artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング
会期:2022/06/29~2022/11/06
森美術館[東京都]
Listen to the Sound of the Earth Turning.
これは1964年にオノ・ヨーコが書き下ろし出版した本『グレープフルーツ』の一節である。本展テーマは、この一節を発端に組み立てられたという。「パンデミック以降のウェルビーイング」とは、いま、誰もがもっとも関心のあるテーマのひとつではないか。世界的なパンデミックを経て、我々はこれからの生き方や地球のあり方について立ち止まって考えざるを得ない時が来た。そんな折に、50年以上前に書かれた彼女の言葉が改めて響いてこようとは……。
オノ・ヨーコはジョン・レノンとの結婚前、前衛芸術運動のフルクサスに参加していたアーティストとして知られるが、その後もことに言葉を用いたアートに長けていたように思う。ヨーコの作品に初めて出合った際に、ジョンが心に深く残ったという《天井の絵》では「YES」の文字を記しており、ジョンと一緒に発表した楽曲「Happy Xmas」では「WAR IS OVER “IF YOU WANT IT”」という反戦メッセージを歌い上げた。言葉はシンプルで強く、人々の心に真っ直ぐ届きやすい。「地球がまわる音を聴く」とは実に壮大で、神の領域に当たる行為ではあるけれど、頭の中で想像するだけで、この地球上で自分がいかにちっぽけな存在であるかを同時に思い知らされる。
本展ではそうした「五感を研ぎ澄まし、想像力を働かせる」16人のアーティストによる作品が集結した。オノ・ヨーコの『グレープフルーツ』からの抜粋作品の次に登場するのが、ヴォルフガング・ライプの作品だ。展示空間に入ると、辺り一面に甘い香りが漂う。それが《ヘーゼルナッツの花粉》から放たれていることに、キャプションを見て気づく。さらに奥には牛乳や蜜蝋を固めた作品が展示されているのだが、造形がミニマムゆえに、その予想もしない香りにハッとさせられる。いずれも人々にとっては食を連想させる香りだが、生物にとっては生命をつなぐための大事な要素だ。我々はそのエッセンスをいただいて生きている。五感のなかでも嗅覚を刺激されたことで、そうした生物の循環に思いを巡らせざるを得なかった。果たして、本展がパンデミック後の世界を生きる我々のよすがとなるか……。
公式サイト:https://www.mori.art.museum/
2022/06/28(火)(杉江あこ)
越境─収蔵作品とゲストアーティストがひらく視座
会期:2022/06/17~2022/07/23
京都精華大学ギャラリーTerra-S[京都府]
京都精華大学の学内ギャラリーのリニューアルオープン記念展。前身のギャラリーフロールは変則的な間取りで古さも感じる空間だったが、建て替えられた新校舎内に、床面積630㎡の大型ギャラリーとして生まれ変わった。新校舎自体、ガラス張りで開放感のある今どきの建築だが、ギャラリー名に「テラス」とあるように、池を臨むガラスの壁面からは明るい光が差し込む。本展では、大学が収蔵するシュウゾウ・アヅチ・ガリバー、今井憲一、ローリー・トビー・エディソン、塩田千春、嶋田美子、富山妙子の作品と、若手~中堅の5名のゲストアーティスト(いちむらみさこ、下道基行、谷澤紗和子、津村侑希、潘逸舟)の作品を展示。「ジェンダー/歴史」「身体/アイデンティティ」「土地/記憶」といったキーワードを軸に、作品群がバトンを受け渡すようにゆるやかに結びつく。
「戦争とジェンダー」の問題を問うのが、富山妙子と嶋田美子。富山の「20世紀へのレクイエム・ハルビン駅」シリーズは、少女時代を満州で過ごした記憶と帝国の植民地支配を図像的に描いたものだ。出品作の《祝 出征》では、出征直前に軍服姿で式を挙げる青年と花嫁が、狐に擬人化して描かれる。日章旗と旭日旗を手に「出征」と「結婚」を祝うのは、親族に加え、白い割烹着に「大日本愛国婦人会」のたすきがけをした女性たちだ。割烹着すなわち「母・妻」という家庭内での女性の役割を示すユニフォームにより、「結婚」とは「男児=次代の兵士の補充」であり、「女性の戦争動員の一形態」「国家による性と生殖の管理」にほかならないことが示される。同様に、戦時下の写真を元にした嶋田美子のエッチング作品では、白い割烹着に「満州国防婦人会」のたすきがけをした女性の奉仕活動や、「健康優良児コンテスト」で幼児(もちろん男児である)を抱きかかえて笑顔を見せる母親たちが提示される。写真画像の引用に際し、例えばシルクスクリーンではなく、エッチングを選択した理由は、「版に直接ニードルで刻む」この技法が、「傷」を文字通り想起させるからだろう。
表現メディアとジェンダーの関係を問うのが、谷澤紗和子の切り絵作品である。谷澤は、晩年に精神を病んだ高村智恵子が制作した「紙絵」作品の引用に、智恵子への手紙や「うちなるこゑ」「NO」といった言葉の切り抜きを重ねた。「絵画」/手工芸的要素の強い「切り絵」というヒエラルキーや、美術史における女性作家の周縁化に対して「NO」を突きつけると同時に、「手紙」という親密な文体を借りて、「応答する智恵子の声」への希求を示す。作品は「古い家屋の廃材」でつくった額縁に囲まれるが、古い家制度の解体/なおも残存する強固なフレームの双方を示し、両義的だ。
そして、女性への抑圧を、「貧困」「肥満」といった差別構造の交差の視点から問うのが、いちむらみさことローリー・トビー・エディソン。自身も東京の公園のテント村に暮らし、ホームレスの女性の支援活動を行なういちむらは、シェルター/暴力の再生産の場所でもある「家」、炎、墓など暴力を暗示するモチーフを赤い絵具で描き、映像を重ねたインスタレーションを展示。一方、ファット・フェミニズム(肥満受容)運動に関わるローリー・トビー・エディソンは、代表作の「Women En Large」シリーズを展示。堂々と自信に満ちた太った女性たちのポートレートに彼女たちの自己肯定的な言葉を添え、「肥満=醜」とする画一的な美の基準にアンチを突きつける。
一方、「自身の体重を同じ重さの物体へ還元・置換する」という手法の共通性を示すのが、シュウゾウ・アヅチ・ガリバーと潘逸舟。コンセプチュアルな手法で自己の存在や身体を扱うガリバーは、体重と同じ重量のステンレス製の球体を長椅子に乗せた《重量(人間ボール)》を展示。潘逸舟もまた、体重を「同じ重さの石」に置換するが、より有機的だ。映像の画面いっぱいを占める「巨大な石」がわずかに上下に動き、それを腹に乗せて横たわる潘の「呼吸=生の証」を伝える。この「石」を、神戸港から出身地の上海に向かうフェリーに載せて「旅」をさせた映像では、石を不安定に揺動させるのは、個人の肉体ではなく、国境を超える船すなわち「移民」という社会的様態だ。そして、秤の上に置いた食器を箸やスプーンでつなぎ、円環状に配置した《あなたと私の間にある重さ─京都》では、「重さ」とは何を指すのか(身体?記憶や精神?)、それは計測可能なのか、他者と交換可能なのかと問いかける。さらに、「食器」が危うい均衡を保って円環状につながる様は、気候変動や軍事侵攻がもたらす食料危機も想起させ、「本当に平等に分配されているのか?」という問いをも喚起する。
「芸術大学の学内ギャラリー」というと、学生や卒業生、教職員の展示という「学内向け」の役割をイメージしがちだ。だが、質の高いコレクションをもっていること、そしてそれを指針として、若い世代の作家の作品と対話的な関係を構築していく姿勢を示していた本展は、「学内コレクションの活用」という点でも示唆的だった。
関連レビュー
谷澤紗和子「Emotionally Sweet Mood─情緒本位な甘い気分─」|高嶋慈:artscapeレビュー(2022年05月15日号)
2022/06/25(土)(高嶋慈)
TOPコレクション メメント・モリと写真 死は何を照らし出すのか
会期:2022/06/17~2022/09/25
東京都写真美術館2階展示室[東京都]
定期的に開催されている「TOPコレクション展」は、いわば、東京都写真美術館の常設展に当たる展覧会企画である。だが、第一次開館(1990年)から30年以上が過ぎた現在では、毎回新たな方向性を打ち出すのがむずかしくなってきているのではないだろうか。担当学芸員の苦心を感じることが多いのだが、今回の「TOPコレクション メメント・モリと写真 死は何を照らし出すのか」展は、館外から借用した作品(たとえば青森県立美術館が所蔵する小島一郎の作品)も含めて、企画意図と内容がうまく噛み合った展示になっていた。
それは、「写真と死」というテーマ設定に、動かしがたい必然性があるからだろう。以前「すべての写真は死者の写真である」と書いたことがある。そこに写っている風景、人物が、もはや無くなった(亡くなった)ものである場合はもちろんだが、たとえ被写体が現存していたとしても、それらがいつかは無くなる(亡くなる)ものであることを、われわれはよく知っているからだ。あらゆる写真には、死が二重映しに写り込んでおり、その意味で「メメント・モリ(死を想え)」という格言は、写真という表現媒体の本質的なあり方をさし示すものといえる。
その意味では、今回の展示作品のなかでは、たとえばマリオ・ジャコメッリのホスピスを撮影した写真、あるいはロバート・キャパ、澤田教一らの戦争写真のような、直接的に死を扱った写真よりも、荒木経惟、牛腸茂雄、ロバート・フランク、リー・フリードランダー、ウィリアム・エグルストンらのような、日常に顔を覗かせる死を絡めとるように提示した写真群の方が、より興味深かった。写真家たちがその繊細なセンサーを働かせて、スナップ写真のなかに「メメント・モリ」を呼び込むような営みがずっと続いてきたことを、あらためて見直すことができたからだ。
2022/06/22(水)(飯沢耕太郎)
study tables《紙で読むに限る「近所と宇宙」》(2020)
会期:2020/05/30〜
TRANS BOOKS DOWNLOADs[ダウンロード形式]
tadahiと関真奈美によるユニット「study tables」は2017年に、space dikeでの展覧会「(real) time と study tables」で鮮烈なデビューを果たした。二人はその展覧会でメディアアートをめぐる現実との同期への欲望を暴くようにして「リアルタイムとは何か」という実験発表を模した映像インスタレーションを展開したのを最後に、まとまった作品発表をしていない 。しかし、2020年からたびたび、「紙で読むに限る」というダウンロード形式のシリーズ作品を公開している。
いまも購入できる作品なので、ネタバレを極力避けていきたいが、この作品は「2つ以上の時空が存在し、その時空について思考している視点から見て、それぞれの時空が同期していると感じられた時リアルタイムは成立する」というリアルタイムについての二人の解答であり命題が、この作品の形式である「Dropboxからのダウンロードからのプリントアウト」でも、とある古くからの手法でも、かなり類似するかたちで実証されるということを、見事に形にしたものである。そして、私にとってのこの見事さのポイントのひとつは「ダウンロードからのプリントアウト」が、その「古くからの手法の模倣」として見なされているものではないが、そういった使い方もできるし、していたかもしれないし、いつか、例えば私が死んだ後のGoogle Driveの中身なんかは、本作と同じような「リアルタイム」状態が発生しうると気づかされる点にある。
あるいは、「後で読もう」とクラウドサービスで大量に保存したPDFデータはきわめて私的領域にあって、それがプリントアウトされると別の私的領域へと躍り出る。後で読もうと積み上げた新聞や本のように、ほかの人もその後回しを知ることができるという私的領域へ。あるいは、プリントアウトされた瞬間に発生する「リアルタイム性」のある紙を「study tables」はつくり出した。
でも本作は、「紙で読むに限る」というように、媒体を規定している。さらには、その紙の在り方にも指示があるし「読む」と表題にあるから読み物だ。これらの指示のうち、最後のインストラクションはこの紙の「リアルタイム性」を剥奪する。ぜひ本作をダウンロードして、このレビューを検証してみてほしい。
《紙で読むに限る「近所と宇宙」》詳細・販売ページ:https://transbooks.center/downloads/works-5/
2022/06/22(水)(きりとりめでる)
村石保『昭和、記憶の端っこで──本橋成一の写真を読む』
発行所:かもがわ出版
発行日:2022/06/30
本書を一読してちょっと驚いたことがある。掲載されている50点の写真、そのほとんどに見覚えがなかったのだ。本橋成一はいうまでもなく日本を代表するドキュメンタリー写真家の一人で、大きな展覧会を何度も開催している。『炭鉱〈ヤマ〉』(現代書館、1968)以来の彼の写真集にも、ほぼ目を通しているはずだ。にもかかわらず、編集者の村井保が一枚一枚の写真にエッセイを寄せたこの写真文集の掲載作は、初めて見るもののように感じられた。逆にいえば、いわゆる代表作として喧伝されている写真に頼って、本橋のような厚みと多面性を兼ね備えた写真家について論じることが、いかに危ういものであるかを思い知らされた。本橋の写真の世界は、細部に踏み込めば踏み込むほど、その輝きが増すものなのではないだろうか。
本書は、「信州産! 産直泥つきマガジン」として刊行されている『たぁくらたぁ』(オフィスエム)に、2008年から連載されたコラムの写真とテキストを中心にまとめたものだが、他の媒体の掲載作や書き下ろしも含んでいる。村井の文章は、本橋の写真に寄り添いながらも、独自の角度からその世界を読み解いており、そこに写っている光景をむしろ現代の問題意識に引き付けて浮かび上がらせるものだ。日の丸、チェルノブイリ、真木共働学舎、サーカスなど、共通するテーマの写真を並置したパートもあり、総体として、いまや背景に退きつつある「昭和」の時期に培われた世界観、現実認識を、より若い世代にあまり押し付けがましくなく伝えようとしているのがわかる。巻末の著者略歴を見て気づいたのだが、村石保は2022年4月27日に亡くなっていた。この本が遺作というわけで、そう考えると、本橋の写真に託した彼のラスト・メッセージが、より身に染みて伝わってきた。
2022/06/20(月)(飯沢耕太郎)