artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
池田修を偲ぶ6日間「都市に棲む―池田修の夢と仕事」
会期:2022/06/14~2022/06/19
BankART Station[神奈川県]
これはレビューで扱うネタではないかもしれないが、いちおう記録として書いておきたい。
横浜のBankART1929代表の池田修が急逝したのは3月16日の早朝。前日の夜、仕事中に倒れ、病院に運ばれて翌朝息を引き取った。直接の死因は小脳出血だが、ずいぶん前から心臓を患い、5年前ほどから人工透析を受けていたので、いずれこうなることはみんな覚悟していたが、こんなに急だとはだれも思わなかった。その晩、ごく親しい人たちが何人か集まり、葬儀のことや偲ぶ会について、またBankARTのこれからについて話し合った。新代表は、これまで副代表を務めながら最近はアート活動に専念していた細淵太麻紀が復帰し、横浜市の創造都市推進部長を務めた秋元康幸が副代表に就いた。横浜市との連携が不可欠なBankARTにとっては最強の人材だ。
葬儀については、池田は知人や関係者が多いうえ、コロナが収束していないため、参加を親族と身近な友人十数人に絞って横浜市内で執り行なった。偲ぶ会については、池田は最近、自分の本を今年の誕生日(6/14)に出したいという希望を持っていたので、そこに追悼文を加えた『池田修の夢十夜』(BankART、2022)の出版記念を兼ねた会にすることになった。ただし、葬儀と同じ理由で1日に集中させず、6日間に分散させることに。会場には幼少からBゼミ、PHスタジオ、BankARTまで故人の軌跡を追い、併せてトリビュート展として約50人による追悼作品を展示した。だからこの1週間は「池田祭り」「池田ウィーク」だった。彼は自分が主役になることを嫌がったけど、にぎやかなことは好きだったからきっと許してくれるだろう。
偲ぶ会の初日は、40年来の付き合いのある川俣正、山野真悟、村田の3人による思い出話。2日目は石内都と柳幸典による対談。3日目は牛島達治や開発好明ら10組を超すアーティストによる連続トークとパフォーマンス。4日目は池田の原点ともいうべきBゼミ時代の話。5日目は秋元、佐々木龍郎、曽我部昌史による建築・都市関連の鼎談。そして最終日は「これからどうなるBankART」のキックオフとして、北川フラムと川俣の講演に加え、主に横浜の関係者約20人による連続トークという構成。登壇者は総勢約50人、参加者はのべ1,700人に及んだ。
この6日間に多くの発言者が共通して述べたことを挙げると、池田はいつもBankARTにいた、プライベートがなかった、裏方に徹していた、転んでもただでは起きなかった(ピンチをチャンスに変えた)、よく怒鳴っていた、よく怒鳴られた、でも笑顔に救われた、文句はいうけど結果を残した、厳しいながらも優しかった、アーティストの面倒見がよかった、アートを横浜に根づかせようとした、これからのBankARTが心配、横浜の芸術文化がなくなるかもしれない、だから彼の意思を引き継いでいかなければいけない……。
これらを総合すれば、具体的になにをやった人かはわからないまでも、どんな人物であったかは容易につかめるだろう。登壇した50人の発言にほぼ矛盾はなく、明確にひとりの人物像が浮かび上がってくる。これは当たり前のようだが、考えてみれば稀有なことではないか。「藪の中」ではないが、ひとりの人間には多様な面、秘密の顔があるもので、50人が証言すれば矛盾だらけの人間像が浮かび上がるはず。ところが彼は見事に「池田修」という一個の人物に結像する。つまり彼には裏がなく(それはプライベートがないことに通じる)、表一面だけで生きてきたということだ。これが今回いちばん驚いたことかもしれない(そんなことに驚くぼくのほうがおかしいのか?)。
6日間の話を聞いて思ったことを2点ほどしたためておきたい。
彼はBゼミを出てからの人生の前半をPHスタジオのリーダーとして(1984-2006)、後半をBankART1929の代表として(2004-22、ただし最初は副代表)として活動してきた。このPHからBankARTへの移行を、アーティストからキュレーター(またはオルタナティブスペース運営)への「転身」と見る向きもあるが、それは違う。そもそも彼はPHスタジオを結成したときから個人としての表現活動を封印し、匿名性のなかの創造活動に身を捧げてきた。だからPHスタジオの作品はあっても、池田修の作品はない。そのPHの集大成ともいうべきプロジェクトが、広島県の灰塚ダムで10年以上かけて行なわれた「船をつくる話」(1994-2006)だ。池田は、というよりPHはここで、地域のためになにをすればいいのかを考え、国や自治体と交渉し、地域の人たちとともにプロジェクトを推進した。その振る舞いはアーティストというより、すでにコーディネーター、ネゴシエーターの様相を呈していた。
このプロジェクトが山場を迎えようとするころ、名古屋港の倉庫をアートセンター化する計画に関わり、それが頓挫したころ、横浜で2つの歴史的建造物を創造活動に活用するコンペに応募し、入選したという経緯がある。ある意味、名古屋のリベンジを横浜で果たしたともいえるが、匿名性のなかで地域のために創造活動を推進していくという姿勢は、PH時代から変わっていないというか、むしろ徐々に強化されてきた傾向といえる。だからPHスタジオからBankARTへの移行は、転身というものではなく、ごく自然な、必然的といってもいい流れであったと思っている。
もう一つ、PHスタジオからBankARTへの移行を決定づけた横浜市との関係について。池田は横浜のコンペに参加する際、しきりに「創造都市構想」について賞賛し、「よくできたコンペだ」「答えは募集要項に書いてある」と語っていた。つまり創造都市構想について理解し、募集要項をよく読めば、求められている「解」が出てくるというのだ。おそらく自分ほど創造都市構想に共感し、それを実現できる人間はほかにいないだろうくらいの自負を抱いたはず。だから彼のプランは採用されて当たり前、むしろ、もう一つ採用されたSTスポットと共同で運営しなければならなくなったことを不満に感じていたに違いない。それほど創造都市構想は池田の考えにぴったりフィットした。いや、正確にいえば、創造都市構想は池田のこれまでの考えをさらに押し広げてくれる可能性を示唆した、というべきかもしれない。
BankART設立後は、創造都市のレールを敷いた横浜市参与の北沢猛に心酔し、その理念をみずからの血肉としていく。だから逆に、市がその構想に反するような方向に行こうとすると彼は猛反発した。このへんのハンパない情熱と粘り強さは多くの人が証言している。しかし、これを推進した中田宏市長が辞め、北沢氏と川口本部長が相次いで死去し、担当部署も担当者も変わって、創造都市の理念は徐々に薄められていく。そのなかで最後まで、文字どおり命を賭けて流れに抗ったのが池田だった。市の職員でもない彼が、横浜市のだれよりも横浜の芸術文化について真剣に考えていたといわれるのは、彼にとっても歯がゆいことだったに違いない。さて、これからどうする?
ウェブサイト:http://www.bankart1929.com/ikedaosamu/index.html
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2022/06/19(日)(村田真)
木原千裕「Wonderful Circuit」
会期:2022/05/24~2022/06/25
ガーディアン・ガーデン[東京都]
木原千裕は昨年、第1回ふげん社写真賞を受賞し、写真集『いくつかある光の』(ふげん社)を刊行した。今回の展示は第23回写真「1_WALL」のグランプリ受賞者個展である。ほかにも2018年に塩竈フォトフェスティバル写真賞で特別賞を受賞するなど、このところの活躍は目を見張るものがある。
木原が注目されているのは、あくまでもプライヴェートな視点にこだわりつつ、その写真の世界が開かれた普遍性を備えているからだろう。今回の「Wonderful Circuit」でも、僧侶である同性の恋人との関係が途絶したことをきっかけに、宗教とは何かと考えるようになり、チベットの聖地、カイラス山を訪れるというダイナミックな行動が写真の下地になっており、内向きになりがちな「私写真」の範疇を大きく拡張するストーリーが織り上げられていた。
会場構成にも特筆すべきものがあった。木原は展示の構想を練るうちに、仏教思想の「縁起」という概念に強く惹かれるものがあったという。「縁起」とは、万物は縁によって結びつき、生起し、消滅していく。一切は実体を持たない空であるという考え方だが、写真もまた、独立した個体ではなく、互いに結び合わされた関係性の束として捉え直される。その実践として、日本で撮られた恋人にまつわる写真、日常の光景、カイラス山への巡礼の旅などの写真群が、バラバラにシャッフルされた後で、いくつかの塊となって壁に並んでいた。どの壁に、どれくらいの大きさの写真を、どうちりばめるのかに苦心した様子が伝わってきたが、その試みがうまくいっていたかといえば、そうともいえないところがある。ただ、このようなもがきが、次のステップにつながっていくことは確かだと思う。
プライヴァシーの問題があって、本作を写真集として刊行できるかどうかはまだわからないということだが、ぜひ本の形でもまとめてほしい。その場合には、展覧会とはまた違った写真の構成原理を考える必要があるだろう。
関連レビュー
第一回ふげん社写真賞グランプリ受賞記念 木原千裕写真展「いくつかある光の」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2022年03月01日号)
2022/06/17(金)(飯沢耕太郎)
原直久「アジア紀行:上海」
会期:2022/05/11~2022/06/25
PGI[東京都]
原直久は日本大学芸術学部写真学科で教鞭をとりながら、ヨーロッパやアジアの各都市を8×10インチ判の大判カメラで撮影し、プラチナプリントに焼き付けた「紀行シリーズ」を、フォト・ギャラリー・インターナショナル(現・PGI)などでの個展で発表し続けてきた。今回は2007年にスタートしたという、上海をテーマにした作品30点を出品している。
原の写真を見ていると、ウジェーヌ・アジェの仕事が思い浮かぶ。アジェは19世紀末から1920年代にかけて、やはり大判カメラでパリの隅々までを撮影した写真家だが、建物を中心とした街路全体を画面にゆったりとおさめていく姿勢、被写体の細部の質感の描写へのこだわりに共通したものを感じる。原の写真の古典的な風格が、現代のこせこせとした写真を見慣れた目に逆に新鮮に映った。また、これはアジェもそうなのだが、原もまた都市の骨格となる建物や街路だけでなく、人々の生の営みにもカメラを向けている。今回の展示作品には、路上でスイカを売る人、大きな瓶を売る店、裏庭に干された洗濯物、階段の横に並んでいる手作りの郵便箱の群れなど、生活のディテールが写り込んでいる写真がかなりたくさんある。長時間露光で人物がややブレている写真もあるが、それが画面に思わぬ躍動感を与えていた。都市を自然と人工物との結節点、人間たちのさまざまな蠢きが波紋を広げている場所と捉える視点が、このシリーズに厚みを加えているように感じた。
2022/06/17(金)(飯沢耕太郎)
都美セレクション グループ展 2022 たえて日本画のなかりせば:東京都美術館篇
会期:2022/06/11~2022/07/01
東京都美術館 ギャラリーA[東京都]
パラレルモダンワークショップ(P.M.W.)による展示。P.M.W.は、日本の近代美術(モダン)においてありえたかもしれないもう一つの並行世界(パラレル)を想像することで、現代を捉え直そうという研究会(ワークショップ)、だそうだ。今回は、昨年上野公園でゲリラ的に行なった「たえて日本画のなかりせば:上野恩賜公園篇」に続く、いわば「屋内篇」で、いずれも、もし上野公園に東京美術学校(東京藝大)がつくられなかったら、もしそこで日本画が教えられなかったら、日本画はどうなっていただろうかを問うている。日本画が明治期に岡倉天心らによって東京美術学校を舞台に、西洋画(油絵)の影響を受けながらそのカウンターとして新たに創出されたジャンルであることは知られているが、その史実をいちどリセットして考え直してみる思考実験といえる。お題目も刺激的だが、それを上回る刺激的な作品も多く、とても見応えがあった。
会場に入るとまず受付を兼ねた屋台風の小屋があり、チラシや小品が並んでいる。これは親指姫の《虎狼鯰商店》(2021)という作品。その隣には、歩火(三瀬夏之介)による蝶番のついた折りたたみ式の《移動式展示場「歩板」》(2022)が連なり、表裏に何人かの作品が展示されている。なかでも、タブローのように平たい箱の蓋に絵を描いた泉桐子の《蓋》(2022)は、蓋を開けたら中身のない日本近代絵画への痛烈な批判とも受け取れる。この小屋と移動式展示場は、五姓田芳柳が浅草で開いたとされる油絵茶屋を連想させもする。
会場中央には、上野公園の不忍池辯天堂(六角堂)を模した長沢明による六角形の作品《幻影》(2022)が立ち、その周囲に金子富之の20メートルを超える大作をはじめ、20点近い作品が並んでいる。奥の壁には、上野公園の名物だったブルーシートに山本雄教が富士山を描いた《Blue mountain》(2022)が掛かり、その手前で山下和也が《上野恩賜公園出開帳霊場巡り物見遊山(東京都美術館篇)仮本堂》(2022)としてテントを張り、背後の富士山と呼応する。中村ケンゴによるウォーホルばりの《大日本帝国の首相》(2022)と、指名手配犯のモンタージュ風《平成の首相》(2022)は秀作だが、このなかにあっては目立たない。尾花賢一の《日出処/日没処》(2022)は、2畳敷きのゴザにちゃぶ台などの日用品を置き「上野画宣言」を掲げている。確かに、伝統的な日本絵画とは似て非なる日本画も、西洋の油彩画とは似て非なる洋画も、合わせて「上野画」と括ってみると納得できる。日本画にあぐらをかいた単なる日本画には興味ないが、このように日本画の成り立ちを問うような「メタ日本画」には大いに興味をそそられる。
2022/06/17(金)(村田真)
みんなのまち 大阪の肖像(1)第1期/「都市」への道標。明治・大正・昭和戦前
会期:2022/04/09~2022/07/03
大阪中之島美術館 4階展示室[大阪]
美術館の構想が発表されてから約40年、準備室が発足してから約30年、ずいぶん長くかかったが、大阪中之島美術館が本年2月にオープンした。その開館記念展のひとつとして開催されているのが「みんなのまち 大阪の肖像(1)第1期/「都市」への道標。明治・大正・昭和戦前」展である。「おおさか時空散歩―中之島からはじめよう」「胎動するランドスケープ」「パブリックという力場」「商都のモダニズム」「たなびく戦雲」の5部構成で、絵画、版画、写真、ポスター、書籍、映像など作品・資料約270点による充実した展示だった。
写真の仕事は浪華写真倶楽部、丹平写真倶楽部の会員の作品を中心に、主に「商都のモダニズム」のパートに出品されている。兵庫県立近代美術館所蔵の安井仲治の作品を除いては、同館所蔵の作品であり、立ち上げの時期から写真の収集に力を入れてきたその成果がよく現われていた。むろん安井のほか、小石清、花和銀吾、椎原治、平井輝七、河野徹、川崎亀太郎、棚橋紫水、天野龍一らの「新興写真」「前衛写真」の写真群は、これまでも多くの展覧会で取り上げられてきたものだ。だが、絵画、版画、ポスターなどと一緒に並ぶと、戦前の大阪におけるモダニズムの勃興という、トータルな時代状況、社会状況のなかから、それらが形をとっていったことがくっきりと見えてくる。本展にも多くの作品が出品されているグラフィック・デザイナーの前田藤四郎と、写真家の福田勝治が、青雲社という広告制作会社で机を並べており、福田が前田をモデルに撮影した斬新なポートレートが残っていることなど、新たな発見もあった。今後も、同館の写真コレクションを活かした意欲的な企画展をぜひ実現していってほしい。
なお、第1期終了後には「第2期/「祝祭」との共鳴。昭和戦後・平成。令和」展(8月6日~10月2日)の開催が予定されている。
2022/06/15(水)(飯沢耕太郎)