artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
わが愛憎の画家たち 針生一郎と戦後美術
会期:2015/01/31~2015/03/22
宮城県美術館[宮城県]
美術評論家の針生一郎による批評から戦後美術の歴史を振り返った展覧会。主に1950年代から70年代に制作された絵画作品を中心に、針生による著書や映像、およそ300点が展示された。
会場には、まさしく溢れんばかりに絵画が展示されていた。空間の容量に対して絵画の点数が多すぎたため、鑑賞しているうちに、次第に疲労感が増してきたが、それでもその物量感こそが、針生が対峙していた戦後美術の厚みの現われだったのかもしれない。事実、とりわけ50年代における池田龍雄や山下菊二、中村宏、曹良奎、小山田二郎、桂ゆきらによる作品は、いまもなお鮮烈な魅力を放っていた。あわせて掲示されていた針生による批評の抜粋を読むと、それがこの時代の美術と激しく共振していた様子が伺える。
ただし、そのシンクロニシティはおそらく60年代後半までだった。読売アンデパンダン展における反芸術を契機として、針生の美術批評と戦後美術の主流は徐々に離れていくように見受けられた。だが批評とは、現場の最前線で歴史と格闘することよりも、むしろ歴史の傍流や伏流にあってこそ、その真価を問われるのではないか。スポットライトの当たる場所で喧伝される批評言語は、その内容云々以前に、おのずと衆目を集めるため底上げされやすいが、その傍らの陰でささやかれる批評の言葉は、まことの説得力と美しさがなければ、読者の心には響きにくいからだ。
その意味で、本展の構成がおおむね70年代末で終わっていた点は、あまりにも惜しいというほかない。針生一郎の美術批評を根本的に再検証するのであれば、それが戦後美術の主流から逸れた80年代から晩年の2000年代の批評をこそ、そのための具体的な材料として活用しなければならないからだ。
本展でわずかに触れられていたように、この時期の針生一郎はとりわけ「人権」に焦点を当てていた。実際、「日本アジア・アフリカ・ラテンアメリカ美術家会議(JAALA)」の結成(1977年)をはじめ、自由国際大学の創立(1986年)、第3回光州ビエンナーレ特別展「芸術と人権」のキュレーション(2000年)、原爆の図丸木美術館の館長(2001〜2010年)など、針生は人権や政治に深く関与していた。
生前の針生一郎が批評活動を展開していた時代、このような政治性は美術の創作や鑑賞と無関係であると頑なに信じられていた。針生が批評によって楔を打ち込み、突き崩そうとしていたのは、このような頑強な壁にほかならない。だが針生の死後、状況は一変した。東日本大震災による原発事故の解決を先送りしてまでも、憲法改悪を企む不穏な動きが露骨に顕在化しているいま、針生が焦点を当てていた人権は、かつてないほど大きな危機に瀕していると言わねばなるまい。好むと好まざるとにかかわらず、現代美術における「芸術と人権」は、もっともアクチュアリティのあるテーマとなってしまったのである。
本展における針生一郎の表象は、部分的で偏りがあるものだ。だが、その不在の針生一郎こそ、いま最も必要な批評の原型なのだ。
2015/03/19(木)(福住廉)
パラソフィア:京都国際現代芸術祭2015
会期:2015/03/07~2015/05/10
鴨川デルタ[京都府]
先々週の内覧会のとき、最後にスーザン・フィリップスのサウンド・インスタレーションの場所に駆けつけたのに、終了時間の午後6時を回っていたせいか終わっていたガーン。今日はリベンジで、再び賀茂川と高野川の合流点の鴨川デルタと呼ばれる三角地帯にやってきた。この三角地帯を囲む3本の橋の下にスピーカーが設置されているのだが、しばらく待っても雑音以外なにも聞こえてこない。まさか、と思って案内板をよく見たら、30分に1回、2分43秒と記されていた。とりあえず4分33秒でなくてよかった。5時ぴったり、ひとつのスピーカーから清廉な歌声が聞こえてくる。追いかけるように残りふたつからも歌声がかぶさり、美しいカノンに。バスや雑踏、川の音も混じってイイ感じ……と思ったらおしまい。あっという間の作品でした。
2015/03/18(水)(村田真)
國府ノート2015
会期:2015/03/17~2015/03/29
アートスペース虹[京都府]
滋賀から山科に出て地下鉄で蹴上へ。昨年4月、国際芸術センター青森で個展中に事故死した國府理の資料展が開かれているというので見に行く。國府は自動車を使った作品で知られる関西のアーティストで、青森の個展では密閉空間に自動車を置き、エンジンをかけたまま作業していて倒れたらしい。ギャラリーの壁にはプロペラつきの自転車が飾られ、テーブルには厖大なメモやドローイングが置いてあり、自由に見られるようになっている。自分でいうのもなんだが、故人とは面識もないのになんで見に来たんだろう。たぶん彼が作品制作中に作品のなかで亡くなったからだ。
2015/03/18(水)(村田真)
曽我蕭白「富士三保図屏風」と日本美術の愉悦
会期:2015/03/14~2015/06/07
ミホミュージアム[滋賀県]
こちらはいかにもミホミュージアムらしいコレクション展。蕭白の《富士三保図屏風》を中心に、光琳、仙 、応挙らの水墨画、陶器、埴輪、神像などが並んでいる。ずいぶん金をかけた余裕の展示だ。なかでも圧巻が初公開の《富士三保図屏風》。六曲一双の左隻に裾野がギューンとタコの足のように延びた富士山が描かれ、右隻には海をまたいで虹がかかっている。どこからどう見りゃこのように見えるんだろう。まさに「奇想」の画家。それにしても、ミホで三保とは。
2015/03/18(水)(村田真)
バーネット・ニューマン──十字架の道行き
会期:2015/03/14~2015/06/07
ミホミュージアム[滋賀県]
一度行った者は二度と行けないとされる桃源郷……をイメージしたミホミュージアム、また来たよ。でも最初に来たときには気づかなかったけど、チケット売り場やレストランのあるレセプション棟から、トンネルを抜けて橋を渡り美術館棟に到る道のりは、臨死体験とよく似ている。桃源郷とは死後の世界だったのか。いきなり死後の世界に来てしまいましたが、こんなところでバーネット・ニューマンに出会えるとは思わなかったなあ。
作品はワシントン・ナショナルギャラリーが所蔵する全15点の連作《十字架の道行き》。15点のうち14点は同じサイズ(198×153cm)で、1点だけサイズがひとまわり大きく(205×185cm)、正方形に近いかたちをしていて、これらを8角形の部屋にグルリと並べている。このうち10点には黒の、4点には白の線(または面)が垂直方向に塗られ、大きめの1点には画面の両端に黒とオレンジの垂直線が引かれている。したがってグルッと見回すと、壁の白に矩形のクリーム色がかった白いキャンバスが置かれ、その上に不規則な間隔で黒と白の線(面)が立っている感じだ。色らしい色は1本のオレンジの線のみ。いったいこの連作、どのように見ればいいのか。そもそもなぜ連作なのか、なぜ横長の1枚の画面ではいけなかったのか。そこで完成まで8年を要したという制作プロセスをたどっていくと、おもしろいことがわかる。最初は黒と白のリズムの変化を楽しんでいるようだったが、半分を過ぎたころから絵具を白に変えたり線を面に広げたり、明らかにパターンから外れて冒険し始める。最後のほうの作品(とくに13枚目)はまるで前半の白黒が反転したネガのようだ。つまりここにはモネの連作と同じく時間の推移が表わされており、絵画というものがいかに生成し発展していくかということが見てとれる。言い換えればこの連作のプロセスそのものが連作の主題になっているのだ。
それにしても、なぜ若冲や蕭白など日本美術で知られるこの美術館で、対極ともいえるアメリカ抽象表現主義の作品が展示されてるのか。そのヒントは建築にあった。かつてミホミュージアムを訪れたワシントン・ナショナルギャラリーの館長は、自然に溶け込んだ美術館建築に強く印象づけられ、自館のニューマン作品を貸し出すことになったとき、このミュージアムを思い出したのだという。でもなぜワシントンの館長がわざわざ滋賀県の山奥まで行ったのかといえば、ナショナルギャラリーの東館(現代美術部門)を設計したのが、ミホと同じ中国系アメリカ人I・M・ペイだったからであり、そもそもペイにミホの設計を依頼したのは、創立者がワシントンを訪れたときナショナルギャラリーの東館を見て感銘を受けたからにほかならない。つまりペイの建築を仲介に、ミホミュージアムとナショナルギャラリーは互いにラブコールを送っていたわけ。でもこんな山奥で公開してもヒマなおばちゃんくらいしか見に来ないと思うよ。
2015/03/18(水)(村田真)