artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

吉田重信「2011312313」

会期:2015/07/11~2015/07/26

GALLERY TOMO CONTEMPORARY[京都府]

福島県いわき市在住の美術作家、吉田重信の個展。
真っ黒に塗られた表面に「20113111446」と刻印された矩形の平面。この数字は東日本大震災が起こった日時を表わし、内部の箱の中には、現在も帰宅困難地域である福島県双葉郡浪江町の販売所に、配達されずに放置されていた2011年3月12日と13日の新聞が鉛に覆われて封入されている。従って新聞の実物を見ることはできないが、紙面を巨大に引き延ばしてプリントした作品が傍らに提示されている。だが、画面が極端に暗いため、光の当たり方によっては真っ黒に見え、地震の規模の大きさや原発事故、住民の避難を伝える紙面をクリアに読み取ることはできない。
ここで、単色の絵画平面に記された日付と新聞の封入という手つきは、河原温の《Today》シリーズ(「日付絵画」)を想起させる。河原の《Today》では、描かれる内容が「制作した日にち」という最小限の情報に還元されるという意味で絵画は限りなく「死」に近づくが、「日付ならまだ描ける」という意味において死の一歩手前に踏み留まっている。それは作家の生存の痕跡でもあるが、日付の刻印という行為が延々と反復されることで、「生」は告げられてもそれ以上前進できず、絵画の「再生」は遅延し続け、夜明けは繰り延べされる。つまり《Today》シリーズでは、絵画は「死」「終末」を宣告されつつも、「現在」の反復においてかろうじて延命し続け、同時に作家の生存記録ともなっている。
一方、吉田の作品においては、日付が刻印された表面は内部の新聞を覆う容器という機能をまずもって有しており、葬り去る棺のような様相を呈している。それは、新聞を収めた箱が開けた状態で一緒に展示されることもある《Today》シリーズとは対照的に、鑑賞者の眼に触れることはない。吉田は、「配達されなかった新聞」=「見られなかった存在」を明るみに出して欠落を回復させようとするのではなく、不可視性をそのまま提示しようとする。その意味でむしろ、ルワンダ内戦でのジェノサイドの被害者に関連した写真を開示せず、黒い箱に収めて墓標のように提示するアルフレッド・ジャーの《Real Pictures》における態度に接近するだろう。ジャーの場合、写真の記録性、表象可能性への信仰、イメージによる収奪に対する不信と批判が作品の基盤をなしているが、吉田作品における棺のような「黒い箱」は、物理的・心理的・社会的レベルにまたがる多重的な意味を担っている。放射線を遮る鉛で実際に覆われた箱は、物理的には「保護する容器」であり、被災の当事者にとっては「思い出したくない辛い出来事」を象徴するものであるとともに、新聞の封印という操作は、報道メディアの減少や不在によって薄れていく社会的関心の比喩でもあるからだ。
だが、河原の《Today》の反復性とは異なり、唯一性・一回性を帯びた吉田の「20113111446」が、今後も果たして反復されることはないと言い切れるだろうか。

2015/07/26(日)(高嶋慈)

金氏徹平×山田晋平×青柳いづみ『スカルプチャーのおばけのレクチャー』

会期:2015/07/26

KAAT神奈川芸術劇場 アトリウム[神奈川県]

岡田利規(チェルフィッチュ)と前野健太が金氏徹平の指導のもとでスカルプチャーを完成させる1時間。3人が横に並び、同じ青のTシャツを身に着け、黙々と作業に勤しむ。なんだろう、この感じ。ライブのパフォーマンスなのだが、独特のゆるさがあって、鑑賞無料も手伝ってか、リラックスした〈おふざけ気分〉が全体に漂う。これはテレビ(ex. ダウンタウン)的? あるいはニコニコ動画? 50個ほどはあるだろうか、大小の日用品あるいは工事現場にありそうなものたちをパーツにして、下から上へと積み上げていく。他愛のないおしゃべりが続く。時折、本人は現われることなく(だから「オバケ」なのだろう)、青柳いづみの言葉で「よく見ろよ!」みたいなゲキが飛ぶ。その度に、失笑が会場を満たす。2メートルほどのスカルプチャーが立ち上がると、白いペンキを上からかけて出来上がり。テレビやニコ動的な鑑賞のあり方のなかに、すっぽり当てはめられたレクチャー・パフォーマンス。それは、テレビやニコ動の可能性を拡張するもののようでいて、芸術表現の可能性をこそ拡張する試みに思われた。芸術のテレビ(ニコ動)化といえばよいか。案外こういったささやかなチャレンジのなかに、先取りされた未来があるのかもしれない。このパフォーマンスは、チェルフィッチュ『わかったさんのクッキー』関連イベントとして上演された。

2015/07/26(日)(木村覚)

「アートと都市を巡る横浜と台北」展

会期:2015/07/24~2015/09/13

BankART Studio NYK[神奈川県]

BankART1929で打ち合せの後、「アートと都市を巡る横浜と台北」展を見る。同施設の台湾との交流レジデンス・プログラムの集大成であり、日本と台湾の作家が参加している。2003年のキリンアートアワードで選んだ東野哲史の毎日ビールを飲む記録、アーツチャレンジで選んだ伊佐治雄悟も幾何学的な作品を出している。

写真:上=伊佐治雄悟の作品、下=東野哲史の作品

2015/07/25(土)(五十嵐太郎)

堂島リバービエンナーレ2015 Take Me To The River

会期:2015/07/25~2015/08/30

堂島リバーフォーラム[大阪府]

大阪市の堂島リバーフォーラムで隔年開催される同展。4度目となる今回は、英国からトム・トレバーをアーティスティック・ディレクターに招き、15組のアーティストの展示を行なった。展覧会タイトルの「テイク・ミー・トゥー・ザ・リバー」は、会場が堂島川に面していること、鴨長明が『方丈記』で記した「行く川のながれは絶えずして~」、ギリシャの哲学者ヘラクレイトスの「万物流転」などにちなんでいるが、特に重要なのは、スペイン出身の社会学者マニュエル・カステルが著書『ネットワーク社会の出現』で指摘した「流れの空間性」である。この説によると、グローバル化した社会では従来の地縁的なセルフ(自我)が衰退し、流動的なネットワークに依拠したセルフが現われるとのこと。池田亮司の巨大な映像・音響作品や、自らの家を金融商品化するフェルメール&エイルマンスなどは、まさに「ネットワークに依拠したセルフ」を具現化したかのようだった。一方、関西を拠点に活動するアーティスト集団プレイや、下道基行、島袋道浩の作品は「旅」がキーワードになっており、牧歌的な詩情が強く感じられる。このようにいくつもの「ザ・リバー」を提示した本展だが、読解力を要求する作品が多いので、現代美術ビギナーにはややハードルが高かったかもしれない。しかしこの機会にそうした作品に好感を持つ人が少しでも増えてくれればと思う。また本展では、過去3回と比べて建物のバックヤードを大胆に活用していた。普段は入れないエリアを探検する感覚が味わえたのも楽しかった。

2015/07/24(金)(小吹隆文)

artscapeレビュー /relation/e_00031760.json s 10114040

他人の時間 TIME OF OTHERS

会期:2015/07/25~2015/09/23

国立国際美術館[大阪府]

日本、シンガポール、オーストラリアの美術館等が共同企画した国際企画展。アジア・オセアニア地域のアーティストを知る機会はまだまだ少なく、20作家の仕事を見られたこと自体に意義を感じた。今後関西でも同様の機会が増えることを期待している。作品は多様だったが、それぞれの国の歴史や社会問題に触れた作品が多い。現代アートと社会の影響関係でいえば、アジア・オセアニア地域のほうが日本よりも密接なのかもしれない。個人的に特に印象深かったのは、キリ・ダレナ、ホー・ツーニェン、サレ・フセイン、アン・ミー・レー。なかでも、実在したスパイの数奇な運命を描いたホー・ツーニェンの映像作品《名のない人》には大いに引き込まれた。

2015/07/24(金)(小吹隆文)

artscapeレビュー /relation/e_00031757.json s 10114038