artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
横尾忠則「Swimming Girls」
会期:2015/08/26~2015/09/19
南天子画廊[東京都]
約半世紀前の1966年、南天子画廊で初個展したときに出品した《泳ぐ人》が正面奥の壁に鎮座。それを囲むように、泳ぐ人が複数になったり重なったり裏返ったりピカソの絵のように崩れたり、さまざまなヴァリエーションが展示されている。もう絵画の常識もルールも作法もない、なんでもありな境地に遊んでいる。ように見えるけど、意外と苦心してイメージをひねり出してる跡も窺える。どの作品にも記されてる「450」の数字が謎。ほかに、アラブ人に扮したルドルフ・ヴァレンチノを描いたシリーズも。
2015/09/03(木)(村田真)
「うらめしや~、冥土のみやげ」展──全生庵・三遊亭圓朝 幽霊画コレクションを中心に
会期:2015/07/22~2015/09/13
東京藝術大学大学美術館[東京都]
幽霊画を見せる展覧会。落語家の三遊亭圓朝が蒐集していた幽霊画を中心に、およそ150点が展示された。円山応挙をはじめ、曾我蕭白、河鍋暁斎、葛飾北斎、歌川国芳らによる恨み辛みの表現がなんとも凄まじい。会場の随所に灯籠を模した照明を設置したほか、客席の上の天井から蚊帳を吊り下げるなど、展示上のさまざまな工夫が幽霊画の迫力をよりいっそう倍増させていた。
とりわけ来場者の視線を集めていたのが、上村松園の《焔》である。長身の女の幽霊が髪の毛を噛みながら肩越しにこちらを見返している。膝下まで届かんばかりの長髪は、それ自体で怨念の深さを物語っているが、それが幽霊の足元とともに背景に溶け込んで消えているところが、見えないはずのものが見えてしまった幽霊の恐ろしさを効果的に表わしている。着物の柄に描かれた蜘蛛の巣ですら、この女の底知れぬ執着心を象徴しているようだ。
本展によれば、足のない幽霊という定型的なイメージをつくり出したのは、応挙である。実際松園の《焔》をはじめ、足が消えた幽霊のイメージは数多い。だが幽霊たちを次々と目撃していくなかで注目したのは、むしろ彼らの手。足がないことが、逆説的に手を饒舌にさせているのだろうか、幽霊の手はさまざまなメッセージを伝える豊かなメデイアであることを知った。
例えば谷文一の《燈台と幽霊》。描かれているのは、燈台の灯りに浮かび上がる年老いた女の幽霊。か細い右手は燈台の土台に触れているようだが、左手はちょうど画面の右端をつかんでいるように見えるのだ。肉体的には弱々しくとも、まさしく怨念の力で画面の向こうからこちらに身を乗り出して来るかのような迫力が感じられるのである。
一方、嶋村成観の《子抱き幽女図》は恐ろしい形相で赤ん坊を抱きかかえている幽霊の女を描いたもの。顔面は正視に耐えないほど醜いが、不思議と嫌悪感を催さないのは、赤ん坊を抱く彼女の手がじつにやさしいからだ。その手は明らかに包容力と慈愛に満ちており、手に限って言えば、幽霊というよりむしろ観音様に近い。幽霊であるにもかかわらず、いや、だからこそと言うべきか、赤ん坊を慈しむ情愛が痛いほど伝わってくるのである。怨念には恐ろしさだけでなく、ある種の切なさも含まれている。だからこそ「うらめしや」という言葉に、私たちはとても他人事とは思えない響きを聴き分けるのではないか。
2015/09/03(木)(福住廉)
ヴォルフガング・ティルマンス Your Body is Yours
会期:2015/07/25~2015/09/23
国立国際美術館[大阪府]
大阪の国立国際美術館へ。ティルマンス展は、部屋ごとにテーマを設定し、さまざまなサイズの写真を分散的に並べ(しかもピン、クリップ、テープなどを使う、ラフな設置の方法)、それがポツ窓のように見えるので建築空間の中にいるような感じだった。彼は、あらゆるイメージとその表層を狩猟するが、今回は日本の時事問題を扱う台置きの展示もあって、意外な側面もうかがえる。
2015/09/02(水)(五十嵐太郎)
阪本トクロウ──中空
会期:2015/08/29~2015/09/26
ギャラリーMoMoプロジェクツ[東京都]
湖や空(雲)、郊外のような風景などを描いてるのだが、フラットで少しグレーがかった深みがない色彩は日本画科出身だからか。建物、電信柱、夜景など人の痕跡はあっても人間はまったく出てこないせいか、冷たい印象を与える。カナダやフィンランドのような地面と湖水が複雑に入り組んだ図形や、ひびの入ったコンクリート壁など、とても惹かれるイメージがある。
2015/09/02(水)(村田真)
Unknown VOID 箕輪亜希子
会期:2015/08/28~2015/09/13
void+[東京都]
大きいほうの部屋には、中央に直径15センチくらいの石が鎮座し、周囲の壁や窓には、その石を草むらや水たまりや建物の脇などに置いて撮った写真が立てかけられている。なんか70年代のコンセプチュアル・アートを思い出すなあ。でも空気がぜんぜん違う。小さいほうのスペースには部屋いっぱいに大きなテーブルが置かれ、その上に小石、ボルト、ガラスの破片、カブトムシの死骸、花火のカス、小枝、タバコの空箱などを並べ、奥の壁のスクリーンにそれらが日常風景のなかにある状態を次々と映し出している。一見、静止画のように見えるが、風に揺れたり音が聞こえたりするので動画であることがわかる。かつてのようなコンセプトのゴリ押しではなく、むしろコンセプチュアリズムが排除したはずの叙情性が感じられ、さわやかな気分になる。
2015/09/01(火)(村田真)