意味づけを与えられ、さらに両者の対立と転倒、融合や分離といった可変的な状況を示していることが分かる。本作を読み解く複数のキーワードが込められた秀逸なタイトルだ。
2015/09/05(土)(高嶋慈)
伊賀美和子「THAT'S NOT ENOUGH.」
会期:2015/09/01~2015/10/03
BASE GALLERY[東京都]
伊賀美和子の人形を使ったホームドラマのシリーズは、ひそかに変容と脱皮を繰り返しているようだ。前回のBASE GALLERYでの個展「悲しき玩具--Open Secret」(2010年)から5年を経た今回の「THAT'S NOT ENOUGH.」では、お馴染みの人形たちのたたずまいが、少し変わってきているように感じた。
以前は、家庭の日常に形をとってくるさまざまなドラマを、人形たちが不器用に演じ直しているような印象があったのだが、そのような物語性が希薄になり、「生きることの小さな欠落」が露になる瞬間に、彼らが素っ気なく投げ出されているように見えてくる。首だけ、手だけ、脚の裏からといった場面は、それぞれ孤立していて、あまり相互のつながりを感じさせない。人形たちが不在の「Swan Lake」や、家具だけの写真もあって、そこでは旧作の「Madame Cucumber」の1シーンが、ひっそりと引用されていたりもする。
考えてみれば、伊賀が1999年に写真新世紀優秀賞を受賞してデビューしてからもう15年以上も経つわけで、彼女の分身ともいうべき人形たちも、それぞれの生の厚みを積み重ねてきているということなのだろう。奇妙なことに、人形たちの単純な、固定した顔つきに「深み」が生じてきているように見える。「THAT'S NOT ENOUGH.」というタイトルは、その変容のプロセスがこれから先もさらに続いていくことを示唆しているのではないだろうか。青っぽい色調の画面の中に佇み、漂っていく、人形たちの行方を見守っていく楽しみがより増してきた。
2015/09/05(土)(飯沢耕太郎)