artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
井上裕加里展
会期:2015/02/28~2015/03/14
CAS[大阪府]
東アジア3カ国の近代史をベースに、可視的な線としての国境と、同じ原曲を共有しつつも歌詞の相違によって顕在化するナショナリズムの齟齬や対立について扱った、2作品で構成された個展。
国境線を主題にした作品では、1850年から現在の2015年に至るまでの、日中韓の国境線の変遷を、ギャラリーの床にチョークで書いていく過程が映像でドキュメンテーションされる。3色で色分けされた日・中・韓の国境線が、メルクマールとなる年ごとに書き換えられ、消されては新たに更新されていく。その書き換えの行為を、粗い粒子を持つチョークと、書いては消すという身体性を介入させることで、むしろ私たちが目撃するのは、一度引かれた線の完全な消去ではなく、消された(はずの)線の痕跡が堆積し、あるべき明確な線がぼんやりと曖昧化していく過程である。
また、《Auld Lang syne》は、元々はスコットランド民謡の「Auld Lang syne(オールド・ラング・サイン)」が、日本、台湾、韓国でそれぞれ異なる歌詞を持つ歴史的経緯に着目し、それぞれの国の人々にそれぞれの場所と言語で歌ってもらった映像作品。この曲は、日本では明治期に輸入され、「蛍の光」という唱歌として親しまれているが、現在では3番と4番の歌詞が歌われることはない。「ひとえに尽くせ 国のため」「千島の奥も 沖縄も 八洲のうちの まもりなり」といった愛国色の強い歌詞だからだ。また、台湾や韓国では、日本の統治時期の教育施策によって「蛍の光」が持ち込まれるとともに、独自の浸透をとげ、「民族復興」や国家への献身を歌う歌詞が付けられて歌われた。井上の映像作品では、同じメロディが異なる言語と歌詞で歌われる3つの画面が、並置して映し出される。通底して流れるメロディは懐かしさを覚えるおなじみのものだが、その上に不協和音のように折り重なる3つの言語。それは、帝国主義の浸透、その背後にある近代化=西洋化、国民国家という虚構の概念、歌詞の同質性とそのズレ、歌うという身体的経験の共有による共同体の成立、といったさまざまな問題を喚起させ、東アジア近代史がはらむ複雑な力学を浮かび上がらせていた。
2015/03/14(土)(高嶋慈)
A Tale of Two Cities - Lu Hsien-ming Exhibition: Glimpses of Cities ほか
会期:2015/01/17~2015/03/15
台北当代藝術館 MOCA Taipei[台湾台北市]
現代美術館に転用された《台北詔安尋常小学校》(1920)は、正面でバザールのようなイベントを開催中だった。A Tale of Two Cities展は、1階でLu Hsien-mingが台北の土木開発などに注目した作品、2階でKuo Wei-kuoがおじさんのかわいい幻想世界を展開した。Long-Bin ChenのBook Sculpture展は、タイトルどおり、大量の本を接合し、それらを削って造形をつくる力技のインスタレーションだった。帰りに乾久美子さんの《ルイ・ヴィトン》へ。ここを夜に訪れるのは初めてだったが、光の効果を確認することができた。
写真:左上から、《台北詔安尋常小学校》、Lu Hsien-ming、Kuo Wei-kuo 右上から、「Book Sculpture」展、《ルイ・ヴィトン 台北ビルディング》
2015/03/14(土)(五十嵐太郎)
12の窓
会期:2015/03/07~2015/03/15
CAP STUDIO Y3[兵庫県]
神戸のC.A.P.にアトリエを構えるアーティストたちが、12の個室アトリエをはじめとする建物内のさまざまなスペースを舞台に、一斉に個展を開催した。C.A.P.のアトリエは普段から公開されているが、本展では、部屋を整理してホワイトキューブにする者、室内の配置をアレンジする者、普段の姿を見せる者など、展示形式はさまざま。街中の画廊で個展を行なうときと同じように本気モードで展示を行なっており、非常に見応えがあった。それでいて観客を迎えるウェルカムなムードが心地よかったことも付け加えておく。今回は出展者の一人が発案して始まったということだが、可能であれば今後も年1回程度のペースで継続してもらえないだろうか。出品者は、浅野夕紀、デイヴィッド・アトウッド、井階麻未、ペッカ&テイヤ イソラッティア、植田麻由、梶山美祈、川口奈々子、桜井類、柴山水咲、島村薫、田岡和也、築山有城、鳴海健二、藤川怜子、ポール・ベネエ、矢野衣美、山田麻美、山本千尋、前谷開の19組だった。
2015/03/14(土)(小吹隆文)
岩井優「通りすぎたところ、通りすぎたもの」
会期:2015/02/21~2015/03/20
Takuro Someya Contemporary Art[東京都]
「清掃」をテーマとするアーティスト、岩井優の個展。諸外国で滞在しながら制作した3本の映像作品を発表した。いずれもクレンジングが通奏低音になっているが、今回発表された作品は「食」との関連性が強い点も共通していた。
巨大なまな板の上に規則的に立ち並べられた、おびただしい数の魚。それらは地元住民たちの手により次々とさばかれ、血まみれの臓物が広がっていく。魚は調理のために画面から消えていくが、まな板には黒々とした血糊が残される。カメラは頭上から見下ろす視角で撮影しているため、その文様はある種の抽象絵画のように見える。
対照的に、《赤い洗浄》は真下から撮影されている。大量の水が流れ落ちていることはわかるが、その先で何がなされているのか、当初はわからない。ときおり赤い液体が混じり、臓物と思われる陰が映り込むことから、どうやら食肉の解体処理場のようだ。前述した《100匹の魚(または愉悦のあとさき)》が食べ物の事後的な拭いがたい痕跡を示しているとすれば、この作品は事前に必要とされるクレンジングを表わしているのだろう。
ベルリンで制作された《路上のコスメトロジー》は、路面に落とされた犬の糞を接写したもの。それに岩井は洗剤やクレンジングオイル、制汗スプレーを次々と振りかけ、色とりどりのビーズで彩る。面白いのは、どれだけクレンジングやコスメの粉飾を繰り広げても、さらにバーナーの炎を噴射しても、糞の形態は微塵も崩れないということだ。吹きつけられる気体をはね返し、振りかけられる液体を受け流し、糞は糞の形態を最後まで守り続けている。
食べ物の最終形態である糞の強靭な物質性。ここにはある種の倒錯がある。生物の口に合いやすいように人工的なクレンジングを繰り返した食べ物が、ひとたびその生物から排出されると、一切のクレンジングを受けつけないほど強固な物質として立ち現われるからだ。クレンジングとは、そのような肉体の内部でなされる変換の謎を知るための手がかりになっているのかもしれない。
2015/03/13(金)(福住廉)
ロバート・フランク「MEMORY─ロバート・フランクと元村和彦」
会期:2015/02/20~2015/04/18
gallery bauhaus[東京都]
1970年11月のある日、二人の日本人が当時ニューヨーク・バワリー・ストリートにあったロバート・フランクの部屋を訪ねた。そのうちの一人が元村和彦で、この訪問をきっかけにして、彼が設立した邑元舎から、フランクの写真集『私の手の詩』(1972年)が刊行された。その後、邑元舎からは『花は……FLOWER IS』(1987年)、『THE AMERICANS 81 Contact Sheets』(2009年)とフランクの写真集があわせて3冊出版され、彼らの交友も2014年夏に元村が死去するまで続くことになる。
今回のgallery bauhausでの展覧会は、その間にフランクから元村の手に渡ったプリントから、約50点を選んで展示している。そのなかには、これまで日本では未公開の作品、23点も含まれているという。この「元村和彦コレクション」の最大の特徴は、彼らの互いに互いをリスペクトしあう親密な関係が、色濃く滲み出ている作品が多いことだろう。たとえば、1994年にフランクが日本に来た時に撮影した写真をモザイク状に並べた作品には、元村以外にも、写真家の鈴木清、荒木経惟、『私の手の詩』の装丁を担当した杉浦康平、写真評論家の平木収らが写り込んでいる。また97年に、元村がフランクの住居があるカナダ・ノヴァスコシア州のマブーを訪ねた時のポートレートもある。1981年の「NEW YEARS DAY」に撮影された写真には「BE HAPPY」と書き込まれている。このような、挨拶を交わすように写真を使うことこそ、フランクの写真の本質的なあり方をさし示しているようにも思えるのだ。
気になるのは、この「元村和彦コレクション」が今後どのように管理され、公開されていくのかということだ。美術館に一括して収蔵するという話もあるようだが、ぜひ散逸しないようにまとまった形でキープしていってほしい。
2015/03/13(金)(飯沢耕太郎)