artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

澤田知子「FACIAL SIGNATURE」

会期:2015/03/14~2015/04/18

MEM[東京都]

2013年に発表した「SKIN」と「Sign」の2シリーズは、澤田知子が新たな方向に向かいつつあることを示す作品だった。得意技の「セルフポートレート」を封印した「SKIN」、ポップアート的な題材と増殖・並置の手法を探求した「Sign」とも、その表現領域を拡大していこうとする意欲的な取り組みだったのだ。だが今回、同じMEMで展示された新作「FACIAL SIGNATURE」では、ふたたび慣れ親しんだ「セルフポートレート」に回帰している。では、今度の作品が後退しているかといえば、必ずしもそうはいえないのではないかと思う。むしろ「SKIN」と「Sign」の実験を踏まえて、より高度に「人はどのように外見から個人のアイデンティティを特定しているのか」と問いかけ、答えを出そうとしているのだ。
澤田が今回「変装」しているのは「東アジア人」である。韓国人、中国人、台湾人、シンガポール人、モンゴル人らと日本人とは、特に西欧諸国では見分けるのがむずかしいだろう。それゆえ、さまざまな「東アジア人」になるため、髪型、表情、メーキャップなどを微妙に変えていく作業は、これまでよりもさらにデリケートなものにならざるを得なかった。それを可能としたのが、ここ10年余りのメイクやウィグの急速な進化と、澤田自身の経験の蓄積だったことはいうまでもない。結果として、ギャラリーの壁に整然と並んだ、微妙に異なる108枚の「FACIAL SIGNATURE」は、独特の魔術的な効果を発するものになっていた。シンプルな黒バックから浮かび上がる顔、顔、顔を眺めていると、不気味でもあり、ユーモラスでもある、奇妙な視覚的体験に誘い込まれてしまうのだ。
なお、展示にあわせて青幻舎から同名の写真集が刊行されている。

2015/03/18(水)(飯沢耕太郎)

絵画者 中村宏 展

会期:2015/02/14~2015/03/29

浜松市美術館[静岡県]

中村宏の本格的な回顧展。学生時代の絵画から近作まで、およそ60点が展示された。出品点数で言えば、東京都現代美術館の「中村宏|図画事件1953-2007」より小規模だったが、そのぶん要点を最小限にまとめた構成で、良質の企画展だった。中村宏と言えば、50年代のルポルタージュ絵画がよく知られているが、本展で明らかにされていたのは、「絵画者」というタイトルが明示しているように、中村宏の画業がまさしく「絵画」の実践そのものだったという事実である。
本展を見ると、中村の絵筆は、具象的な絵画に立脚しながらも、さまざまなアプローチによって「絵画」の内側の可能性に挑戦してきたことがわかる。太い輪郭線で縁取られた社会主義リアリズム的な画風から、地平線を中央に置いた構図のシュールレアリスム、幾何学的な構成、漫画的な形式や記号表現、さらにはキャラクター、超写実的な描写、点描を駆使したものから遠近法や消失点を自己言及的に主題としたものまで、じつに幅広い。抽象表現を除き、絵画にまつわるあらゆる問題を検証してきた道のりが伺える。
むろん、その道程に理路整然とした一貫性などを求めることはできない。だが、一貫性とは言わずとも、ある種の共通項を見出すことができるように思えなくもない。それは、中村宏の絵画に偏在する暗い穴である。
中村宏の絵画の魅力を飛躍的に増大させている要因のひとつに、黒の巧みな配置が挙げられると思う。黄と黒を規則的に配列した《タブロオ機械》シリーズはもちろん、車窓の暗がり、航空機の機影、故人の遺影など、画面の随所に置かれた黒は画面全体を効果的に引き締めている。しかし、その黒は画面構成のうえで必要とされているだけでない。暗い穴として描写されることで、容易には解釈しがたい、ある種の謎を残しているのだ。
代表作《基地》(1957)は機関銃と兵士、戦車を主な主題としているが、ヘルメットの下の兵士の顔は木板に空けられた2つの大きな穴に簡略化されている。その穴には鈍い光が灯っているものの、眼球は欠落しており、ただただ、深い闇が広がっているのだ。さらに《内乱期》(1958)には車輪の内側に、《蜂起せよ少女》(1959)には砲身の内側に、それぞれ暗い穴を認めることができるし、《パシフィック》(1961)にしても、画面中央に伸びる道の真ん中に大きな穴が穿たれている。《図鑑2・背後》(2006)にいたっては、後ろ向きのセーラー服の少女の頭部が画面上部を塗りつぶした闇に溶け込んでいるようだ。だがもちろん、それらが何を指示しているのか、明らかにされてはいない。
おそらく、その解釈は無数にあるのだろう。だが、中村宏の幅広く長い画業を紹介する今回の展示を見ていると、それらがどんなかたちをとるにせよ、いずれも絵画の向こう側に至る入り口のように見えた。それは、遠近法における消失点の先というより、むしろ絵画の奥を暗示することによって四角い平面に限定された絵画の空間そのものを相対化する、ある種の装置のような気がした。他に類例を見ないほど「絵画」を追究してきた中村宏は、にもかかわらず、いや、だからこそと言うべきか、「絵画」を突き放して見直す視点を、その内側に織り込んでいたのである。そこが、絵画者の真髄ではなかろうか。

2015/03/18(水)(福住廉)

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第7回絹谷幸二賞贈呈式

会期:2015/03/16

学士会館[東京都]

絹谷幸二賞はかつての安井賞の精神を受け継ぐ(?)具象系絵画の登竜門だが、賞の贈呈式があるだけで展覧会がないのが残念なところ。ぼくは2回目から作家を推薦してるけど一度も贈呈式に出たことがなかったが、今回初めて推薦作家が奨励賞を受賞したので出ざるをえなくなった。ぼくの推薦したのは、近代日本の画家や評論家を群像として描いた《日本の美術を埋葬する》で話題を呼んだ、久松知子さん。今年の岡本太郎現代芸術賞展でも岡本敏子賞を獲得するなど急上昇中だ。ちなみに絹谷幸二賞はベルベット地に土俗的な図像を油彩で描く谷原菜摘子さん。贈呈式にはもちろんふたりとも出席していたが、驚いたのは谷原さんが艶やかなピンクの和服姿なのに、久松さんはいつも着ている赤と緑のジャージ姿で現われたこと。でもこれは絵のなかの彼女自身(群像のなかに自画像として描き込んでいる)のスタイルに合わせたもので、彼女のトレードマークなのだ。それにしても出席者の大半が正装なので浮きまくってる! 大した度胸だ。

2015/03/16(月)(村田真)

VOCA展

会期:2015/03/14~2015/03/30

上野の森美術館[東京都]

「現代美術の展望──新しい平面の作家たち」という枠組みで、1994年から毎年開催されている「VOCA展」も22回目を迎えた。めったに足を運ばないのだが、ひさしぶりに展示を見てみると、写真と絵画を巡る状況が既に大きく変わってしまったことに強い感慨を覚えた。
今回「写真作品」を出品しているのは、川久保ジョイ、岸幸太、ジョイ・キム、福田龍郎、本城直季の5人。34名の出品作家のうちの5名だから、極端に多いとはいえないが、決して少なくはない数といえるだろう。気がついたのは、写真というメディウムが決して特殊なものではなく、むしろ他の平面作品とまったく違和感なく同居していることで、そのような感触は1990年代まではなかったことだ。かつては、写真と絵画、あるいは版画との異質性が、もっとせめぎあいつつ際立っていたように思う。これは2000年代以降に、「写真の絵画化」、「絵画の写真化」が急速に進んだことの端的なあらわれといえるだろう。
とはいえ、名前を挙げた5人の「写真作品」を、単純に絵画と同じレベルで評価していいのかといえば、そうではないと思う。VOCA奨励賞を受賞した岸幸太の「BLURRED SELF-PORTRAIT」は、壁に貼り付けた印画紙に画像を投影し、スポンジで現像液を塗布するという手法で制作されたものだが、1871年のパリ・コミューン時に撮影された労働者たちの群像写真と、自分のシルエットを重ね合わせることで、写真ならではの物質感と偶発性を取り込んでいる。また、大原美術館賞を受賞した川久保ジョイの「千の太陽の光が一時に天空に輝きを放ったならば」は、福島第一原発に隣接する帰宅困難地域の地下に、8×10インチの印画紙を埋め、放射性物質で「撮影」するという作品である。これもまた、むしろ自己表現を放棄し、写真のイメージ形成能力を最大限に活用することで、見えない「光」を捕獲しようとする試みといえる。写真という媒体そのものが本来備えている可能性を、作品作りのプロセスに積極的に導入していこうとする方向性は、他の出品作家の作品にも見られた。
「現代美術」と「現代写真」との境界線が消失したというのはよくいわれることだが、逆にその境界線に目を凝らし、こだわっていく作業も大事になっていきそうな気がする。

2015/03/16(月)(飯沢耕太郎)

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川村麻純「鳥の歌」

会期:2015/03/07~2015/05/10

京都芸術センター[京都府]

前作《Mirror Portraits》では、インタビューを元に、映像による立体的なポートレートを制作し、母娘や姉妹といった女性同士の関係性に焦点を当て、個人の記憶や家族という親密圏について考察した川村麻純。本個展では、第二次世界大戦前後に生まれた日本人と台湾人の夫婦に着目し、インタビューや調査で聞き取った個人史を通して、日本と台湾の歴史を再考している。片方の展示室では、リサーチやインタビューの過程で収集した写真や地図、資料が展示され、もう片方の展示室では、6名の女性に行なったインタビューを元にした映像が展示されている。
ここで奇妙なのは、最初の展示室に置かれた写真や資料が指し示す時代と、結婚式や台湾での家庭生活について語る女性たちの年齢との落差である。彼女たちは30代~中年の女性であり、資料の示す時代に台湾で結婚したとは考えられない。実際には、映像内の女性たちは当人ではなく、いまは高齢であろう女性たちが語った個人史を、カメラの前で「語り直し」ているのである。こうした川村の手つきは、一見両義的である。リサーチやインタビューを行なって過去を丁寧に検証しつつも、本人のインタビュー映像をそのまま用いることをしない。つまり、本人の語る映像が不可避的にはらむ「当事者性」を手放しているのであり、それを自作品の「正しさ」として占有化していない。非当事者による「語り直し」の行為は、フィクションとの境界線を曖昧化していく。
このことはまた、過去を思い出して語ること、「過去の想起」という行為が、常に現在の視点からによるものであり、(意識的にせよ無意識にせよ)なんらかの編集や書き換えを含み込まざるを得ない、揺らぎを伴うものであることとも関係している。川村の試みは、日本と台湾の歴史的関係性、移民と個人のアイデンティティ、家族、ジェンダーといった問題を提起しつつ、演劇的手法と映像という媒体を通して、「真正なドキュメンタリー」の不可能性を提示している。

2015/03/14(土)(高嶋慈)

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