artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
高田瞽女最後の親方 杉本キクイ
会期:2013/08/03~2013/09/29
上越市立総合博物館[新潟県]
瞽女(ごぜ)とは、盲目の女性旅芸人。主として農村や漁村を巡り歩き、各地で三味線を奏でながら唄を歌う。瞽女唄はテレビもラジオもない時代の娯楽として庶民によって大いに楽しまれた。戦後の経済成長とともに瞽女の文化は衰退してしまったものの、とりわけ新潟県の長岡瞽女と高田瞽女はいまもその芸が辛うじて継承されている。
長岡瞽女といえば、美術家の木下晋が描いた小林ハルが知られているが、本展は高田瞽女の最後の親方、杉本キクイを取り上げたもの。キクイの生涯や暮らしぶり、道具、掟を記した式目、そしてキクイに取材した画家の斎藤真一による絵画などが展示され、記録映画『瞽女さんの唄が聞こえる』(伊東喜雄監督)も併せて上映された。
展示を見てひときわ印象に残ったのは、瞽女の世界独自の秩序。親方の家で共同生活を営む瞽女たちの暮らしは、非常に規則正しい。毎朝丁寧に部屋や庭を掃除していたせいか、展示された器物はいずれも輝いており、保存状態が良好である。また式目を見ると、男や子をつくってはならないなど、数々の厳しい掟のもとで瞽女が生きていたことがわかる(掟を破った瞽女は追放され、「はなれ瞽女」となるが、これは映画『はなれ瞽女おりん』[篠田正浩監督]に詳しい)。
瞽女たちの秩序は、おそらく自らの生存のための戦略だったのだろう。盲目というハンディキャップを負った女たちにとって、瞽女という職能と生き方は、按摩と同様、「福祉」という概念のなかった時代におけるある種の「セーフティーネット」として機能していたと考えられるが、その機能を十全に発揮させるためには自らを厳しく律する法が必要不可欠だった。生きるために、いや、よりよく生かされるために、自ら掟に従っていたのだ。
いま瞽女に注目したいのは、その存在が現代におけるアーティストと重なっているように見えるからだ。むろん、その行動様式はレジデンスを繰り返しながら国内外を巡るアーティストのそれときわめて近しい。けれども、より根本的に考えれば、盲目の瞽女と見えないものを可視化するアーティストには通底する次元があるのではないだろうか。残された瞽女唄の音源を聞くと、眼の見えない瞽女の唄い声に、眼の見える者たちが熱心に耳を傾けることで、ともに唄の世界を見ているような気がしてならない。それは、視覚によって見ている通常の世界ではないし、だからといって盲目の世界を想像しているわけでもなく、瞽女の唄声と三味線の音を契機として双方がともに働きかけることではじめて切り開かれる、他に代えがたい特異な世界なのだ。
神にしろ無意識にしろ、いまも昔も、アーティストは見えない世界を見えるように表現してきた。そして優れたアーティストは、いずれも明確な自己規律によって制作を持続させているのだった。社会に直接的に貢献するわけでもなく、他者の求めに応じるわけでもなく、あくまでも自己の必要と充足のために制作を繰り返すアーティストにとって、そうした自己規律があってはじめて制作を前進させることができるのかもしれない。瞽女に学ぶところは大きいはずだ。
2013/09/23(月)(福住廉)
伊丹豪「Study」
会期:2013/09/21~2013/10/03
POST[東京都]
伊丹豪は1976年、徳島生まれの写真家。2000年代以降、個展やグループ展への参加を中心に積極的に作品の発表を続けてきた。視覚的なセンスのよさは以前から際立っていたのだが、何を目指そうとしているのか、ややわかりにくいところがあった。ところが、8月にRONDADEから最初の作品集として刊行された『STUDY』と、それを受けて開催された東京・恵比寿のPOST(旧Lim Art)での同名の個展を見て、彼の写真の方向性がかなりきちんと定まってきたように感じた。
作品集は凝りに凝ったデザインワークによる造本で、最初に黄色の地に「Study/ Go Itami/ Born In Tokushima, Japan/ 1976」とのみ記されたページが50ページほど続き、その後でようやく写真のページが始まる。29点の写真はすべて縦位置で、最初の一点を除いては「上下2枚で写真が立ちあらわれるように」レイアウトされている。どうやら写真家よりもデザイナー、編集者主導の造本だったようだ。この写真集を踏まえた展示では、逆に「デザインの枠からふたたび写真が抽出」されることが目指されており、「1枚の写真、また、空間を支配する群れとして提出」されていた。確かに、伊丹本人の意図が、展示によってくっきりと見えてきたように見える。会場には作品を色面ごとに分解・分割して表示したサンプルも掲げられており、それを見るかぎり伊丹の関心は都市の街頭を色面の重なりとして再構築することだと思われる。ただ、写真集には室内に置かれた鉢入りの植物、液体の表面、重なり合った足(あるいは手)のクローズアップなど、異質な要素から成る作品もおさめられており、多様な方向に伸び広がっていく可能性を感じる。さらに「Study」を推し進めていくことで、より鮮明な世界像が浮かび上がってくるのではないだろうか。
2013/09/23(月)(飯沢耕太郎)
都市とシンクロする1,000人の提灯行列 高橋匡太《Glow with City Project》(あいちトリエンナーレ2013)
会期:2013/09/21~2013/09/22
ルート:白川公園・名古屋市科学館→長者町→オアシス21→愛知芸術文化センター[愛知県]
「あいちトリエンナーレ2013」の作品のひとつで、9月21日と22日の二日間だけ開催された高橋匡太による提灯行列のプロジェクト。これは、名古屋市科学館、長者町のアーケード、オアシス21、愛知芸術文化センターなど、ライトアップされた各建物の光と、1,000人の参加者たちの持つ提灯のLED電球の光がシンクロして、紫、青、緑、赤、と色とりどりに変化していくというもの。高橋を先頭にして行列に参加する人々が白川公園を出発し、長者町のアーケードを抜けてゴールの愛知芸術文化センターまで約1時間かけて歩くという催しだった。一日目の9月21日には800人ほどの参加者だったと聞いたが、二日目のこの日はもっと多かったかもしれない。夕方、白川公園のスタートからゴールまで私も行列について行った。歩いていると道路脇のあちこちから「わあ、なにあれ!」とか「見てあれ!」とか「綺麗な行列が通ってる!」とかいろいろな声が聞こえてくる。先回りして歩道橋や大通りの反対側などからも眺めてみたが、柔らかく変化していく提灯の光の波が幻想的で美しい光景だった。朝から美術館や各会場の展示を見てまわり、私はこの行列がスタートする夕方にはすでに疲労しきっていたのだが、この日見た作品のなかでもっとも感動したプロジェクト。見ることができて本当によかった。高橋匡太さんに感謝。
2013/09/22(日)(酒井千穂)
あいちトリエンナーレ2013「揺れる大地──われわれはどこに立っているのか:場所、記憶、そして復活」
会期:2013/08/10~2013/10/27
愛知芸術文化センター、名古屋市美術館、長者町会場、納屋橋会場ほか[愛知県]
東日本大震災後のアートを意識し、世界各地で起きている社会の変動と共振するというテーマで開催されている第2回目のあいちトリエンナーレ。このときは長者町会場を見る時間はほとんどなかったのだが、愛知芸術文化センター、名古屋市美術館、納屋橋会場などを歩いて回った。愛知県美術館、名古屋市美術館など、震災のほか、都市、建築をテーマにした大型作品や映像作品が目立った今回、それぞれの国で起こっている社会問題を扱った作品も多かった。全体に、見て考え自分なりに咀嚼すべき意義深い内容の展示ばかりではあったが、私が見た限りでは絵画作品はほとんどなく、バランスが偏っているようにも感じた。個人的にもっとも印象に残っているのは納屋橋会場で発表されていた名和晃平のインスタレーション作品。会場の床面からわき立つように発生している大量の泡とその光景はじつに壮観な眺めだった。
2013/09/22(日)(酒井千穂)
高橋匡太「Glow with City Project」
会期:2013/09/21~2013/09/22
白川公園、名古屋市科学館、長者町、オアシス21、愛知芸術文化センター[愛知県]
高橋匡太のGlow with city projectに参加した。約1時間ほど市内を歩く1,000人の提灯行列だが、すべての提灯と、オアシス21、科学館のプラネタリウム、愛知芸術文化センターなどのランドマーク的な建物の色の変化が同期するものだ。高橋にとって新しい試みとなる参加型の都市プロジェクトは、前回のトリエンナーレにおける池田亮司のサーチライトによる光のスペクタクルとは違う方向性である。池田のプロジェクトは圧倒的な光の力で崇高な現象を生みだすタイプだったが、今回のものは、それ以上の強い光を求めるものではない。一つひとつはささやかな蛍のような光だが、多くの市民がそれを手にもって参加することで、都市の夜の風景を再発見するような試みだ。2日目は、ちょうど芸術文化センターの10階から、都市の光とシンクロする1,000人の提灯行列のフィナーレをずっと俯瞰できた(音楽は聴こえませんが)。行列に参加すると全体像は見えなくなるが、上から見ると、光の集合体の全容がよくわかる。
2013/09/21(土)(五十嵐太郎)