artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

川田喜久治「ロス・カプリチョス 遠近」

会期:2022/06/29~2022/08/10

PGI[東京都]

毎回同じことを書いているようだが、1933年生まれ、90歳近い川田喜久治の近年の活動ぶりには、驚きを通り越して凄みすら感じてしまう。今回のPGIでの個展(全48点)も、意欲的なコンセプト、内容の展示だった。

ゴヤの版画集のタイトルを引用した「ロス・カプリチョス(気まぐれ)」は、川田が1970年代初頭に『カメラ毎日』『写真批評』などに発表した写真シリーズである。日常の事物にカメラを向けたスナップ写真の集積なのだが、被写体の捉え方に独特の角度があり、悪意すら感じさせる諧謔味が全編に漂っている。今回の展示では、その旧作の「ロス・カプリチョス」シリーズだけでなく、ヨーロッパのバロック美術を中心に撮影した写真群を集成して、1971年に写真集として刊行された『聖なる世界』からも何点か加えている。それらをいわばマトリックス(母体)にして、ここ数年に撮影した「ロス・カプリチョス」の現代編というべき写真群を混在させていった。

注目すべきなのは、旧作と新作との間の落差がほとんど感じられないということだ。発想、被写体の切り取り方、提示の仕方に共通性があり、指摘されなければどれが旧作で、どれが新作なのかを判断するのはむずかしいだろう。ゴヤが版画で辛辣に描き出した人間社会の「気まぐれ」、愚行は、1970年代でも2020年代でも変わりなく続いているということであり、それらをつかみ取る川田の視線も、まったく錆びついていないことがよくわかった。和紙にプリントしたという印画のトーン・コントロールも興味深い。彩度がやや落ち、インクが紙に滲むように染み込むことで、カラー写真と黒白写真とが、違和感なく溶け込んで見えてくるように感じた。

なお、展覧会と同時期に赤々舎から写真集『Vortex』(2022)が刊行されている。川田がInstagramにアップし続けている写真群を中心に、250点以上を掲載した544ページの大作である。そこにおさめられている写真を見ても、『地図』『聖なる世界』『ラスト・コスモロジー』などの旧作と、分かち難く結びついているように見えるものが含まれている。川田喜久治というフィルターを通過することで、新たなイメージの時空間が形成されつつあるのではないだろうか。

2022/07/08(金)(飯沢耕太郎)

米田知子「残響─打ち寄せる波」

会期:2022/06/04~2022/07/09

シュウゴアーツ[東京都]

ロンドンを拠点として活動する米田知子は、2000年から「Scene」と総称される写真シリーズを制作・発表し始めた。ヨーロッパだけでなく、日本を含む世界各地に赴いて、彼女の前にあらわれた場面/風景にカメラを向けていく。今回のシュウゴアーツでの個展では、初期に撮影された「丘―連合軍の空襲で破壊されたベルリンの瓦礫でできた丘」(2000)、「畑―ソンムの戦いの最前線であった場所/フランス」(2002)などから、「絡まる―マルヌ会戦の塹壕跡に立つ木々」(2017)、「丘陵─『モスキート・クレスト』の頂を望む、ブルネテの戦い、スペイン」(2019)などの近作まで、15点が出品されていた。

米田のアプローチは、その土地を特徴づけるような要素を強調するのではなく、比較的淡々と、やや距離を置いて目の前に広がる眺望全体を画面におさめていく。そのことによって、歴史的な出来事の舞台になった場所が、われわれの目に馴染んだ日常的な光景と接続しているように見えてくる。人々に苦難をもたらす戦争や災害が、逆にごく当たり前に見えるさりげない場面から始まっているという認識はとても怖い。その怖さが、写真を見て、米田自身が執筆したというキャプションを読むうちにじわじわと広がってきた。

そのなかに1点、他のものとはやや異なる印象を与える作品があった。「70年目の8月6日・広島」(2015)である。安倍晋三元総理が出席し、その式辞が野次に包まれたという「広島平和記念式典」を撮影した写真だが、この作品だけ3枚の画像を重ね合わせているので、人物や記念碑、テントなどがブレたように見える。その三重像が、米田自身の感情の揺らぎと対応しているようにも見えてきた。ほかのストレートな処理の写真と比べると、そこに特別なメッセージが込められているのは確かだろう。この加工によって、「Scene」シリーズそのものの再構築が始まっているのではないかとも思った。ロシアのウクライナ侵攻に端を発する、より不確定性が増した現在の時代状況とも、何らかのかたちで繋がっているのではないだろうか(本稿執筆後に、安倍元総理が狙撃されて死去した)。

2022/07/07(木)(飯沢耕太郎)

元田久治 CARS

会期:2022/06/24~2022/07/17

アートフロントギャラリー[東京都]

東京駅や国会議事堂、あるいはパリのエッフェル塔やシドニーのオペラハウスなど、見慣れた風景が数十年後にはこうなっているかもしれないという未来の廃墟図で知られる元田の新作は、なぜか自動車がモチーフ。しかもミニカーを描いているのだ。

《CARS:Pedestrian Crossing》(2022)では、幅5メートル近い大画面に本物の道路から転写したかのような横断歩道が原寸大で描かれ、その上を数百いや千台はあろうかというミニカーがびっしりと覆っている。一瞬ガリバーの世界に迷い込んだような違和感を覚えるが、ミニカーも原寸大なのでこれはリアル世界なのだ。ミニカーはリトグラフでいっぺんに何十台も刷り、1台1台切り抜いて貼り付けているという。地面にうごめく無数の虫のような凝集感があるが、神の視点から見下ろせば現代の車社会はこのように映るのかもしれない。

おもしろいのは、ミニカーの廃車を描いた版画もあること。それも2種類あって、使い込まれてボロボロになったミニカーをそのまま描いたものと、ミニカーのオリジナル車が廃車になった姿を想像して描いたものと。しかもその下にモデルにした実物のミニカーも置いてある。これまでのリアル世界と想像世界だけでなく、絵画と版画、ミクロとマクロ、オリジナルとコピーのあいだも往還し始めたようだ。

2022/07/03(日)(村田真)

撮影された岡山の人と風景──県内作家の近作とともに

会期:2022/06/03~2022/07/10

岡山県立美術館[岡山県]

仕事で出かけていた岡山の岡山県立美術館で、興味深い展示を見ることができた。EU・ジャパンフェスト日本委員会が1999年から実施している写真プロジェクト「日本に向けられたヨーロッパ人の眼/ジャパン トゥデイ」の一環として、2001年にオランダのハンス・ファン・デル・メールとベルギーのアン・ダームスの二人が招聘され、岡山県内を撮影した。今回は、同美術館主催の「岡山の美術 特別展示」の枠で、その二人の作品の20年ぶりの展示が実現した。あわせて、同県在住の写真家たち、柴田れいこ、小林正秀、杉浦慶侘、下道基行の写真作品も展示されている。そのうち、小林、杉浦、下道は、県内の若手写真家に授与されるI氏賞の受賞作家である。

ファン・デル・メールは都市や農村の環境に対応した1人の人物を選び出し、建造物の中央部に立たせて撮影する。ダームスは日常の断片を思いがけない角度から切りとったスナップ写真を制作した。これらオランダとベルギーの写真家たちの、いわば異文化に向けられた眼差しのあり方に対置するように、日本人写真家たちはそれぞれゆかりのある人、場所にカメラを向けている。柴田は戦没者の妻と日本人と結婚した外国人の女性のポートレートを、彼らへの聞き書きの一部とともに展示した。小林は在住する美作地方の風物を、端正な黒白写真にまとめあげる。杉浦は深みのある森の写真とオブジェによるインスタレーション、下道は東日本大震災以後に撮影した、小さな仮設の橋の写真を集成したポートフォリオ・ブックを出品していた。

彼らの写真の方向性はバラバラだが、逆に多元的な視線の絡み合いによって、岡山という土地のあり方が複層的に浮かび上がってくる。ほかの県でも、「日本に向けられたヨーロッパ人の眼/ジャパン トゥデイ」の作品を活用して、同じような企画が考えられるのではないだろうか。

2022/07/03(日)(飯沢耕太郎)

コレクション1 遠い場所/近い場所

会期:2022/06/25~2022/08/07

国立国際美術館[大阪府]

コレクションの本気と底力だ。ウクライナへの軍事侵攻と沖縄返還50周年という時事性に基づき、①東欧からロシアの作家群と②沖縄出身の作家(石川竜一、山城知佳子、ミヤギフトシ)をそれぞれ小特集に組み、企画展に負けない見応えがある。①は、共産主義体制の崩壊を経た社会的激動期である90年代以降の中東欧のアートを紹介した「転換期の作法」展(2005)が土台にある。現在のウクライナ侵攻や難民危機について直接言及するわけではないが、ホロコースト、冷戦と共産主義下での抑圧、ソ連崩壊といった20世紀史が通奏低音をなし、この地域の現在につながる歴史的視座を提示する。企画の発案から、リサーチ、貸出の交渉、予算調達、輸送など、実現まで1年から数年間かかる企画展に比べて、状況に対するコレクション展のフレキシビリティの高さを示した好例だ。また、②では、山城知佳子の2000年代の初期作品群(《オキナワTOURIST》3部作[2004]、《OKINAWA墓庭クラブ》[2004]、《あなたの声は私の喉を通った》[2009]など)をまとめて収蔵したことの意義も大きい(なお、これら初期作品群については、「山城知佳子作品展」[2016]の拙評を参照されたい)。

展示室を進むと、多数の民間人を巻き込んだかつての激戦地/現在の戦火に加え、沖縄/本土、旧共産圏/西側という地域的周縁性など、この2つの地域を架橋するつながりの線が見えてくる。例えば、山城知佳子が問う沖縄戦の記憶の継承と、クリスチャン・ボルタンスキーやユゼフ・シャイナにおけるホロコーストの記憶。山城の映像作品《あなたの声は私の喉を通った》では、サイパン戦で家族を自決で失った老人の証言を、山城自身が語り直す。記憶の継承とは、他者(死者も含む)の声の憑依や痛みの分有といった身体的プロセスであることを、山城の目から流れる涙や次第にオーバーラップする2人の声と顔が示す。ウクライナ系ユダヤのルーツを持つボルタンスキーの代表作例《モニュメント》(1985)は、子どものモノクロの顔写真を手作りの祭壇風に設置し、犠牲者の追悼を思わせる。強制収容所から生還した経験をもつユゼフ・シャイナのドローイング《群衆》(1996)は、顔のない人間の上半身のシルエットが無数に集積し、大量死がもたらす匿名性や個人を均質化する抑圧的な社会体制を暗示する。



左:山城知佳子《あなたの声は私の喉を通った》(2009)
右:山城知佳子《OKINAWA墓庭クラブ》(2004)



左:クリスチャン・ボルタンスキー《モニュメント》(1985)
右:ボリス・ミハイロフ「Look at me, I look at water…」シリーズより(2004/2006)


また、ボリス・ミハイロフが写す「華やかなショッピングストリートの浮浪者」は、石川竜一のスナップの1枚と共鳴する。ウクライナ北東部のハルキウ出身のミハイロフは、ベルリンと故郷を行き来しながら、社会の変化から取り残された低所得者や路上生活者の姿を捉えた。チェリーを詰めた袋を抱えた浮浪者は、果汁で真っ赤に染まった手と口元が血塗られたようで、強烈な印象を与える。ダイアン・アーバスや鬼海弘雄の系譜に連なる特異な風貌の人々を、強烈な色彩とともに沖縄の路上で捉えた石川の写真集『絶景のポリフォニー』(赤々舎、2014)の1枚では、路上に裸足で座り込むホームレスの男、背後のデモ隊と機動隊、その奥のブランドショップという多層構造が、沖縄の抱える矛盾を示す。



ボリス・ミハイロフ「Look at me, I look at water…」シリーズより(2004/2006)



石川竜一『絶景のポリフォニー』より(2011-2014)


石川の別のスナップはクラブのドラァグクイーンやキスを交わす女性同士を捉え、ミヤギフトシの作品とクィア性においてつながっていく。ミヤギの「American Boyfriend」プロジェクトのなかの映像作品《The Ocean View Resort》(2013)では、アメリカから故郷の沖縄へ戻った主人公の語りが、同性の友人Yへの淡い恋心と、戦争捕虜だったYの祖父と米兵との関係という2つのエピソードを詩的に往還する。同じ音楽を「基地のフェンスを隔ててYの祖父と米兵が聴く」関係が、「レースのカーテンを隔てて主人公とYが聴く」関係として反復される構造により、個人的で親密な関係と、国家や民族、軍事的な境界線というより大きな枠組みが入れ子状に示される。

ここに、基地のフェンスの前でアイスクリーム(=与えられた「甘いもの」)をひたすらなめ続ける山城自身のパフォーマンスを映した《オキナワTOURIST-I like Okinawa Sweet》を並置すると、「沖縄の表象とジェンダー」というもう一つの問題が見えてくる。山城作品では、アイスクリームをなめる仕草や汗で濡れた肌を見せつけるなど、あえて性的に強調してふるまうことで、基地が潤す経済や日本政府の補助金に依存する沖縄の受動性や被支配者性が、「女性」としてジェンダー化されて提示されていた。山城の批評的意図は明快だが、女性ジェンダーを依存性や受動性と直結させることは、別の問題もはらむ。

一方、ミヤギの作品では、「沖縄」の側が「ホモセクシュアルの男性」として表象されることで、政治的な力関係が、「ヘテロ男性の優位性」というセクシュアリティの支配構造と重ねられる。また、「沖縄人らしくないYの容貌」という伏線や「Yの祖父は本土からの漂流兵」という語りからは、「ウチナーンチュである主人公とヤマトンチュの血を引くY」の恋愛の困難さに、別の政治的困難さが重ねられる。「フェンス」「レースのカーテン」は、国家・民族・軍事的分断線、異性愛/クィアという境界線を何重にも示す。祖父の遺品にはさまれていた「真ん中で引き裂かれた若い米兵の写真」は「関係の破綻」を暗示するが、それでも、たとえ束の間の儚い時間でも、「美しい音楽」が両者の隔たりを恩寵のように満たすのだ。



ミヤギフトシ《The Ocean View Resort》(2013) 国立国際美術館蔵[© Futoshi Miyagi]


このように、本展は、コレクション=「現在から安全に隔てられた、消費対象としての過去」ではなく、「進行形の現在」と接続可能であること、そして「現在」を変数として入力するたびに異なる「出力値」が召喚され、読み替え可能な流動体であることを示していた。夏休み期間にもかかわらず、館内設備工事のため企画展は穴が空いた状況だったが、だからこそ、「コレクション展しかやってない」ではなく、「コレクション展だからこそできること」という存在意義を力強く示していた。


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