artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
Slice Pack
会期:2015/07/07~2015/07/18
Galerie 16[京都府]
ともに写真画像を素材として用い、描画や転写といった手作業を介在させることで、イメージの変容と認識のあり方について問う、荒井理行と楠本孝美による二人展。
荒井は、写真を画面の上に貼り付け、その周囲を想像して余白に写実的な光景を描き込んでいく絵画作品を制作してきた。出品作では、横長のパノラマ画面上に、ミレーの《落穂拾い》の複製画像、ベトナム戦争での虐殺事件のドキュメンタリー写真、草原を歩く狩猟者を写した写真、ウィンドウズの標準的なデスクトップ画面(おなじみの青空と草原)、テレビドラマ「大草原の小さな家」の静止画像(草原を駈けていく少女たち)といった様々な画像が集められ、画像同士の間の空白がつながるように、緑や茶褐色の草原、小川、木々の描写で埋められていく。貼り付けられた画像は、絵画/写真/PC画面/TV画面といったソースも、事実の記録/フィクションといった区別もバラバラで意味的な連関も見いだせないが、唯一、「草原」という共通項だけでつながりを保っている。そのランダム感や見境の無さは、「草原」という検索ワードをかけて収集した時の、Google画像検索結果の表示に近い。
写真=「現実」、絵画=「虚構」という分かりやすい図式はもはや成立しない。荒井の作品が提示するのは、写真=リアルな対応物が外界に存在するのではなく、写真はもはや「画像」として検索・収集対象と化し、その際に打ち込んだ検索ワードやタグによっていかようにも接続可能な存在であるということだ。検索ワードやタグによって自在に結び付けられ、かつ組み換え可能であること、つまり関連の恣意性によって、画像同士の「間」「距離」には無数の「物語」が発生する。描画と地続きの存在として扱われたそれらの画像は、周囲に描かれたイメージと「同等」なほどにフィクショナルな存在であることを示している。そして私たちが身を置くそうした画像環境では、凄惨な虐殺の報道写真もつくられた映像も無邪気で多幸感溢れる写真も「等価」であり、並列化されているのだ。
一方、楠本は、複数の写真を幾何学的にコラージュした画面をシリコンに転写した平面作品を発表。過去の写真作品でも、矩形の色面の反復や斜線の反復・交差など、日常的な光景の中で、本来は関連のない物体同士が見せる形態的反響やリズミカルな構成を捉えていたが、発表作では、そうしたスナップショットからコラージュへと移行。画像をぼかす、帯状に切断した写真同士を接合する、無関係な写真の上に重ねるといった加工や操作を施されて出来た画面は、シリコンに転写され、さらに表面に切れ込みや破れ目が入れられて、白い下地が露出する。楠本の作品は、二重、三重の介入を受けた画像を再び物質性へと送り返すことで、イメージの形態と認識、イメージと物質性とが錯綜した状況を作り上げていた。
2015/07/12(日)(高嶋慈)
入江泰吉/阿部淳/近藤斉「モノクロスナップ写真の魅力」
会期:2015/07/04~2015/08/30
入江泰吉記念奈良市写真美術館[奈良県]
奈良市写真美術館は、大和路の風景・仏像を撮り続けた入江泰吉(1905~92)の業績を記念して、1992年に奈良市高畑地区に開館した写真美術館。入江の作品、約8万点を所蔵・公開している。ただ、他の個人写真美術館と同様に、開館後20年以上たつと施設が老朽化し、予算も削られて、運営がむずかしくなりつつあった。そんな中で、今年4月に百々俊二が館長に就任した。百々は長くビジュアルアーツ専門学校・大阪の校長を務め、写真家としても実績を残している。その彼が、最初に手がけた展覧会が、今回の「モノクロスナップ写真の魅力」展である。
入江泰吉は、1950~60年代にかなり多くの奈良市周辺のスナップ写真を撮影している。主にライカM3で撮影されたそれらの写真は、しっかりとしたフレーミング、巧みな光と影の配分に特徴があり、「戦後」の空気感をいきいきと写しとっている。今回は「昭和大和のこども」をテーマに73点が展示されたが、そのうち15点は百々俊二があらためてプリントし直した未公開作だった。
阿部淳は1955年、近藤斉は1959年生まれで、どちらもビジュアルアーツ専門学校・大阪の前身である大阪写真専門学校を卒業している。学生時代から「モノクロスナップ写真」を続けてきたが、その作風はかなり違う。近藤の「民の町」のパートには、1981~2004年に大阪と神戸の路上で撮影された写真が並んでいた。地域性、時代性にこだわりつつ、人と街とのかかわりをダイナミックに写しとっていく。撮影を通じて「カメラを持つことでしか見えてこない世界」を浮かび上がらせていく指向性は、1960~70年代にリー・フリードランダーやゲイリー・ウィノグランドらが試みた「社会的風景」の探求に通じるものがある。
一方、阿部の「市民」には、地域性や時代性はほとんど感じられない。彼自身が「現実の現実感と夢の現実感が重なった所で写真を撮る」と書いているように、そこにあらわれてくるのは、あたかも夢遊病者の眼差しでとらえられたような、浮遊感をともなう断片的な光景だ。阿部の触手が、都市と、そこに蠢く人々の無意識の部分に伸ばされているようにも感じる。
同じ「モノクロスナップ写真」でも、まったく質感が違う3人の写真が共振する、とても面白い展示だった。近藤の写真は106点、阿部はなんと740点、入江の73点とあわせて919点という数は、むろん同館の企画では最大級だろう。入江泰吉の作品世界を追認していくだけではなく、これまであまり取り上げてこなかった若手写真家たちの作品を含めて、さらに新たな方向性が打ち出されていくことを期待したい。
2015/07/12(日)(飯沢耕太郎)
井村一巴 個展「Physical address」
会期:2015/06/23~2015/07/12
みうらじろうギャラリー[東京都]
セルフヌード写真の黒い背景に針で無数の穴をあけて、植物のツルのような菌糸のような、ときにクラゲのようなパターンを点描している。まるで自分の身体から異物がニョキニョキと生えてくるようなイメージ。あるいは皮膚に施す刺青の代用かも。いずれにせよ作者の深層心理がちょっと気になる。
2015/07/11(土)(村田真)
蔡國強:帰去来
会期:2015/07/11~2015/10/18
横浜美術館[神奈川県]
ニューヨークに移住して20年、久しぶりに日本で個展を開く心境を「帰去来」というタイトルに込めたという。作品は全部で10点。たった10点というなかれ、1点1点が大きく、最後の《壁撞き》なんか企画展示室をブチ抜きで丸ごと使ってる。まず最初の部屋は《人生四季》という4点の連作。支持体に火薬をまき爆発させて描いたものだが、なにやら妖しげな雰囲気。それもそのはず、月岡雪鼎の春画《四季画巻》にインスピレーションを得たものだそうだ。春画には厄除けの効能があるとされており、なぜか雪鼎の春画は火除けとして重宝したらしいが、蔡さんはそのことを知って火をつけたんだろうか。大作《壁撞き》は、99匹の狼が次々と跳躍し、ガラスの壁にぶつかっては再び跳躍を繰り返すという寓話的な情景をフリーズさせたようなインスタレーション。99という数字は道教では永遠の循環を象徴するらしい。ガラスの壁は「見えざる壁」で、ベルリンの壁と同じ高さに設定してある。2006年にベルリンで初公開され、現在はドイツ銀行のコレクション。ちなみに狼はリアルに再現されているけど剥製ではなく、羊毛でつくられたフィギュアというところが蔡さんらしい。エントランス正面の半円筒形のホールには8×24メートルの超巨大な火薬絵画を展示。これは6月にこの場所で制作した《夜桜》で、桜の花の繊細ではかない美しさを一瞬の爆発で表現したもの。それにしても火薬絵画は瞬発性や偶然性を楽しむことはできるが、長時間の鑑賞に耐えるものではない。だからズドーンと重いわりにすぐ見終わってしまう。無理を承知でいえば、もっと《文化大混浴》とか《農民ダ・ヴィンチ》とか持ちネタはたくさんあるんだから、全館使って多彩な蔡ワールドを展開してほしかった。
2015/07/10(金)(村田真)
吉澤美香 2015「名誉・利益・恐怖」
会期:2015/07/04~2015/08/07
ギャラリー・アートアンリミテッド[東京都]
9枚の正方形の紙に左右対称に植物模様を描き、その上に頭蓋骨、毒グモ、トロフィー、宝石といった不穏なモチーフを珍しくリアルに描いている。タイトルの「名誉・利益・恐怖」は、古代ギリシャの歴史家トゥキディデスによれば戦争を起こす三つの要因であり、頭蓋骨や毒グモは恐怖を、トロフィーは名誉を、宝石は利益を象徴しているという。戦争とか反戦とか声高に叫ぶのではなく、比喩を用いていまの政治に危機感を表明したものと受け止められる。最近、村田峰紀といいオフニブロールといい会田誠といい、若手・ベテランを問わず少なからぬアーティストが政治性を帯びた、トゲのある作品を発表するようになった。そんな世界とは無縁と思われがちだった吉澤美香がこうした作品を手がけるのは、やはりいまの日本に対して相当な危機感を抱えている証だろう。
2015/07/09(木)(村田真)