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美術に関するレビュー/プレビュー

PARASOPHIA:京都国際現代芸術祭2015 コラテラル企画

会期:2015/03/07~2015/05/10

元崇仁小学校、京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA会場、ホテルアンテルーム京都、gallery ARTISLONG[京都府]

京都国際現代芸術祭2015のコラテラル企画を幾つかまわる。京都市芸のstill moving、ウルトラ@アンテルーム、ギャラリーアーティスロングの吉田重信展、横山裕一@マンガミュージアムなど。この充実度が京都らしい。札幌、横浜だと、これだけ揃えられないし、またあいちトリエンナーレだと、本体事業がデカ過ぎて目立たない。将来、京都市芸が移るという元・崇仁小学校は、各教室で、ゼミや作家の作品を展示している。建築的なものでは、井上明彦+二瓶晃のインスタレーションやRADの中村裕太らとプロジェクトを展開するという。そして前々から行こうと思って、ようやく訪れたアンテルームは、1階の入口から奥まで全域にわたって、京都造形のウルトラ・ファクトリーによる展示である。名和晃平、ヤノベケンジ、やなぎみわ、石橋義正、黄海寧、森彩華、菊池のえる、橋本敦史など。それにしても、アンテの空間がカッコいい。外国のおしゃれなホテルのようだ。地下鉄で移動し、京都市芸ギャラリー@KCUAへ。各駅の構内でも、京都の美大、芸大が展示している。KCUAの1階は、青木陵子、伊藤存、伊東宣明、金氏徹平ら。京都を拠点とする作家の層の厚さを感じさせる。2階は、学長の退任記念展「POETRY / ART」を開催しており、詩人でもある建畠晢が作品も制作していた。

写真:左上から、元・崇仁小学校2枚、アンテルーム、ウルトラ@アンテルーム 右上から、京都市芸ギャラリー@KCUA、POETRY / ART69、ギャラリーアーティスロングの吉田重信展

2015/03/07(土)(五十嵐太郎)

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パラソフィア:京都国際現代芸術祭2015

会期:2015/03/07~2015/05/10

京都市美術館+京都府京都文化博物館+京都芸術センター+堀川団地など[京都府]

京都で国際展が開かれるというと、ほかのどの都市よりも期待してしまうのは、たぶん伝統と革新が摩擦を起こしながらも共存してきた歴史の厚みゆえだろう。しかもアーティスティックディレクターが京都近美で長年先鋭的なアートを発信し続け、また第1回ヨコトリの4人のキュレーターのうちもっとも尖っていた河本信治氏というのだから、期待しないわけにはいかない。参加アーティストは40組と小ぶりで、しかも会場も京都近美向かいの京都市美術館をメインとして、京都文化博物館や京都芸術センターなど市内数カ所の施設も使うという、いたってオーソドックスなもの。これは中身で勝負するしかないな。
まずは京都市美の巨大な吹き抜けホールを独占した蔡國強。ホール中央に竹で組み上げた7層のやぐらが目を引くが、これは京都が手本にした長安の大雁塔をイメージしたもので、いってみれば芸術祭の広告塔のような存在。メインの作品はその塔に絡めた「子どもダ・ヴィンチ」や、周囲に並べた「農民ダ・ヴィンチ」のほうだ。これらは彼がここ数年ワークショップのかたちで進めているプロジェクトで、中国の農民や子どもたちが身近な素材を使って自作したロボットなどを集めたもの。もともと京都のために考えられたプロジェクトではないが、竹の塔も含めて全体で「京都ダ・ヴィンチ」と称している。今回はこのようなプロジェクト型の作品が大半を占め、いわゆる絵画や彫刻のような既存作品を持ってきただけの展示はほとんどない。たとえば、京都市美の戦後史を調べてワークショップを行ない、その映像を美術館の備品とともにインスタレーションした田中功起、戦前の日本の前衛芸術運動について調査し、その成果を京都の職人がつくった漆喰のパネルに表現したフロリアン・プムヘスル、日本の近代美術史を再解釈してダイアグラムにまとめた眞島竜男、京都駅近くのフェンスに囲まれたいわくありげな崇神地域に公園の遊具などを並べたヘフナー/ザックス、などだ。
これらは作品というより調査研究の成果を発表するプレゼンみたいなもので、作者やガイドブックのコメントをたよりに映像やインスタレーションを読み解いていかなければならず、パッと見ておもしろいものではない(理解しても「だからなんなんだ」という作品もある)。視覚的に楽しめる作品は、堀川団地の天井とフトンの上に幻想的な映像を映し出したピピロッティ・リストのインスタレーションくらい。ま、はっきりいってかなりツライ展覧会ではあった。んが、かといって見てソンしたかというとそんなことはなく、むしろ作品数以上に見ごたえがあったし、おそらく日本で望みうる最良の国際展だったといっておこう。それはひとえに、どこかで見たような既存作品をできるだけ避け、アーティストを京都に招いて可能な限り新作をつくってもらうという前向きな姿勢にある。国際展はアートフェアじゃないんだから。

2015/03/06(金)(村田真)

PARASOPHIA:京都国際現代芸術祭2015 街なか展開

会期:2015/03/07~2015/05/10

河原町塩小路周辺、京都芸術センター、京都府京都文化博物館、大垣書店烏丸三条店、堀川団地(上長者棟)、鴨川デルタ(出町柳)[京都府]

街なか展開では、河原町塩小路周辺が印象的だった。ここはさまざまな歴史的経緯のある複雑な場所で、立ち退きが進行しており、高い柵に囲まれた空き地が連続し、見るからに違和感のある風景だ。ヘフナーとザックスは、ここにベンチ付きの柵を足しながら、放置された資材や廃棄物を使って、庭園に見立てたようなインスタレーションを行ない、空間的な批評で介入する。京都芸術センターは、2階の講堂において、アーノウト・ミックの空間に介入する映像のインスタレーションだ。あいちトリエンナーレ2013のときの作品と違い、今回は本当のドキュメント映像も混ざる新しいタイプの作風だ。大垣書店烏丸三条店のショーウィンドーでは、リサ・アン・アワーバックの大きな写真が出迎える。そして京都文化博物館別館のホールでは、森村泰昌によるベラスケス《侍女たち》の作品世界が、彼の介入によって変容していくポストモダン的な連作だ。堀川団地は、一階が店舗、二・三階が住居(現在は空っぽ)の1950年代建築であり、各部屋の空間を意識したインスタレーションを展開する。天井やふとんに夢のような映像を投影するピピロッティ・リスト。不在の部屋で小さな仮面が向き合うブラント・ジュンソー。そして空間に介入し、作品化させる笹本晃である。鴨川デルタでは、3つの橋の下のスピーカーからの音楽が連鎖するスーザン・フィリップスだ。いずれも美術館の内部では不可能な、その場所でしか体験できない作品である。最後は、二条城の横で行なわれたオープニングのイベントに向かい、やなぎみわのトランスフォーマー的に変形するトラックにて、二人の女性によるポールダンスのパフォーマンスを鑑賞する。

写真:左上=ヘフナーとザックス 左中上=スーザン・フィリップス 右上=ピピロッティ・リスト 右中上=やなぎみわ 中下=リサ・アン・アワーバック 下=森村泰昌

2015/03/06(金)(五十嵐太郎)

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PARASOPHIA:京都国際現代芸術祭2015 京都市美術館

会期:2015/03/07~2015/05/10

京都市美術館[京都府]

パラソフィア/京都国際現代芸術祭2015の内覧会へ。メインの京都市美術館を含めて、映像の作品が多いので、本当に全部見ようとしたら、相当な時間がかかる。内容は芸術監督の河本信治が「エンターテイメントではなく」とうたうように、シリアスで硬派だ。昨年から、横浜トリエンナーレ、札幌国際芸術祭など、芸術「祭」というより「展覧会」色が強い企画が続く。個人的には、京都市美術館の内部がけっこう大きくて、現代美術に合う空間というのが、まず大きな発見だった。近代美術のために戦後につくられたモダニズムの美術館は、いまや現代アートにとって天井は低いが、30年代の帝冠様式の建築は、国際展にとっても余裕のあるデカさなのは興味深い。

写真:上=《京都市美術館》外観 中=蔡國強の展示 下=展示室内

2015/03/06(金)(五十嵐太郎)

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青野文昭 展

会期:2015/02/14~2015/03/14

gallery αM[東京都]

破損した廃棄物や漂着物を素材にして「なおす」こと。仙台市在住のアーティスト、青野文昭はこれまでさまざまな物を組み合わせ、融合させ、新たな造型をつくり出してきた。それらの多くは接合面がじつに滑らかに処理されているため、物と物とのあいだに主従関係を確定することが難しく、それゆえあたかもそのような物として最初から自立していたかのような風格が漂っているのが特徴だ。
新作と旧作をあわせて発表した今回の個展で注目したのは、2点。ひとつは、青野の作品がこれまで以上に垂直的な志向性に貫かれていたこと。タンスや机などを合体させる点は同じだが、それらを垂直方向に組み上げているので、記念碑のような構築性が強く感じられる。もうひとつは、以前とは対照的に、接合面が鋭角的な作品が現われてきたこと。おそらくは震災で打ち壊された看板やタンスなどが連結していることに違いはないのだが、その繋ぎ目が見えないほど滑らかというより、むしろ破壊された物の凹凸のある質感を活かしながら連結している。それゆえ物に加えられた暴力的な力の痕跡が、いままで以上にはっきりと伝わってくるのだ。
明らかな構築性と暴力性の痕跡。今回発表された新作には、青野による「表現」を明確に見出すことができる。物と物とを一体化して「なおす」という造形の身ぶりを隠していないと言ってもいい。現代美術のなかには必要最小限の手数によって作品を成立させることが美徳とされる風潮が依然として根強いが、今回の青野の表現は、第一に、そうした主流に対する批判的な応答として考えられるだろう。
だが、それだけではない。青野がそのような造形の身ぶりを前面化させたのは、おそらく物に打ち振るわれた暴力を正面から受け止め、それを造形として反転させようと試みたからではなかったか。暴力の痕跡を残した接合面は、青野自身がそれと対峙したことの現われであり、さらにそれを造形として反転させるためには、古今東西、人類による造形物の多くがそうであるように、垂直方向に力強く立ち上げる必要があったのだ。あえてそうしなければ、造形は決して成立しないということを、青野は直観していたにちがいない。
なぜなら、あの震災以後、あらゆる造形は視覚的な強度を根本から問い直されているからにほかならない。とてつもない力でねじ曲げられた鉄骨や粉砕された家屋などを、直接的であれ間接的であれ、目の当たりにしたいま、それらに太刀打ちしうる造形でなければ造形が造形である必然性は失われてしまう。ほぼ同時期に、銀座のエルメスで催されたモニカ・ソスノフスカによるねじ曲げられたゲートを宙吊りにしたインスタレーションが、当人の狙いは別として、いかにも人工的で軟弱に見えたように、私たちの眼はある意味で造形に対して非常に厳しくなってしまったのだ。暴力を忘却するのではなく受け止め、それと拮抗しうる造形を立ち上げること。青野が示した造形のありようは、ポスト3.11のアートにとって、ひとつのモデルであると言えよう。

2015/03/06(金)(福住廉)