artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

美術ペニス

会期:2013/06/14~2013/06/23

KUNST ARZT[京都府]

文字通り「ペニス」をモチーフにした作品を集めた展覧会。企画者で画廊主の岡本光博をはじめ、水内義人、春名祐麻、マリアーネ、天憑、高須健市が参加した。自主規制しがちな主題を、それぞれ正面から表現した潔い作品ばかりで、じつに面白い。
なかでも注目したのは、春名祐麻と天憑。某有名芸能人のペニスを想像しながら制作するワークショップ「まさはるのチンコを作ろう☆」で知られる春名は、ピカソの《花束》をもとにした新作を発表した。色とりどりの花束を握る2人の手に、動作を表わす二重の線を2つ描き加えただけのシンプルな作品だ。すると、どうだろう。まるでペニスをしごいているようにしか見えないから不思議だ。愛情の象徴である花束を性欲の象徴に意味的にずらすこと。最低限の行為によって最大限の効果を発揮する、非常に優れた傑作である。
パフォーマンスアート集団の天憑は、巨大なペニスの模造をかつぎながら鴨川の上流を目指す《奉納祭》を発表した。その記録映像を見ると、ふんどし姿の男たちが赤い男根を抱え上げて川の中を歩き、時折土手や橋から見下ろす人びとに向かって男根を元気よく突き上げている。三条から歩き始め、ゴールは出町柳。川が二股に分かれているところを股間に見立てたようだ。その中洲に上陸すると、紙で形成した女陰に向かって男根を突き刺し、そのまま突き抜けて、パフォーマンスは終わった。最後のあまりにも直接的な表現は説明過剰であるように思わなくもないが、それでも男根信仰を主題にしたパフォーマンスとしては秀逸だったように思う。近年明らかに増加しつつある民俗学的な主題に取り組む現代アートのなかでも、天憑のパフォーマンスは観客を巻き込む力が飛び抜けていたからだ。現代アートやパフォーマンスというより、まるで伝統的な祭りのような祝祭的な雰囲気を醸し出していた。けれども翻って考えてみると、伝統的な祭りといえども、そもそもの発端はこのような突発的で衝動的なパフォーマンスだったのではないだろうか。天憑は現代アートと伝統行事が交わる原点を突いたのだ。

2013/06/23(日)(福住廉)

ジミー・ツトム・ミリキタニ回顧展

会期:2013/05/14~2013/07/20

立命館大学国際平和ミュージアム 中野記念ホール[京都府]

ジミー・ツトム・ミリキタニ(1920~2012)は、日系アメリカ人アーティスト。サクラメントに生まれ、広島で育ち、日本画家を目指してアメリカに帰ったが、80年代からニューヨークの街角で路上生活を送りながら絵を描いていたところ、リンダ・ハッテンドーフ監督と出会い、彼女の映画『ミリキタニの猫』で広く知られるようになった。本展は、日米の歴史に翻弄されたジミーの激動の人生を、絵画をはじめ数々の資料によって回顧したもの。比較的小規模であるとはいえ、見応えのある展示だった。
ジミーの絵に一貫しているのは、過去の記憶の召喚である。たびたび描いているツール・レイク収容所の絵は、ジミーが戦時中に「敵性外国人」として強制的に収監された苦い経験に由来しているし、幼少期を過ごした広島の心象風景もいくども描いている。軍人や軍艦の図版を貼りつけたコラージュによって太平洋戦争を描写した作品もある。炎に包まれるワールド・トレード・センターなど同時代的な主題を描くこともないわけではないが、それにしても原爆ドームの描き方との連続性が強いことから、ジミーがそれらを人間の過ちという歴史に位置づけていることが伺える。やや大袈裟に言えば、ジミーの絵には日米の歴史のひろがりが体現されているのだ。
もうひとつの大きな特徴は、ジミーが画面に書き込んでいる文字。おそらくボールペンなのだろう、画面の余白に「雪山」という雅号や「広島縣人」といった自らのアイデンティティーを告げている。収容所の絵には「無名死者三百人」という文字もあるから、絵の中の文字は記録や伝達の意味合いもあったようだ。
面白いのは、それらのなかに「東京上野藝大卒」「元日本美術院會員」「日本画一位画家」といった文字も含まれていることである。むろん、これらは事実ではない。けれども、ジミーがこれらの絵を路上で描いていたという条件を省みれば、このような文字をたんなる「嘘」として退けることは難しくなる。なぜなら、路上で絵を描くということは路上で絵を見せるということであり、であればこれらの文字は虚栄心の現われである「嘘」というより、より多くの人びとに自らの絵を届けるための戦術的な「箔」として考えられるからだ。
実際、ジミーは「販売」より「伝達」を重視していたのではないだろうか。映画『ミリキタニの猫』には、ジミーが絵の前で激昂しながら演説をしていたという逸話が紹介されているが、おそらくジミーにとっての絵とは、アメリカ国籍をもっている日系人たちの財産を奪い、強制収容所に幽閉したアメリカ政府の黒い歴史を物語る媒体だった。絵は、文字や言葉と不可分だったのだ。
ジミーの絵を、ひとまずアウトサイダーアートとして分類することはできるだろう。けれども同時に、それは近代絵画以前の「絵」の伝統に位置づけることもできなくはないはずだ。展覧会の前身である油絵茶屋では油絵が口上とともに見せられていたと考えられているように、ジミーの絵も基本的には彼の肉声や言霊と切り離せないからだ。「近代」の定着にしくじったことが明らかになりつつあるいま、ジミーの絵から学ぶことは多い。

2013/06/23(日)(福住廉)

田村尚子「ソローニュの森」

会期:2013/06/06~2013/06/23

中之島デザインミュージアム de sign de>[大阪府]

フランス・ソローニュのラ・ボルド精神病院を舞台に、そこに滞在する患者やスタッフの日常を撮影した『ソローニュの森』(医学書院、2012)は、田村尚子のふわふわと宙を漂いながら被写体を包み込み、からめとっていくような眼差しのあり方が印象的な写真集だった。今回の中之島デザインミュージアム de sign de>での展示は、その写真集の収録作を中心にしたものだが、かなり雰囲気が違って見えた。
患者とスタッフが自転車でピクニックに出かける場面を撮影した「白のシリーズ」は、57・5×86センチのかなり大きなプリントに引き伸ばして展示してある。画像が白っぽく飛んだ領域が大きくなることで、彼らの存在はより寄る辺ないものになり、見る者の不安感をさらに強く喚起する。ラ・ボルドの室内や中庭などの描写も、写真集で見たときよりも「自分がそこにいる」という現実感が強まっているように感じた。それに加えて、滞在者の手記をポラロイド印画紙の膜面に直接タイピングした作品や、前作の「Voice」シリーズ(2004年に青幻舎から写真集として刊行)からの写真も展示されていて、全体として田村自身のソローニュでの体験を、その感情的な起伏をなぞるように再構築されていた。土佐堀川に面していて、水と光を贅沢に取り入れることができる会場の空間の特質を活かしたインスタレーションが、とてもうまくいっていたのではないかと思う。
ラ・ボルド精神病院での撮影は、まだ終わったわけではないようだ。展示からは、このシリーズがさらに変容・発展していく可能性も感じ取ることができた。

2013/06/23(日)(飯沢耕太郎)

石原友明「アウラとエクトプラズム」

会期:2013/06/22~2013/07/28

MEM[東京都]

スタイロフォームの球体をつなげて革をかぶせたモコモコの物件と、それを石原自身の身体に装着した写真の展示。その物件にはマウスピースみたいなものがついていて、写真では全裸の石原がそれを口にくわえた状態で写っている。これがちょうど口から出たアウラやエクトプラズムのように見えなくもない。いわば身体から出た霊体の物体化。ほかにも、正方形の画面に全裸の作者自身をプリントし、その上からレオナルドの人体比例図のように円形や線を加えた作品もあり、初期のセルフヌードを思い出す。革の球体もセルフヌードも80年代に出てきた形態やアイディアだが、それらを入れ替えたり組み替えたりしながら新たな展開を見せている。

2013/06/23(日)(村田真)

藤原彩人 彫刻「空の景色と空な心」

会期:2013/06/06~2013/06/23

ギャラリー21yo-j[東京都]

大きな壁面に陶板レリーフがドーンと1点、床に1メートル余りの立像が3体。レリーフは、向かい合ってヒソヒソ話するふたりのヌード像で、その足下から黒い影が左下に3メートルほどビヨーンと延びている。影をレリーフで表現するか? しかも影にまで目や鼻の輪郭線が描かれている。ここでは人体が平面化し、影が立体化して等価になっているのだ。2次元と3次元、あるいは絵画と彫刻の境界を考えさせる作品。一方、3体の立像はいずれも短足で、尻がデカく、手も長く、なで肩で、ポケッと口を開けている、つまり「だらしない」かっこうをしている。これは別に日本人の不格好さを揶揄したものではなく、陶の素材や成型上の制約から導かれた形態らしい。内部は空っぽで、脚や腕も空洞になっているという。いわば器。ここに人体=陶器のアナロジーを読みとることもできる。意外と奥が深いなあ。

2013/06/23(日)(村田真)