artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

ゲルハルト・リヒター展

会期:2022/06/07~2022/10/02

東京国立近代美術館[東京都]

ゲルハルト・リヒターの日本における最初の本格的な回顧展というべき本展を見て、あらためて彼の作品における写真の役割について考えさせられた。いうまでもなく、リヒターはその画家としての経歴の始まりの時期から、写真を単なる素材としてではなく、作品制作のプロセスにおける最も重要な媒体のひとつとして扱ってきた。ごく早い時期の作品である《机》(1962)が、雑誌『DOMUS』に掲載された写真図版を油彩で描き写した「フォト・ペインティング」であったことは示唆的といえる。

「フォト・ペインティング」だけではない。「アトラス」シリーズは彼が蒐集した新聞・雑誌の切り抜き、自らの家族写真など、膨大な量の写真画像を複数のパネルに貼り付けた大作だし、自作のカラー写真の上に油彩で抽象的なパターンを描いた「オイル・オン・フォト」シリーズもある。本展の白眉といえる《ビルケナウ》(2014)の連作のように、写真を元にして描いた絵を塗り潰して抽象化し、さらに写真で撮影するという、写真→絵画→写真というプロセスを取り入れることもある。今回は出品されていなかったが、2009年に刊行された『Wald(森)』は純粋な写真作品といえるだろう。

こうしてみると、リヒターは写真と絵画とを、その表現媒体としての違いを意図的に無視して使っているように思えてくる。そのあからさまな「混同」によって、写真、あるいは絵画の領域を踏み越え、逸脱するようなフィールドが姿を現わす。というよりも、彼の作品世界においては、写真も、絵画も、鏡やガラスのような媒体も、あるいは彫刻やパフォーマンスも、すべては視覚的世界の総体的な探求という目的に向けて再組織されているというべきだろう。あらゆる分類を無化してしまうような、未知(未完)のアーティストとしてのゲルハルト・リヒターの凄みが、今回展示された110点余りの作品からも充分に伝わってきた。

2022/07/01(金)(飯沢耕太郎)

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山田悠「Nocturne」

会期:2022/05/25~2022/07/09

POETIC SCAPE[東京都]

初めて作品を見たが、とてもいいアーティストだと思う。身近な環境から発想しているにもかかわらず、その展開に意表をついた面白さがある。制作のプロセスはかなり手の込んだものだが、仕上がりはナチュラルで無理がない。経歴を見ると、ヨーロッパに長期滞在して、サイトスペシフィックな写真・映像作品を制作・発表している。今後は、日本での活動も期待できるのではないだろうか。

今回の展示のメインとなる「Nocturne」は、横浜の黄金町バザール2020で最初に発表された映像作品だが、再編集し、サウンドを加えることで新たな生命を得た。満月の夜、街の建物の端に月がかかっている。その様子を、月が中心に来るように移動しながら連続撮影していく。それらの800枚の写真を、コマ落としのような「モーション・ピクチャー」として上映していた。天空での月の動きの軌跡を定着した作品は、他にないわけでもないが、本作は撮影者の山田悠自身が動いて月を追っているところに新味がある。見ているうちに、月がビルとビルの間の細い隙間にはまり込んだり、電線を伝ったりする、ちょっとユーモラスな動きに感情移入するようになっていった。

月の写真を重ねつつコラージュした、映像作品の副産物といえそうな写真作品もあり、こちらもなかなか魅力的なたたずまいだった。写真家という範疇にはおさまりにくいが、パフォーマンスを記録する媒体としての写真の重要性をしっかりと認識していることが伝わってきた。他の作品の展示の機会も、ぜひ作ってほしいものだ。

2022/06/30(木)(飯沢耕太郎)

ゲルハルト・リヒター展

会期:2022/06/07~2022/10/02

東京国立近代美術館[東京都]

サブタイトルもなにもない「ゲルハルト・リヒター展」。それ以上でも以下でもない、ただリヒターの作品だけを見せる展覧会。潔いなあ。

出品作品は計138点で、うち油彩のタブローは42点。それ以外は、色見本をランダムに並べたような「カラーチャート」、プリント上に油絵具を塗った「オイル・オン・フォト」、ドローイング、ガラスおよび鏡による作品など多彩だ。また、タブローの半分以上は「アブストラクト・ペインティング」シリーズで、それ以外は写真を描き写した「フォト・ペインティング」、グレイ一色に塗られた「グレイ・ペインティング」など。なぜ内訳を書いたかといえば、どうも足りないものがあるように思えてならないからだ。年代別に見ると、8割以上は21世紀以降の作品に占められ、特に1960-80年代の作品はわずか10点しかない。圧倒的に足りないのは初期から中期にかけての作品群だ。

ぼくが初めてリヒターの作品を実見したのは1982年のドクメンタ7においてだったと思うが、そのとき訪れたいくつかの美術館でも見た記憶がある。刷り込みというのは侮れないもので、ぼくはこの時期のリヒター作品がその後の作品の評価基準になっている。当時リヒターはすでに「アブストラクト・ペインティング」を始めていた(同時に「フォト・ペインティング」も続けていた)が、近年のスキージによる制作とは違い、太い刷毛でストロークを生かして絵具を塗り重ねていく手法で、スキージの使用は限定的だった。

また、アブストラクトにもかかわらず筆跡に立体感があり、画面に奥行きがあるのは、絵具がたっぷり盛り上がった筆跡を拡大模写した70年代の「ディテール」から発展させたものだからであり、その「ディテール」は筆跡を写真に撮ってそのまま写し取るという意味で、60年代の「フォト・ペインティング」とつながっていた。つまり「フォト・ペインティング」と「アブストラクト・ペインティング」を繋ぐのが「ディテール」であり、また初期の「アブストラクト・ペインティング」なのだ。そのためリヒターは具象と抽象の概念を無効化した画家として評価される一方、作品にはどこかトリッキーな匂いが感じられたのも事実だ。いずれにせよ、今回の展示で足りないと感じるのは、「フォト・ペインティング」と「アブストラクト・ペインティング」をつなぐ、平たくいえば具象と抽象をつなぐ「ディテール」であり、初期の「アブストラクト・ペインティング」なのだ。これが欠けているため今回の出品作品はリアリズムとアブストラクトに分かれてしまい、その境界を曖昧にしたリヒターの業績が見えにくくなっていると思う。 

この時代の作品が欠けているのは、今回の展覧会がゲルハルト・リヒター財団のコレクションによって構成されているからだ。財団が設立されたのは2019年と最近のことなので、過去に遡れば遡るほど作品が集めにくかったはず。カタログでも「1990年代まで、リヒターが作品を売らずにアトリエに留め置くことはあまりなかった。ようやく2000年代になって、将来に創設されるかもしれない財団を視野に入れながら、作品を取り除けておくようになった」と、ディートマー・エルガーが書いている。言い換えれば、70-80年代の作品はよく売れたということでもある。富山県美術館の《オランジェリー》(1982)1点でもあればずいぶん違っただろうに。

2022/06/29(水)(村田真)

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写真史家・金子隆一の軌跡

会期:2022/06/28~2022/07/31

MEM[東京都]

昨年逝去した金子隆一(1948~2021年)の1周忌を迎え、彼の2万点以上といわれる蔵書を引き継ぐことになった東京・恵比寿のMEMで記念展が開催された。日蓮宗の僧侶を本業としながら、その立ち上げの時期から東京都写真美術館の専門調査員を務め、キュレーター、写真史家として多大な貢献をした彼の業績を、あらためて振り返ろうという企画である。1967年に立正大学に入学し、写真部に入部して全日本学生写真連盟の活動に参加した時期から、フォト・ギャラリー プリズム(1976~78年)の運営、『camera works tokyo』(1979~1984年)の刊行などの活動を経て、日本の写真を出版、講演、展覧会企画などを通じて支えていくようになる金子の軌跡が、豊富な資料で多面的に紹介されている。金子自身による学生時代のオリジナル・プリント、島尾伸三撮影の若き日のポートレート、潮田登久子撮影の金子の蔵書の書架を撮影した写真なども出品されており、感慨深い内容の展示だった。

写真集の収集と書誌研究を軸とした彼の仕事は、むろんこれまでもいくつかの書籍の形で上梓されているのだが、こうしてその全体像を概観すると、まだ多くの可能性をもつものであることがよくわかる。幸い、蔵書の整理やリスト化の作業も進行中ということなので、今後その成果が少しずつ形になっていくことを期待したい。彼がさまざまな媒体に発表した文章も、書籍としてまとめる必要があるだろう。展覧会に合わせて、カタログを兼ねた同名の冊子(発行・エムイーエム、2022)が出版されている。関係者による追悼の文章、金子の講演「写真の歴史 一九六〇~一九七〇年と世界の写真の潮流」(2017年)の採録、詳細な年譜などを含む、160ページの充実した内容の写真・文集である。

2022/06/29(水)(飯沢耕太郎)

地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング

会期:2022/06/29~2022/11/06

森美術館[東京都]

「地球の曲/地球がまわる音を聴く。/1963年春」

展覧会の冒頭に掲げられたのは、同展のタイトルにも使われたオノ・ヨーコのインストラクション集『グレープフルーツ』からの言葉だ。さらに、

「鼓動の曲/心臓の鼓動を聞く。/1963年秋」

と続く(原作はどちらも英語で表記されている)。世界に耳を澄ませ、自分に耳を澄ます。このふたつの行為が同展の方向性を指し示しているように思える。2020年に始まった新型コロナウイルスの世界的流行(パンデミック)により、いきなり世界が別のステージに移り、これまでとは違う時間が流れ始めたかのような錯覚を覚えた人も多いだろう。この2年半、自分はどのように生きていけばいいのか、世界に対して自分はなにができるのか、これまであまり考える必要のなかった問いに向き合わざるをえなくなった。この展覧会はそんな問いになにかヒントを与えてくれるかもしれない。とはいえ、16人の出品作家は国も違えば、考え方も使うメディアも表現スタイルも異なり、多様としかいえない。むしろ多様であることがひとつの答えであるといってもいい。

そんななかで目が釘付けになったのが、エレン・アルトフェストの作品。身の回りの風景や静物を緻密に描写したいわゆる写実絵画なのだが、手っ取り早く写真を用いることはせず、長時間を費やして実物を観察し、木の幹の凸凹した表面やカボチャの複雑な色合いや肌触りまで克明に再現していく。たとえば《木々》(2022)と題された絵画は、A4サイズ程度の小品にもかかわらず1年以上かけて制作したという。そこには写真からただ転写したようなインスタント絵画にはない濃密な時間が蓄積されている。それはすべての時間がスローダウンしたパンデミックゆえに可能だったに違いない。

もう1点、金沢寿美の《新聞紙のドローイング》(2021)も瞠目に値する。日々の新聞をひたすら濃い鉛筆で塗りつぶし、目に止まった文字や画像だけ残す。それを数百枚つなげて高さ5メートル、幅20メートル以上のカーテン状にして吊るしてみると、ところどころ星々が輝く漆黒の宇宙に見える。このシリーズを始めたのは2008年だが、本格的に取り組むようになったのは、社会との断絶を感じ始めた出産後の2017年からで、このコロナ禍によりますます加速したようだ。彼女は新聞を読むのではなく、塗りつぶすことによって世界とつながり、宇宙に開かれたといえるだろう。

美術館がこういう現在進行形の出来事に絡めてテーマを設定するのは難しいし、とても勇気がいることだ。ともすれば時流におもねっているとか災厄を利用しているとかいわれかねないし、ようやく実現したと思ったらすでに時代遅れになっていたというほど世の中の動きが早いからだ。実際、同展を企画したのは2020年以降のはずだが、今年に入ってからロシアがウクライナに侵攻し、安倍元首相が暗殺されるなど激震が続き、第7波がきているにもかかわらずもはやコロナへの関心は薄れきっている(というより、みんなうんざりしている)ように見える。身も蓋もないことをいえば、どんなテーマの展覧会だろうが、テーマに関係なく人を感動させる作品は変わらないということだ。

2022/06/28(火)(村田真)

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