artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
《写真》見えるもの/見えないもの#02
会期:2015/07/13~2015/08/01
東京藝術大学大学美術館陳列館[東京都]
佐藤時啓、鈴木理策、榮榮&映里ら13組の出品。佐藤は、3.11の被災地の南三陸や女川を大型カメラやピンホールカメラでストレートに捉えている。永井文仁は都市の写真集を丸めて撮影することで画像を歪めてるが、それがまるで津波に襲われた街のように見えるのは偶然か。野村浩は展示室にテントを立てている。なかに入ると10秒ごとにLED電灯が明滅し、床にばらまかれてるコノハムシ型の紙片の影が下に焼きつく仕掛け。これは写真の原理だけど、原爆で壁に焼きついた人影を思い出すのはぼくだけか。今回は社会へのまなざしもテーマのひとつになっている。
2015/07/23(木)(村田真)
伝説の洋画家たち 二科100年展
会期:2015/07/18~2015/09/06
東京都美術館[東京都]
1914年に第1回が開かれた二科展の100回目を記念し、約1世紀の歩みを振り返る展覧会。毎年1回開いてりゃ今年102回目だけど、戦争で2回お休みしたからね。いやー二科といってバカにしちゃあいけませんなあ。とくに戦前期のなんと自由で生き生きとしたこと。第1回展の二科賞を受賞した十亀広太郎の《顔》なんか補色を大胆に使ってるし、第2回に首を吊った老人、第3回に行き倒れを描いた石井鶴三も暗いテーマにもかかわらず二科賞を受けている。その後もキュビスムと未来派を折衷させたような東郷青児をはじめ、萬鉄五郎、岸田劉生、小出楢重、古賀春江、神原泰、佐伯祐三らによる清新な作品が続く。思わず足を止めたのは、34年の第21回に出品された藤田嗣治、宮本三郎、向井潤吉の作品の前。この3人、ご存知のように後に戦争画のスターになる画家たちだが、その3人をひとつのコーナーに囲い込んで見せるというのもなんか意図的だなあ。なかでも森のなかで角突き合わせる動物を描いた向井の《争へる鹿》は、密林のなかを行軍する日本兵を捉えた《マユ山壁を衝く》を彷彿させるものがある。軍靴の近づく30年代末からは松本竣介や、前衛の集まる九室会の吉原治良や桂ゆきらが出品を重ね、まだ自由な空気が伝わってくる。それに比べて敗戦後はどうだろう。わずかに北川民次と岡本太郎が気を吐いてるくらいで、そのふたりもマンネリに陥っていく。美術界をリードした戦前に比して、戦後の二科の弱体化は数字にも明らかだ。全132点のうち、戦前(戦中)30年間の作品が118点を占めるのに対し、戦後70年間の作品はわずか14点。もっとも新しい作品は北川民次の70年の作品で、それ以後45年間は1点も出ていない。このような戦後の美術界への影響力の低下に反比例して、ハデな前夜祭や仮装行列で展覧会を盛り上げたり、芸能人やスポーツ選手の作品を入選させてマスコミを騒がせたりするようになる。作品とは関係ないところで話題を提供するしか生き残れなくなったようだ。いっそ続編として、70年代以降の芸能人だけの作品を集めた展覧会を企画したらどうだろう。
2015/07/23(木)(村田真)
三田村陽「hiroshima element」
会期:2015/07/21~2015/08/08
The Third Gallery[大阪府]
関西在住で、広島とは縁もゆかりもない三田村陽。彼は約10年間にわたり月に一度広島を訪れて、スナップ写真を撮影し続けた。その作品をまとめた写真集『hiroshima element』の発行を記念して開催されたのが本展だ。広島は原爆と共に語られることが多いが、三田村は既成概念を避け、あえて白紙の状態から広島と向き合った。もちろん原爆にまつわる情景を撮った作品もあるが、あくまでも一モチーフに過ぎない。だとすれば、「なぜ広島なのか」との問いが脳裏をよぎるが、三田村は「むしろ自分もそれを知りたいのです」と言わんばかりに「わからなさ」を隠そうとしないのだ。むしろ戸惑いや問いかけの連続こそが彼の作品の本質であり、被写体と真摯に向き合う姿勢の積み重ねこそが作品の魅力なのだろう。「なぜ広島なのか」と思った人は、その問いかけこそ自分が既成概念にとらわれている証だと気付かされるに違いない。
2015/07/21(火)(小吹隆文)
声が聴かれる場をつくる──クリストフ・シュリンゲンジーフ作品/記録映画鑑賞会+パブリック・カンバセーション
会期:2015/07/20~2015/09/27
アートエリアB1[大阪府]
美術館や劇場といった既存の制度の枠内から路上に出て、多様な社会層の参加と議論の喚起を引き起こすクリストフ・シュリンゲンジーフのアクション/パフォーマンス作品の記録映画の上映会。ここでは、特に『外国人よ、出ていけ!』に焦点を絞ってレビューする。
『外国人よ、出ていけ!』は、オーストリアで2000年に、外国人排斥を掲げる極右政党が政権入りしたことを背景に、同国最大の演劇祭「ウィーン芸術祭週間」で制作されたパフォーマンス作品(『お願い、オーストリアを愛して!』)の記録映画。12人の「難民申請者」を1週間コンテナハウスに居住させ、内部の様子をネット中継し、「観客」の投票によって国外追放する外国人が毎日2人ずつ選ばれていくという、過激な仕立てのパフォーマンス作品である。広場に設置されたコンテナは、極右政党のスローガンやヘイト発言を掲げる人気大衆紙で飾られ、道行く人々はピープショーのように壁の隙間から覗くことができる。
記録映画を見ているうちに感じるのは、真/偽の境界が融解していくに伴って、「パフォーマー/観客・観察者」の関係に生じる、奇妙な反転である。移動の自由を奪われ、監視され、強制送還を待つ身の「難民申請者」たちには、不思議なことに緊張感が感じられない。コンテナ内部の映像を見る限り、彼らはリラックスした様子で、コンテナから「強制退去」される場面でも、顔こそ隠しているものの、理不尽な「投票」結果に抗議したり、人権侵害を訴えたりすることなく、無抵抗で歩いていく。彼らが「本物の」不法滞在者かどうかは、映画内では(おそらく故意に)曖昧化されている(常識的・倫理的には「本物」とは考えにくいが、サンチャゴ・シエラのように、不法就労者に賃金を払ってギャラリー内で「労働」させる作品の例もある。ただしここでは、「本物かどうか」が重要なのではなく、「投票による外国人追放劇が公共空間で実際にパフォームされること」、つまり将来的な可能性が社会実験として「上演」されることで、市民の中に賛否両論の嵐のような反応を引き起こすことが企図されていたと言える)。
コンテナ内の「難民申請者」たちの切迫感のなさや正体の不透明さとは対照的に、「観客」たちの方が、右翼・保守/左翼・リベラルの双方の立場から抗議の声を上げ、シュリンゲンジーフに詰め寄り、身振り手振りも豊かに語り出す。「観客」「観察者」「窃視者」であったはずの者たちの方が、むしろ俳優のように雄弁に振る舞い、現実社会の諸相を鏡のように映し出すのだ。差別意識、ナショナリズム、監視社会、投票というシステムの「正しさ」とそれに則った不寛容さ……。とりわけ傑作なのは、「我々は文化的な国家だ、オーストリアに対する侮辱だ」と抗議する人が、「ドイツへ帰れ!」とシュリンゲンジーフを罵倒し、はからずも差別意識をさらけ出してしまうシーンだ。
シュリンゲンジーフの戦略の巧みさは、自身の立場を左か右か表明せず、「政治的主張」として行なうのではない点にある。コンテナに掲げられた「外国人よ、出ていけ!」というショッキングなスローガンもまた、予想される極右政党の批判をかわす戦略である。「これはあなたたちの掲げているスローガンですよ」というわけだ。ただしこの文句を観客に向かって直接言うのではなく、文字で表示することで、主張の明確さとは裏腹に、メッセージは匿名性を帯びていく。誰が誰に向かって発した言葉なのか、主体と対象が曖昧なまま、メッセージだけが浮遊し、人々の感情的な反応を引き起こす。
では、単なる社会批判や政治的主張ではないのなら、シュリンゲンジーフの挑発的な試みのより深い意図はどこにあるのか? 路上で人々と向き合うシュリンゲンジーフは、スローガンに賛同する右翼や保守主義者/批判する左翼やリベラリストにかかわらず、相手の意見を否定せず、むしろ拡声器を渡して彼らに積極的にしゃべらせる。たとえそれが何語であろうとも、「あなたはあなたの言葉で話してよい」のだ。一時的であれ、感情を逆撫でする不快感を伴うものであれ、誰もが自由に発言できる、多層的な声を響かせることのできる空間を、公共の場に開いたこと。それによって社会の矛盾や歪みが露わになり、「発言者」自身や周囲が気づけば、なぜそうした社会構造や心理構造になっているのか? 変えるにはどうすれば良いのか? と考え始めるだろう。その先に、一人一人が政治参加者として主体的に考え始めることが、真に民主的な社会への第一歩ではないか。おそらくここに、彼が根源的に目指す地点がある。
アートには、「現実を直接変える」有効性はないが、意識を変える媒介としての可能性はある。本作は、「観客」であった存在が、舞台に上がった「俳優」として声を発し、しかしその「台詞」はメディアなど他の誰かによって用意されたものではないか? という自問を経て、「主体的発言者」へと至ることが賭けられた演劇作品であると言える。だから劇場の幕が下りて終わるのではなく、「幕が上がった」というシュリンゲンジーフの言葉で締めくくられるのだ。
開催日:2015/07/20、08/08、9/27
2015/07/20(月)(高嶋慈)
瀬戸正人「瀬戸家1941-2015──バンコク ハノイ 福島」
会期:2015/07/14~2015/07/27
新宿ニコンサロン[東京都]
家庭アルバムは写真家の自己表現をめざすものではないゆえに、逆に撮ることの原点を指し示し、写真本来の輝きを刻みつけることがある。ただ、今回瀬戸正人が新宿ニコンサロンで開催した「瀬戸家」展は、その中でもやや特異なありようを呈していると思う。というのは、「瀬戸家」の来歴そのものが、普通の日本人の家庭アルバムにはおさまりきれないものだからだ。
瀬戸正人の父、武治は1941年に会津若松の写真館で撮影した記念写真を残して出征し、上海、ベトナム、ラオス、タイと転戦して終戦を迎える。ところが、引揚げの機会を失って、タイ国ウドンターニ市に留まり、当地でハノイから来たベトナム人の女性、ジンと結婚して写真館を経営するようになる。1953年、トオイ(日本名、正人)が誕生。1962年になって、ようやく故郷の福島県梁川町(現伊達市)に帰郷することができた。
つまり、日本の戦前から戦後にかけての歴史と社会状況を、あまり例のない角度から照らし出しているのが「瀬戸家」に残された写真群であり、それらのスナップ写真、記念写真には、その断面図が重層的に畳み込まれているのだ。今回の展示では、小さい写真をスキャニングして大きく引き伸ばし、実物と一緒に並べていた。写真の表面の傷や染み、印画紙の凹凸までくっきりと浮かび上がることで、実物以上の物質感を体験できるのが興味深い。そのことによって、タイ、ベトナム、日本の時空が入り混じり、行き交うような、カオス的といえる展示空間が成立していた。
会場には、福島やハノイで撮影した瀬戸自身の「作品」も展示されていたのだが、今回はむしろ「瀬戸家」のアルバムだけで構成した方がよかったような気もする。「作品」はまた別の物語を呼び起こしてしまうからだ。
2015/07/20(月)(飯沢耕太郎)