artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
O JUN「描く児」
会期:2013/12/21~2014/03/02
府中市美術館[東京都]
出品作品は約150点。具象と抽象、線と面、水と油、モノクロとカラー、ペインタリネスとフラットネスなど、異質な要素をひとつの作品に同居させたユニークな絵が並ぶ。紙作品に鉄枠をはめたり,大胆にもほどがある。ところで、同展はO JUNの「30年にわたる歩みを総覧」するといいながら、実際はここ15年間の作品が大半を占めている。おそらく独自のスタイルを確立した90年代末以降に絞ったんだろう。ぼくはそれ以前の作品も見てるはずだが、記憶にない。だとすればなおのこと初期の作品も見たいと思った。
2013/12/21(土)(村田真)
所蔵作品展「MOMATコレクション」
会期:2013/10/22~2014/01/13
東京国立近代美術館[東京都]
これまでに近代日本の歴史をたどる国立近代美術館の常設を何十回も訪れたが、特に関東大震災から幻の1940年東京オリンピックの頃までを見入る。現在と似たような時代と言えるからだ。当時、画家の津田青楓が、キリストの磔刑図のように、官憲による拷問で亡くなったプロレタリアート文学の小林多喜二と窓の外の国会議事堂を描いている。その後、津田も警察に連れていかれるが、再び繰り返して欲しくない時代だ。
2013/12/20(金)(五十嵐太郎)
吉岡徳仁 クリスタライズ
会期:2013/10/03~2014/01/19
東京都現代美術館 企画展示室B2F他[東京都]
都現美では同時にデザイナー、吉岡徳仁のクリスタライズ展を開催していた。最近の活動の集大成と、結晶による新作の絵画や彫刻などを紹介する。ぎらきらと輝くクリスタルのユートピア世界は、ブールノ・タウトやパウル・シェーアバルトのヴィジョンを想起させるだろう。さらにマティスの礼拝堂に着想を得た虹の教会という建築的なスケールのプロジェクトまで展開していた。全体を白で統一し、作品以外にも空間を体験できるインスタレーションになっていたのがよかった。
2013/12/20(金)(五十嵐太郎)
うさぎスマッシュ展 世界に触れる方法
会期:2013/10/03~2014/01/19
トリエンナーレが忙しくて、ようやく足を運んだ都現美の「うさぎスマッシュ」展。ジャンルを軽やかに横断するデザイン/科学×アートは、ここ数年増えている企画だろう。建築系では、AOM/OMAのEU国旗とシアトル図書館プログラム、震災と津波の記憶を未来に伝えるためのアトリエ・ワンによる世界遺産をコラージュしたドローイングが出品されている。以前、作品集で見ていたリチャード・ウィルソンのオイルを張った空間も体験できた。
2013/12/20(金)(五十嵐太郎)
アイチのチカラ!
会期:2013/11/29~2014/02/02
愛知県美術館[愛知県]
戦後の愛知県おける美術史を振り返った展覧会。同館のコレクションから130点あまりが展示された。戸谷成雄や奈良美智、杉戸洋、安藤正子といった愛知県にゆかりのある美術家の作品をはじめ、片岡球子や中村正義の破天荒な日本画、舞妓を丹念に描いた鬼頭鍋三郎の油彩画など、見るべき作品は多い。
都市の美術史を編纂する重要な契機となるのは、公募団体と美術大学、そして美術館である。こうした諸制度は、美術家や鑑賞者、学生が集まる美術の現場になりうるからだ。事実、本展も1946年の中部日本美術協会の結成にはじまり、1955年の愛知県文化会館美術館の開館、そして1966年の愛知県立芸術大学開学などを歴史の動因としていた。
だが、本展には決して見過ごすことのできない重大な欠陥が2つあった。それは、展示された作品が「絵画」に偏重していることと、歴史を構築する美術館としての態度である。
本展のラインナップは、油彩画や日本画を含む絵画が大半で、立体や彫刻はきわめて少ない。ましてやパフォーマンスや映像は皆無だった。けれども、愛知には同地で結成され、その後全国的に活動を展開したゼロ次元をはじめ、1970年の「ゴミ裁判」や1973年の名古屋市長選挙に立候補した岩田信一など、重要な美術家がたくさんいる。言うまでもなく、赤瀬川原平や荒川修作といったネオ・ダダのメンバーも愛知とは関わりが深い。そうした側面をすべて欠落させたまま、あくまでも絵画を中心に提唱された愛知の美術史が著しく偏向していることは指摘しておかなければなるまい。
むろん、こうした偏りは美術館の収集方針に由来している。だが、本展で明らかにされていたそれを確認してみると、「絵画」を重視する明確な収集方針が打ち出されているわけでもないことに驚かされた。同館は、「愛知県としての位置をふまえた特色あるコレクションを形成する作品」を収集するというのだ。このひどくまわりくどい日本語がわかりにくいのは、コレクションを形成する主体が誰なのか明示されていないからだ。だが、これは明らかなトートロジーである。事実として美術館が収集した美術作品が美術史の主流を形成するのだから、このようにコレクションの主体を曖昧にするような言い方は、無責任というより不誠実と言わざるをえない。
今日、美術史が排除と選択の結果であることは誰もが知っている。だが、であればこそ、美術館に求められるのは美術の歴史を構築する明確な意志とフィロソフィー、すなわち「愛智」ではないのか。
2013/12/20(金)(福住廉)