artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

Shinonome Photo Festival 2013

会期:2013/09/27~2013/11/09

TOLOT/heuristic SHINONOME[東京都]

オン・デマンド印刷の写真集やカレンダーなどを製作している東京・東雲のTOLOTが運営するスペースで、今年から秋に写真フェスティバルが開催されることになった。元は倉庫だったというかなり広い会場に、ゆったりと写真作品が並ぶ。参加ギャラリーと出品作家は、以下の通りである。
ARATANIURANO(西野達)/Gallery Koyanagi(野口里佳)/G/P + g3/ gallery(篠山紀信)/Mujin-to Production(朝海陽子)/SCAI THE BATHHOUSE(ダレン・アーモンド)/Shugo Arts(カーステン・ヘラー、金氏徹平、中原浩大、ボリス・ミハイロフ)/Taka Ishii Gallery(細江英公、森山大道)/TARO NASU(松江泰治)/The Third Gallery Aya(石内都、山沢栄子)/Tomio Koyama Gallery(ローリー・シモンズ、福居伸宏、古西紀子)/YAMAMOTO GENDAI(エドガー・マーティンズ)/YUKA TSURUNO GALLERY(ティム・バーバー)。
このリストを見てもわかるように、同スペースに常設会場を持つG/P + g3/ galleryとYUKA TSURUNO GALLERYを除いては、各ギャラリーの顔見世興行的な意味合いが大きい。出品作家の幅が広いので、かなりばらついた印象は否めないが、写真をコンテンポラリー・アートの重要な領域と位置づけて展示活動を展開しているギャラリーの数が、いつのまにか、これだけ多くなっていることに驚かされた。将来的にカタログなども刊行できるようになれば、秋の恒例行事として定着していくのではないだろうか。

2013/10/16(水)(飯沢耕太郎)

上海博物館──中国絵画の至宝

会期:2013/10/01~2013/11/24

東京国立博物館[東京都]

リニューアルオープンした東洋館の4階で開かれているのだが、なぜかエレベーターは4階に止まらない。仕方なく5階まで上って階段を下りるが、フロアは平坦でなく奥の4.5階みたいなところでやっていたのでわかりづらかった。東洋館てこんなに広かったっけ。中国絵画の展示は宋・元から明・清までの40件。それほど大きな展覧会ではないが、けっこうおもしろかった。五代(10世紀)の《閘口盤車図巻》は、水門の施設を描いた図。いわゆる遠近法ではなく、水平線と斜めの平行線で成り立っているのは洛中洛外図と同じだが、日本のように霞や金雲で細部をごまかしたりせず、空間的に辻褄が合うようにきちんと描いていて、まるでレオナルドの描いた精緻な設計図のようだ。山水画も日本より綿密に描き込んである。湖を俯瞰した南宋(13世紀)の《西湖図巻》は雪舟の《天橋立図》に先駆けてるし、同じく南宋の山水画《渓山図巻》は《モナ・リザ》の背景とよく似てる。トゲトゲしい樹木を描いた元(14世紀)の《枯木竹石図軸》などは、グリューネヴァルトを予感させずにはおかない。もちろんどれも中国のが早いといいたいのだ。圧巻は、明(17世紀)の《山陰道上図巻》。波打ち、のたくり、蠕動するシュールな山々が8メートルにわたって描かれているのだ。山水画は西洋の風景画に対応するといわれるが、じつはまったく異質なもので、なにか大地に宿る生命みたいなものを感知し視覚化する術だったのではないか。

2013/10/16(水)(村田真)

京都──洛中洛外図と障壁画の美

会期:2013/10/08~2013/12/01

東京国立博物館[東京都]

「京都でも見ることのできない京都」を謳い文句にした特別展。会場に入ると、いきなり4面の巨大スクリーンにこれから見る作品がドアップで映し出される。おいおい最初に見せるなよ。次の展示室には4件の「洛中洛外図屏風」が並ぶ。「上杉本」「歴博乙本」「舟木本」「勝興寺本」で、後期には東博の「舟木本」以外展示替えされる。これだけそろうと壮観で、いろいろ気づくことがある。まず、どれも金雲によって京の街が半分くらい隠れていること。前々から金雲や霞は空間を曖昧にすることで日本の絵画から構築性を奪う元凶だと思っていたが、とりわけ歴博乙本は半分以上が雲に隠れてしまって、さすがにやりすぎだろ。でも狩野永徳筆の上杉本は金雲がデザイン的にうまく処理されていて、やっぱり国宝だけのことはある。しかしいちばん華やかなのは岩佐又兵衛筆の舟木本で、祇園祭や遊女歌舞伎など色彩も鮮やかだし線描も艶やか。ところで、洛中洛外図には西洋的な遠近法が使われておらず、建造物は水平線と斜めの平行線で表わされるが、この斜めの線が作品によって右上に向いていたり左上に向いていたり一定してないのだ。カタログを見ると歴博甲本、舟木本、勝興寺本、池田本は左上、歴博乙本、上杉本、福岡市博本は右上とバラバラ。これはなにか意味があるんだろうか。もちろん画家が見た角度によって左右が決まるはずだが、これらは実際に見て描いたわけじゃないし、たんなる画家の気まぐれか。さて、京都御所の障壁画を通り抜けて次の展示室に入ると、またもや幅20メートル近い巨大な横長スクリーンに映像が映し出されている。龍安寺の石庭を定点観測的に撮影したもので、石庭そのものは変わらないが、塀の向こうの木々が四季折々変化していくのがわかる。春は中央に2種の桜が咲き、夏は緑におおわれ、秋は左右の紅葉樹が赤と黄色に色づき、冬は葉が落ちて雪が積もるという具合に、じつに巧みに色彩が配されているのだ。知らなかった。最後は二条城の障壁画。二の丸御殿黒書院一の間、二の間、大広間の四の間の襖や壁画をごっそり引っぺがして陳列ケース内に再現している。ムチャしよるなあ東京人は。

2013/10/16(水)(村田真)

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えっ?『授業』の展覧会ー図工・美術をまなび直すー展

会期:2013/09/14~2013/10/27

うらわ美術館[埼玉県]

美術教育の何が問題なのか。それは、美術の制作に重心を置くあまり、鑑賞教育がないがしろにされている点にある。制作と鑑賞が分断されたまま美術が教育されていると言ってもいい。こうした偏重は、大量のアーティスト予備軍を排出することで美術大学や美術予備校の経営的な基盤を確保している一方、結果的に「制作」を「鑑賞」より上位にみなす権威的な視線を制度化した。美術館における鑑賞者教育のプログラムは充実しつつあるが、それにしても「制作者」や「アーティスト」(あるいは、ここに「企画者」ないしは「キュレーター」を含めてもいいかもしれない)に匹敵するほど「鑑賞者」という立ち位置が確立されているわけではない。質的にも量的にも、鑑賞者を育むことを蔑ろにしてきたからこそ、市場を含めた美術の世界はことほどかように脆弱になっているのではないか。
本展は、小学校における図画工作および中学校における美術をテーマとした展覧会。明治以来の美術教育の変遷を貴重な資料によって振り返るとともに、現在、美術教育の現場で試行されているさまざまな実験的な授業を紹介した。展示されていた文科省による「児童・生徒指導要領の評価の変遷」を見ると、「鑑賞能力」は昭和36年から現在まで一貫して評価軸に含まれているにせよ、それが「表現能力」や「造形への関心」と交わることは、ついに一度もない。すなわち、制作と鑑賞の分断は制度的に歴史化されてきたのだった。
しかし、改めて振り返ってみれば一目瞭然であるように、制作と鑑賞の分離政策は美術に決して小さくない損害を与えてきた。従来の鑑賞教育は、「自由」という美辞麗句の陰に鑑賞を追いやり、方法としての鑑賞を練り上げることを放棄してきたため、結果として鑑賞と本来的に分かち難く結びついている批評を育むこともなかった。言うまでもなく批評とは批評家の専売特許ではないし、批評的視線を欠落させた鑑賞は鑑賞行為としても不十分であると言わざるをえない。批評の貧困は、批評家の力量不足もさることながら、鑑賞教育の乏しさにも由来しているのだ。
必要なのは、おそらく鑑賞=批評を「表現」としてとらえる視座である。制作と鑑賞を分離する従来の考え方では、制作は表現という上位概念に含まれることはあっても、鑑賞はそこから周到に排除されていた。しかし、批評が作品との直接的な出会いを契機として生み出される言語表現だとすれば、批評と直結した鑑賞もまた、そうした表現の一部として認めなければなるまい。「表現」という概念をいま以上に練り上げることによって、鑑賞を制作より下位に置くフレームを取り払うこと。そこに美術の未来はあるのではないだろうか。

2013/10/16(水)(福住廉)

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宮嶋康彦「Siberia 1982」

会期:2013/09/20~2013/11/16

gallery bauhaus[東京都]

1982年11月、31歳の宮嶋康彦はチェホフの『シベリアの旅』を読んだことをきっかけに、「日本人の起源」を求めてモスクワ経由でシベリアに旅立った。指導者のブレジネフの死後まだ間もない時期、ソビエト社会主義政権にはすでに荒廃の気配が色濃く漂い、崩壊への坂道を転がり落ちつつあった。若い写真家は、4×5判の大判カメラを抱え、KGB(国家保安委員会)のメンバーらしい男の尾行に遭ったり、フィルムを没収されたりといった苦労を重ねながら、辞書片手に人々に声をかけて写真を撮影し続けた。今回のgallery bauhausの個展では、これまで未発表だったその「Siberia 1982」シリーズから37点が展示されていた。
落日の愁いを帯びているかのような男女の表情、街のあちこちにある巨大なレーニンの彫刻や肖像画、特権階級のみが所有を許される最高級車チャイカ、氷結し始めているバイカル湖──戸惑いと逡巡を隠すことのない眼差しによって捉えられた光景からは、この時期にしか写しえなかったであろうリアリティを感じることができる。「モスクワの街に到着した日。街の一角が燃えていた。二度の大きな爆発音」。揺らぐ思いを伝えるキャプションも効果的だ。
展示作品はすべてプラチナ・プリントで仕上げられているのだが、その選択についてはやや疑問が残った。プラチナ・プリントは、中間部のグレートーンの諧調の豊かさに魅力がある。だが、このシリーズにはむしろ白黒のコントラスト、特に暗部の締まりが必要であるように思えるからだ。展示プリントと、同時に刊行された写真集(Office Hippo)のくっきりとした印刷との間に、かなりの違いがあるのも、混乱を招くかもしれない。

2013/10/15(火)(飯沢耕太郎)