2021年12月01日号
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artscapeレビュー

高田瞽女最後の親方 杉本キクイ

2013年11月01日号

会期:2013/08/03~2013/09/29

上越市立総合博物館[新潟県]

瞽女(ごぜ)とは、盲目の女性旅芸人。主として農村や漁村を巡り歩き、各地で三味線を奏でながら唄を歌う。瞽女唄はテレビもラジオもない時代の娯楽として庶民によって大いに楽しまれた。戦後の経済成長とともに瞽女の文化は衰退してしまったものの、とりわけ新潟県の長岡瞽女と高田瞽女はいまもその芸が辛うじて継承されている。
長岡瞽女といえば、美術家の木下晋が描いた小林ハルが知られているが、本展は高田瞽女の最後の親方、杉本キクイを取り上げたもの。キクイの生涯や暮らしぶり、道具、掟を記した式目、そしてキクイに取材した画家の斎藤真一による絵画などが展示され、記録映画『瞽女さんの唄が聞こえる』(伊東喜雄監督)も併せて上映された。
展示を見てひときわ印象に残ったのは、瞽女の世界独自の秩序。親方の家で共同生活を営む瞽女たちの暮らしは、非常に規則正しい。毎朝丁寧に部屋や庭を掃除していたせいか、展示された器物はいずれも輝いており、保存状態が良好である。また式目を見ると、男や子をつくってはならないなど、数々の厳しい掟のもとで瞽女が生きていたことがわかる(掟を破った瞽女は追放され、「はなれ瞽女」となるが、これは映画『はなれ瞽女おりん』[篠田正浩監督]に詳しい)。
瞽女たちの秩序は、おそらく自らの生存のための戦略だったのだろう。盲目というハンディキャップを負った女たちにとって、瞽女という職能と生き方は、按摩と同様、「福祉」という概念のなかった時代におけるある種の「セーフティーネット」として機能していたと考えられるが、その機能を十全に発揮させるためには自らを厳しく律する法が必要不可欠だった。生きるために、いや、よりよく生かされるために、自ら掟に従っていたのだ。
いま瞽女に注目したいのは、その存在が現代におけるアーティストと重なっているように見えるからだ。むろん、その行動様式はレジデンスを繰り返しながら国内外を巡るアーティストのそれときわめて近しい。けれども、より根本的に考えれば、盲目の瞽女と見えないものを可視化するアーティストには通底する次元があるのではないだろうか。残された瞽女唄の音源を聞くと、眼の見えない瞽女の唄い声に、眼の見える者たちが熱心に耳を傾けることで、ともに唄の世界を見ているような気がしてならない。それは、視覚によって見ている通常の世界ではないし、だからといって盲目の世界を想像しているわけでもなく、瞽女の唄声と三味線の音を契機として双方がともに働きかけることではじめて切り開かれる、他に代えがたい特異な世界なのだ。
神にしろ無意識にしろ、いまも昔も、アーティストは見えない世界を見えるように表現してきた。そして優れたアーティストは、いずれも明確な自己規律によって制作を持続させているのだった。社会に直接的に貢献するわけでもなく、他者の求めに応じるわけでもなく、あくまでも自己の必要と充足のために制作を繰り返すアーティストにとって、そうした自己規律があってはじめて制作を前進させることができるのかもしれない。瞽女に学ぶところは大きいはずだ。

2013/09/23(月)(福住廉)

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