artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

森山大道「モノクローム」

会期:2013/11/23~2014/12/27

武蔵野市立吉祥寺美術館[東京都]

森山大道はこのところずっと、デジタルカメラで街をスナップした写真を新作として発表し続けている。だが、カラー写真の「ペラペラとした」色味を追い求めていると、時折フラストレーションに襲われるようだ。個人的な作業を写真集として継続的に発表している『記録』(AKIO NAGASAWA PUBLISHING)でも、no.23はロンドンのカラー・スナップだったが、南仏やパリを撮影したno.24ではざらついた粒子を強調したモノクローム写真に回帰していた。2008~12年の作品を集成して月曜社から刊行した写真集も、一冊は『カラー』、もう一冊は『モノクローム』というタイトルである。つまり森山のなかには、カラーとモノクロームの両方に引き裂かれていく心性が共存しているのではないだろうか。
今回、武蔵野市吉祥寺美術館で開催された「モノクローム」展は、その写真集『モノクローム』からピックアップされた写真群と、「狩人」「光と影」「サン・ルゥへの旅」など1960~90年代の旧作を混在させた展示だった。それら59点のモノクローム作品を見ると、白と黒のコントラストに還元されたイメージに対する、森山の強いこだわりがはっきりと見えてくる。
では森山にとって、「モノクローム」とは何なのだろうか。それはカラー写真の表層的で、具体的な現実世界の見え方に対する、強烈な異議申し立てではないかと思える。むろんモノクロームでもカラーでも、目の前の現実に潜む微かなズレを鋭敏に感受する能力と、画面構成における正確無比なグラフィック的な処理能力に違いはない。だが、カラーよりはモノクロームの方が、被写体をより「エタイの知れない異界の破片」として再構築しやすいのではないだろうか。思えば、彼は写真家としてスタートした頃から、撮影を通じて、現実のなかに埋め込まれた異界、彼の言う「もう一つの国」を探求し続けてきた。その営みにおいて、やはりモノクローム写真が最強かつ不可欠の武器であることが、今回の展覧会でも明確に証明されていたと思う。

2013/12/19(木)(飯沢耕太郎)

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川瀬知代「透明な不透明」

会期:2013/12/07~2013/12/30

プリンツ[京都府]

カフェ併設のギャラリー空間にて。これまでの作品のモチーフとなっていた架空の植物のような、虫のような美しい水彩ドローイングのにじみの部分が、実際にトレーシングペーパーや折り紙、透き通る布、アクリルの板、網(?)という物に置き換わって絵の外に染み出てきているような展示。装飾的でもあるが、テーマである「透明」の空間インスタレーションとしてできあがっていたように思う。

2013/12/19(木)(松永大地)

Li-Ren Chang(張立人)展「古典小電影」

会期:2013/12/16~2013/12/27

YOD Gallery[大阪府]

台湾の映像作家が日本初個展を開催。出品作品《古典小電影》シリーズは、名作絵画やポスターの女性たちが服を脱いで裸になるもので、名称は台湾の戒厳令時代に上映されていたポルノ映画に由来する。作品の真意は、戒厳令時代に人民と政府が口裏を合わせたかのように規範的な日常を送り、社会の矛盾に目をつむっていたことへの言及であり、少女が服を脱ぐ過程で作品と観客の内面に発生する矛盾を明らかにすることだ。有名な絵画の主人公たちが表情を変えずに服を脱いでいくことには驚かされたが、欲情するほどのエロさではない。むしろ、不自然な動作とシチュエーションが醸し出す滑稽さこそが、このシリーズのキモではないかと感じた。

2013/12/16(月)(小吹隆文)

カタログ&ブックス│2013年12月

展覧会カタログ、アートにまつわる近刊書籍をアートスケープ編集部が紹介します。

「夏の家」についての覚書

編集:柴原聡子(東京国立近代美術館)
協力:スタジオ・ムンバイ
定価:1,500円(税込)
サイズ:210mm×210mm、128頁
発行所:東京国立近代美術館

東京国立近代美術館は、2012年、開館60周年記念事業の一環として、美術館前庭の芝生にあずまやを設置し、憩いの場として約8カ月間開放する建築プロジェクト「夏の家」を企画・実施しました。設計・施工を依頼したのは、世界の注目を集めるインドの建築集団スタジオ・ムンバイ。本書は、2012年8月26日-2013年5月26日まで9カ月間公開された「夏の家」が生まれた背景から、つくられる過程、そして、どのように使われたのかを記録・報告するものです。(番外編として2013年7月に石巻へ移設された様子も収録)
東京国立近代美術館「夏の家(仮)ブログ」より]


ブルーノ・タウトの工芸──ニッポンに遺したデザイン

監修:庄子晃子
定価:1,890円(税込)
サイズ:A4判変型(210mm × 205mm)並製 78ページ
発行日:2013年12月15日
発行所:LIXIL出版

2013年12月6日(金)〜2014年2月18日(火)の期間、大阪・梅田のLIXILギャラリー大阪会場にて開催される「ブルーノ・タウトの工芸〜ニッポンに遺したデザイン〜展」のカタログ。
本書では、まずタウトデザインの工芸品を、益永研司氏の撮りおろしの図版でたっぷりと紹介。タウトの建築になぞらえて、鮮やかな色彩空間で捉えた工芸品の数々は、これまでとは違う新たな表情を醸し出す。また、日本で唯一の弟子とも呼ばれた故水原徳言氏が記した文章を、当時の記録写真や解説を交え掲載、タウトの日本滞在時の素顔や実情を細かく伝える。また、タウトの日記や記録などもひも解きながら、尊重していた日本文化とは何かも探る。さらに論考では、彼のベースとなる建築作品と貫かれた思想を紹介し、そこから見える工芸の世界観を詳らかにする。当時の日本の工芸やデザインに一石を投じたタウトの視点に迫る一冊。
LIXIL出版サイトより]


食と建築土木──たべものをつくる建築土木(しかけ)

著者:後藤治(監修)、二村悟
写真:小野吉彦
デザイン:坂本陽一(mots)
定価:2,415円(税込)
サイズ:天地210mm × 左右148mm 並製 208ページ オールカラー
発行日:2013年11月30日
発行所:LIXIL出版

食べものの生産・加工のために用いられてきた農山漁村の23の建築土木を、多くの写真とともに紹介します。
たとえば宇治の茶農家が冬期に柿を干すために組み立てる巨大な柿屋、遠州灘沿いの砂丘地帯に畑地を確保するべく作られる砂防のための仮設物、長崎県西海町の海岸沿いの崖に連続して突き出す棚状の大根櫓など。これらの不思議な構築物は出自も定かでなく、永続的なかたちを持たないため、これまであまり注目されることがありませんでした。しかし一方で人々の暮らしの営みと一体になったこれらの建築土木(しかけ)は、地域の風土や人間の知恵を伝え、魅力的な固有の風景を形づくり、私たちに今日の建築や食、そして文化のあり方について問いかけてくるのです。
LIXIL出版サイトより]
藤森照信、島村菜津の対談や大江正章、松野勉によるコラムも収録。


超域文化科学紀要 第18号 2013

編集委員:河合祥一郎、川中子義勝、高橋宗吾、野矢茂樹、古荘真敬
編集:総合文化研究科超域文化科学専攻
発行日:2013年11月30日
サイズ:260mm×210mm、342頁

超域文化科学専攻所属教員と学生による研究論文集。比較文学比較文化、表象文化論、文化人類学という3つのコースが、それぞれのアプローチの特徴を生かし、様々な文化的・社会的現象を分析する場である。掲載される論文は、本専攻所属の教員による厳格な審査を経ている。
東京大学大学院総合文化研究科サイトより]


ファッションは魔法

著者:山縣良和+坂部三樹郎
定価:987円(税込)
サイズ:B6変形、180頁
発行日:2013年11月21日
発行所:朝日出版社

ファッションの魔法を取り戻す。1秒でも着られれば服になり、最大瞬間風速で見る人を魅了し世界を動かす。物語を主人公に巨大な熊手のコスチュームで秘境の祭りを出現させる山縣。ファッションショーと音楽ライブを合体させ、アニメやアイドルを題材に日本の可能性を探る坂部。「絶命展」でファッションの生と死を展示して大反響を呼び、自らのやり方でクリエイションの常識を覆してきた2人の若き旗手が、未来の新しい人間像を提示する。「これからのアイデア」をコンパクトに提供するブックシリーズ第9弾。画期的なブックデザインはグルーヴィジョンズ。
朝日出版社サイトより]


新しい広場をつくる──市民芸術概論綱要

著者:平田オリザ
定価:1,995円(税込)
サイズ:四六判、240頁
発行日:2013年10月17日
発行所:岩波書店

ある種の芸術になぜ助成金を出すのか。経済政策では解決しきれない停滞のなかでどう生きていくのか。被災地が復興し、疲弊した地方が自立するためには何が必要か。社会的弱者、文化資本の地域間格差など、諸問題に芸術・文化が果たす役割を深く問い、社会的包摂を生み出す「新しい広場」の青写真を描く文化論的エッセイ。
岩波書店サイトより]

2013/12/16(月)(artscape編集部)

ゼロ・グラビティ

会期:2013/12/13

丸の内ルーブル[東京都]

映画『ゼロ・グラビティ』がおもしろいのは、その物語が宇宙の無重力空間を舞台にしながらも、重力との拮抗関係をありありと実感させるからだ。むろん、すぐれた映像技術による無重力空間の描写は注目に値する。けれども原題がgravityであるように、この映画の醍醐味はそのような無重力空間をとおして、逆説的に重力の働きを私たちに想像させることにある。体感し得ない無重力を視覚化することによって、重力を視覚化しないまま体感させると言ってもいい。
果てしない宇宙に投げ出された主人公の孤独と恐怖は計り知れない。しかし私たちがほんとうに身震いするのは、彼女の背後に映る美しい地球を目の当たりにした時である。これほど地球の近くを漂流してしまったら、もしかしたら大気圏内に引きこまれてしまうのではないか。眼前にどこまでも広がる闇に慄きながらも、眼に見えない地球の重力にも空恐ろしさを感じるのである。この二重の恐怖がたまらない。
映画を見ていて気づかされるのは、人間の存在自体が重力に大きく規定されているという事実である。身体運動が重力に依存しているだけではない。ものの見方そのものが重力に左右されているのだ。
たとえば無重力空間では身体の動作はままならない。じっさいこの映画でたびたび表わされているように、ひとたび回転してしまった身体を安定させるには並々ならぬ労力と時間が必要とされる。しかし、よくよく考えてみれば、こうした不自由な身ぶりの描写は地球の重力を前提とした視点に基づいている。どんな身体運動にも重力が等しく作用しているからこそ、身体の「安定」や「自由」という見方が可能になるからだ。
確かに宇宙を漂流する身体は不安定で不自由極まりない。ただ、そのように認識するのは、私たちの視線にも重力が働きかけているからだろう。画面の背後にたびたび映り込む地球は、帰還すべき目標であると同時に、認識の根底に重力が隠れていることの象徴にほかならない。
重力という枠組みを取り払った視線を想像してみると、あるいはこうも言えるかもしれない。宇宙空間で回転しているのは身体ではなく、むしろ宇宙ではないのか。身体が宇宙で回転するのではなく、身体のまわりの宇宙が回転する。事実、この映画のなかでもそのようなシーンは、部分的とはいえ、表現されていた。そのようにして私たちの世界観を想像的に転倒させるところにこそ、この映画の芸術性があるのだ。

2013/12/15(日)(福住廉)