artscapeレビュー
書籍・Webサイトに関するレビュー/プレビュー
佐々木敦『小さな演劇の大きさについて』
発行所:Pヴァイン
発行日:2020/06/20
批評家・佐々木敦による初の演劇論集『小さな演劇の大きさについて』がPヴァインから刊行された。これまで、テン年代以降(2000年代以降と言ってもいいかもしれない)の小劇場演劇を広く扱った書籍は徳永京子・藤原ちから『演劇最強論』くらいしかなく、それも2013年と7年も前の出版であることを考えると(ユリイカの「この小劇場を観よ!」特集も2005年と2013年に発行されたきりである)、本書は現在の小劇場で何が起きているかを知るためのいまのところ唯一の手段であり、演劇関係者必携の書となるだろう。
『小さな演劇の大きさについて』は三部構成。「『現代口語演劇』のアップデート」と題された第一部の目次に並ぶのは岡田利規/チェルフィッチュ、平田オリザ/青年団、松田正隆/マレビトの会、三浦基/地点といった名前だ。佐々木は『即興の解体/懐胎』(青土社、2011)の第二部でチェルフィッチュと青年団の演劇について論じており、章題の「アップデート」が示す通り、まずは彼らのその後の展開が論じられる。「即興」の問題系を論じるのに演劇が召喚されたのは、それが「現前性/一回性」と「再現性/反復性」の双方を本質とする芸術だからだった。いかにして相矛盾するそれらは可能となっているのか。マレビトの会や地点もまたそのような演劇の原理との関わりのなかで論じられ、読者は演劇作家たちの、そして佐々木の思考を通して複数の方向から演劇の原理へアプローチすることになる。
第二部は「アングラ・不条理・笑い」。第一部が原理論だとするならば対をなす第二部は存在論とでも呼ぶべきだろうか。ケラリーノ・サンドロヴィッチ/ナイロン100℃、松井周/サンプル、宮沢章夫/遊園地再生事業団、飴屋法水、古川日出男。彼らの作品の分析を通じ、人間と世界とがどのように存在しているか/し得るか、それをいかに語り得るか/語り得ぬかが論じられる。一般的に、不条理といえばアングラ演劇、アングラ演劇といえば60年代だが、不条理は決して過去のものとなったわけではない。それは通奏低音のようにいまもそこにあるのだ。
第三部には前二部とは異なり一貫したテーマはなく、また、コアな舞台ファン以外には名前も知られていないであろう作家/劇団も多数登場する。多くが30代以下の若手作家だ。
佐々木は前書きにあたる「小さな演劇の小ささについて」で「小さな演劇」の「『小ささ』には、大きなものをも含む、さまざまなことを考えさせてくれる、たくさんのヒントが潜んでいる」と書いている。だが、ほとんどの演劇はモノとしては残らない。ほかの多くの芸術と比べて、それらの演劇の「大きさ」が事後的に「発見」される機会と可能性は圧倒的に少ない。だからこそ、リアルタイムでそこにある「大きさ」を、その可能性を読み取り記述する伴走者が(おそらくほかのジャンル以上に)必要となる。第三部には伴走者としての佐々木の仕事が結実している。
一部二部で取り上げられた作家/劇団たちはすでに一定以上の評価を得ている。優れた作品に触発され書かれた優れた批評には当然読み応えがある。だが、佐々木はそれらの作品に向けるのと同じ、あるいはそれ以上の熱量をまだ若い作家/劇団の可能性を見出し記述することにも振り分けている。佐々木は半ば自虐的に自らを「生まれつきの、無類のマイナー好き、マージナル好きなのだ」と書いてみせたりもするが、私はここにこそ批評家の誠実と見識を見る。批評家とは未知に可能性と悦びを見出す者だ。第三部のタイトルは「新しい演劇はどこにあるのか?」。本書は小劇場演劇のシーンを網羅的に取り上げたものでは決してないが、多くの「新しい演劇」の可能性が記されている。本書を読み、ぜひとも「新しい演劇」のある場所に足を運んでいただきたい。
公式サイト:http://www.ele-king.net/books/007589/
2020/06/08(月)(山﨑健太)
藤原辰史『分解の哲学──腐敗と発酵をめぐる思考』
発行所:青土社
発行日:2019/07/10
新型コロナウィルスの感染拡大とともにあったこの数カ月間、国内外を問わず、さまざまな人々がこのウィルスと、それがわれわれの社会におよぼす政治的・経済的・文化的影響について言葉を発してきた。むろん、それはいまだ過去形で記述されうるようなものではなく、現在もまたその只中にあることは確かだろう。とはいえ目下のところ、そのうちもっとも広く読まれた日本語の文章のひとつが、藤原辰史「パンデミックを生きる指針──歴史研究のアプローチ」
であることは断言してよいと思われる。今年の4月2日に発表されたこの学術的エセーは、「B面の岩波新書」というウェブ媒体で公開され、先行きの見えない現状を前に戸惑う人々に、文字通り一定の「指針」を与えることとなった。ちょうどこのエセーの公表と前後して、著者・藤原辰史(1976-)のこれまでの著書を読み返していた。前掲の「パンデミックを生きる指針」は、農業史を専門とする著者が、約100年前のスパニッシュ・インフルエンザをおもな比較対象として、コロナウィルス感染拡大の渦中にある現在、および未来についての見通しを平易かつ求心的な言葉により示した名文であった。ここで著者は「虚心坦懐に史料を読む技術を徹底的に叩き込まれてきた」ひとりの歴史家として、パンデミックに直面した人々の「楽観主義」に警鐘を鳴らそうとしている。
他方、わたしの関心は、こうした「歴史研究のアプローチ」の見本とも呼べるようなエセーにではなく──もちろんそれはそれで興味深く読んだが──この著者が一貫した執念とともに取り組んできたひとつのテーマにあった。すなわち「食べること」である。
ここしばらく、気づけばいつも「食べること」について考えていた。むろん、わたし一人のみならず、自由な外出を大幅に制限されたこの約2カ月は、ふだんの日常においてその感覚を摩耗させていた人々にとっても、多かれ少なかれ「食べること」に意識的にならざるをえない期間であったはずだ。毎日の食事はひとり、もしくは同居する家族に限られ、友人や同僚といつものようにテーブルを囲むことは叶わない。食事のメニューは自炊かテイクアウトに限られ、自宅以外の空間で日常の息抜きをすることも難しい。道行く人々の減少と反比例して、Uber Eatsの黒いバッグを背負った自転車は日増しに目立つようになる。かたやスーパーマーケットはいつも以上に盛況で、リモートワークに切り替えることもできず、食べ物の流通を維持するために外で働いている人たちへの敬意は増すばかりである──等々。
さて、農業史家としての藤原辰史の仕事には、トラクターと戦車、化学肥料と火薬、毒ガスと農薬をはじめとする、いわゆる「デュアルユース」の問題がつねに中心にあった(『トラクターの世界史』中公新書、2017年など)。くわえてここ数年は、そうした狭義の歴史学の仕事にとどまらず、「食べること」から人間存在を──ひいては世界そのものを──根本的に捉えなおそうとする刺激的な試みが目立つようになった。「人間は、生物が行き交う世界を冒険する主体というよりは、生きものの死骸が通過し、たくさんの微生物が棲んでいる一本の弱いチューブである」(『戦争と農業』集英社インターナショナル新書、2017年、190頁)という達観したヴィジョンからさらに進んで、「分解」を鍵概念とする壮大なコスモロジーを開陳したのが本書『分解の哲学』である。
雑誌『現代思想』における連載を核とする本書の目次には、ネグリ=ハート、フリードリヒ・フレーベル、カレル・チャペックをはじめとする、一見すると接点を見いだすことが困難な名前がならぶ。あるいはまた、壊れたものに愛着を示す「ナポリ人」をめぐるゾーン=レーテルの見識、「糞虫」を活写するファーブル、あるいはそれを翻訳する大杉栄の筆の冴え、さらにはここ数年小さくないブームを巻き起こしている「金繕い」(金継ぎ)についての考察にいたるまで、本書が博捜するフィールドはきわめて広大だ。
終章「分解の饗宴」でまとめられているとおり、こうした多彩なトポスの先には、「食を通じた人間と非人間の関係の統合的分析」や「生と死という二項対立から漏れ出る生物および非生物の形態の分析」といった壮大な問題系が控えている。いずれにせよこうした「分解」論が、「脱領域的かつ拡張的に『食現象』を再考する」(318頁)ことに結びつけられている点に、個人的には何より興味をひかれる。それに「哲学」という言葉を冠することに、著者は「正直いまでもためらいがある」(324頁)という。だが、本書が投げかける問い、たとえば「なぜ、食べる方が『上位』で食べられる方が『下位』なのか」(239頁)という根本的な問いがひとつの「哲学」であることを疑う理由は、少なくともわたしには見当たらない。
2020/06/05(金)(星野太)
エマヌエーレ・コッチャ『植物の生の哲学──混合の形而上学』
翻訳:嶋崎正樹
発行所:勁草書房
発行日:2019/08/30
本書の著者エマヌエーレ・コッチャ(1976-)は、イタリアに生まれ、現在はパリの社会科学高等研究院(EHESS)で教鞭を執る哲学者である。もともとは中世哲学の専門家として『イメージの透明性(La trasparenza delle immagini)』や、『天使(Angeli)』(ジョルジョ・アガンベンとの共編)をはじめとするさまざまな仕事を手がけてきたが、ここ数年は本書『植物の生の哲学』(2016)や『変身』(2020)をはじめとする、より一般的なテーマの著書により注目を集めている。昨今のコロナウィルス問題をめぐって、『リベラシオン』をはじめとする複数の媒体にコメントを寄せていることからも、同時代の哲学者としてのコッチャの知名度がうかがえるだろう。
さて、本書『植物の生の哲学』については、いくつかの紹介の仕方が考えられる。まず、人間および動物を中心としてきた従来の「生の哲学」に対する何らかのオルタナティヴを模索する読者にとって、本書の議論は大いに示唆に富むはずである。むろん哲学だけではない。生物学をはじめ、およそ「生」に関わるあらゆる学問において周縁に置かれてきた「植物の生」について新たな認識を得たいと願う読者にとって、本書は格好の入口となるはずである。
しかし本書の射程はそれにはとどまらない。著者コッチャの立場は、これまで相対的に軽んじられてきた「植物の生」を尊重しよう、といった程度の「穏当な」ものではないからだ。著者によれば、植物はこの世界にある生のうち、もっともラディカルな形態であるという。なぜか。それは植物こそが、人間や動物よりもはるかにこの世界に「密着」しており、周囲の環境と「溶け合って」いるからである。ゆえに「植物は、生命が世界と結びうる最も密接な関係、最も基本的な関係を体現している」(6頁)。
こうした見通しのもと、本書では植物における運動や四肢の不在が、まるごと肯定的なものとして捉えなおされることになる。植物は動物のように行為によって、あるいは人間のように意識によって、この世界に変化をもたらすのではない。むしろ植物は世界に「浸ること(immersion)」によって、さまざまな生が混合する環境そのものを作り上げている。植物に着目することではじめて見えてくるこの「混合の形而上学」こそ、コッチャが本書において提唱する新たな自然哲学なのだ。
つまるところ本書が提案するのは、呼吸、流体、混合といったキーワードをもとに世界を捉える、壮大なコスモロジー(宇宙論)であると言ってよい。本文の記述そのものは一貫して軽やかだが、全体に散りばめられた註の端々からは、同時代の思想的潮流──たとえば思弁的実在論──への容赦のない批判も垣間見える。本書の最終章(第15章)が唐突に哲学論によって締めくくられているのも、故なきことではない。「植物の生」をめぐる哲学は、最終的に、われわれの従来の思考の枠組みそのものの転換をともなわざるをえない──いくぶん簡略的なかたちながら、本書はそのようなところにまで届く、遠大な問題系を描出している。
2020/06/01(月)(星野太)
カタログ&ブックス | 2020年6月1日号[テーマ:ビエンナーレ]
テーマに沿って、アートやデザインにまつわる書籍の購買冊数ランキングをartscape編集部が紹介します。今回のテーマは、アーティゾン美術館(※2020年6月1日現在、臨時休館中)で開幕を待つ、第58回(2019年)ヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展の日本館展示の帰国展「Cosmo-Eggs|宇宙の卵」にちなみ「ビエンナーレ」。2年に1回のペースで開催される美術展覧会全般を指すこのキーワード関連する、書籍の購買冊数ランキングトップ10をお楽しみください。
「ビエンナーレ」関連書籍 購買冊数トップ10
1位:スイミー ちいさなかしこいさかなのはなし
【産経児童出版文化賞】【国際絵本ビエンナーレ金のリンゴ賞(第1回)】小さな黒い魚スイミーは、広い海で仲間と暮らしていました。ある日、なかまたちがみんな大きな魚に食べられてしまい、一匹のこったスイミーは…。
2位:英語でもよめるスイミー
【産経児童出版文化賞】【国際絵本ビエンナーレ金のリンゴ賞(第1回)】泳ぐのが誰よりも速い魚スイミー。ある日、恐ろしいまぐろに襲われ、兄弟たちが1匹残らず飲み込まれてしまった。逃げたのはスイミーだけで…。多彩な技法で描いた美しい海の様子をダイナミックに伝える絵本。英語訳付き。
3位:共感・時間・建築(TOTO建築叢書)
第15回ヴェネチア・ビエンナーレ(※編集部注:国際建築展)の日本館帰国展にあわせて行われたシンポジウムを再構成し書籍化。展示によって開かれた可能性を検証し、この先の建築を展望する。縮小時代を生き抜くための、建築家による議論の集成。
4位:アール・ブリュット(文庫クセジュ)
鑑賞されることを目的としない、真に純粋で生の芸術、アール・ブリュット。その起源、呼び名、概念、作品の素材や形式、愛好家やコレクター、近年のブーム、美術館や市場までを概説する。
5位:我々は人間なのか? デザインと人間をめぐる考古学的覚書き
我々は人間なのか? 今、デザインに求められるのは、この問いだ──。第3回イスタンブール・デザイン・ビエンナーレの準備をしていた過去1年半の活動記録。人間という動物を定義する上でのデザインの役割を考える。
6位:山形 米沢・鶴岡・酒田(ことりっぷ)電子版
山形県全域を舞台に、「いい感じの小さな旅」を提案する『ことりっぷ』。注目のテーマは、「文翔館と山形ビエンナーレ」、「七日町をぶらりおさんぽ」、「山を感じるカフェ&レストラン」、「新庄マルシェと金山町でレトロさんぽ」、「かみのやまクアオルトウオーキング」、「熊野大社で良縁祈願」、「フラワー長井線に乗って花めぐり」、「手仕事の技がキラリ置賜クラフト」、「羽黒山麓へ、湯殿山麓へ」、「飛島へワンディトリップ」、「最上峡と幻想の森を訪ねる」など。
※本誌は2018年版内容について詳細データの更新を行い、2019年版としたものです。※一部コンテンツが採用されていない場合があります。
7位:日本画を描く悦び オールカラー版(光文社新書)
第46回ヴェネツィア・ビエンナーレで東洋人初の絵画部門名誉賞を受賞し、大徳寺聚光院別院の襖絵を完成させた著者。母の影響から人生を変えた岩絵の具との出合い、「日本画の持つ底力」まで、思いのすべてを描き尽くす。
7位:都市のエージェントはだれなのか 近世/近代/現代 パリ/ニューヨーク/東京(TOTO建築叢書)
東京という都市の生成変化を、パリ/ニューヨーク/東京という、異なる都市の成り立ちから論考。2010年のヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展「トウキョウ・メタボライジング」の展示コンセプト像を詳述したもの。
7位:ゲンロン 2(2016 April)慰霊の空間
特集:慰霊の空間
特集の中心をなすのは、津田大介らが参加した、2016年ヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展日本館のコンペ展示案。挑戦的なプランを2色刷りで完全再現。中沢新一へのインタビュー、五十嵐太郎・黒瀬陽平とともに災害と慰霊を再検討する鼎談など、多様な側面からこの国における慰霊のありように迫る。
10位:越境と覇権 ロバート・ラウシェンバーグと戦後アメリカ美術の世界的台頭
【サントリー学芸賞芸術・文学部門(第38回)】1964年のヴェネツィア・ビエンナーレでアメリカ人初の大賞を受賞し、名声を得たラウシェンバーグ。彼の越境性に着目し、戦後の国際美術シーンにおけるパリからニューヨークへの覇権の移行を、世界美術史の見地から検証。
10位:建築の民族誌 第16回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館カタログ
第16回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館カタログ。建築のドローイングをめぐる新たなアプローチの探究を映し出す42作品とともに、貝島桃代らキュレーターによる3本の論考を掲載する。英語版も同時刊行。
◆
artscape編集部のランキング解説
数年おきの美術展覧会を指す「ビエンナーレ」(2年に1回)、あるいは「トリエンナーレ」(3年に1回)といった語は日本でもすっかり浸透しましたが、そのオリジナルであるイタリアのヴェネツィア・ビエンナーレには100年以上の歴史があり、そのなかで国際美術展だけでなく、音楽祭や映画祭、演劇祭、そして建築展などが派生・独立していったという経緯があります。今年2020年の5月から開催されるはずだった国際建築展と、2021年に予定されていた国際美術展は、新型コロナウイルスの影響でそれぞれ開幕延期が発表されており、今後の展開にも注目したいところです。
「ビエンナーレ」というキーワードで抽出された今回のランキングは、ヴェネツィアだけでなく世界各国の多様なビエンナーレの姿が垣間見えるものになりました。1位と2位はいずれも絵本『スイミー』(2位は英語併記版)。第1回国際絵本ビエンナーレ「金のリンゴ賞」を受賞したレオ・レオニの代表作として、長年広く親しまれている作品です。トルコのイスタンブール・デザイン・ビエンナーレの共同キュレーターである二人が著した『我々は人間なのか? デザインと人間をめぐる考古学的覚書き』(5位)は、従来型のアートではなくデザインのビエンナーレをつくるというバックグラウンドを端緒として、現代の人間にとってデザインとは何か?と問いかけ新たな定義に思索を巡らせることのできる一冊。
近年のヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展の日本館に関連する書籍も目立ちます。2018年に開催された第16回の日本館のカタログ(10位)だけでなく、第15回の帰国展でのシンポジウムを採録した『共感・時間・建築』(3位)、日本館のコンセプトや展示コンペを振り返る『都市のエージェントはだれなのか』と『ゲンロン 2』(いずれも7位)など、設計や展示を支えるリサーチや言論の場も含めて、ヴェネツィア・ビエンナーレが建築家たちにとっての大舞台のひとつであることが伝わってきます。
緊急事態宣言の解除を受けて、営業を再開する美術館も少しずつ出始めてきました。アーティゾン美術館が再オープンした暁には、ヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展の空気が日本にいながらにして体感できる「Cosmo-Eggs|宇宙の卵」展にもぜひ足を運んでみてください。
2020/06/01(月)(artscape編集部)
池田安里『ファシズムの日本美術──大観、靫彦、松園、嗣治』
翻訳者:タウンソン真智子
発行所:青土社
発行日:2020/05/22
「日本ファシズム」という概念的枠組みを設定することで、戦闘や兵士を描かず、一見「政治色を帯びていない」非戦闘画が、いかに戦争と共犯関係を取り結んだかを検証する、意欲的な研究書。欧米圏のファシズム研究理論を取り入れた、日本の戦争美術研究である。著者の池田安里は、日本で生まれ育ち、北米で大学教育を受け、バンクーバーのブリティッシュ・コロンビア大学で執筆した博士論文が本書の元になっている。英語圏における日本の戦争美術研究の逆輸入という点でも、英語で執筆された文章の邦訳という手続きにおいても、外部化された視線の導入という構造が特徴だ。
本書で池田は、近年の欧米ファシズム研究を参照し、ファシズムを「個人主義・合理主義・物質主義などの近代の産物を非難し、集団主義・精神主義・国家の神話に傾倒するイデオロギー」(226頁)と定義した上で、戦時期の日本への適用を試みる(日本の左派研究者の見解を踏襲し、1931年の満州事変を戦争開始時期と見なす)。池田によれば、「日本ファシズム」とは、「ドイツやイタリアでのファシズムと同様、近代化によって破壊されかけている国家の『有機的な共同体(オーガニックコミュニティ)』の復活を掲げる二十世紀初頭のイデオロギー」を指し、「戦時中の日本がどのように近代化の影響に対抗し、伝統と純粋な日本人の精神によって結ばれた国家共同体の『再構築』を求めて民族主義に基づく全体主義を推し進め、民主主義・個人主義・自由主義を主張したアメリカやイギリスへの暴力を正当化したか」(14頁)に着目する。
「ファシズム美術は国家イデオロギーを反映したもの」(64頁)とする分析事例が、横山大観の富士、安田靫彦の中世の武士像、上村松園の美人画、東北の祭りと風習を描いた藤田嗣治の壁画である。
横山大観は、中国伝来の水墨山水画から距離を置き、近代以前の文学的背景や土着信仰から切り離された、「日本」の象徴としての富士にフォーカスを絞り、太陽や桜など同様の象徴的モチーフとのモンタージュによって新たな視覚言語をつくり上げた(ただし、「富士=日本の象徴」は、開国以降の欧米人によるオリエンタリズムの眼差しの内面化であるというねじれた構造がある)。安田靫彦の《黄瀬川陣》(1940-41)は、平家打倒のため、兄・頼朝の元に駆けつけた義経という「兄弟の結束」を描くなかに、(同じく近代以降に「創造」された)「死に殉じる武士道」と「儒教的な上下関係」を暗示する。
上村松園の美人画は、「質素倹約に励む女性」「夫と息子を天皇に捧げた女性」を描くことで、戦時中の模範的な日本人女性像を示す。また、浮世絵を参照しつつ性的要素を排除した松園について、「先駆的なフェミニスト」ではなく、「西洋に染まった性的なモガ」への反動として理解すべきだという主張も興味深い。「戦争協力」を通した公的領域への女性の参入は、「女性と国家は戦争を通してそれぞれの目標を達成するという共生的な関係を発展させた」(190頁)からだ。
東北の祭りと風習を描いた藤田嗣治の壁画《秋田の行事》(1937)は、柳宗悦の民芸や柳田國男の民俗学と呼応しつつ、「近代化に染まっていない、最も純粋で真正の日本」の表象として「東北」を特権視する。
こうした事例を通して本書は、国粋主義的な日本賛美、日本人特有とされる精神性、文化的真正性、(欧米やアジア諸国に対する)優越性、近代以前の美意識の「再発見」、「伝統」との繋がりの回復といった諸相を明らかにしていく。
本書の意義はまず、戦闘や兵士を写実的に大画面で描いた洋画中心の「戦争画(作戦記録画)」ではなく、見えにくい領域に光を当てることで、より包括的・多角的に戦争と美術を考える視座を開くことにある。「純粋な美の領域」か「政治的プロパガンダ」かに二分するのではなく、狭義の「戦争画」はファシズムの部分的要素であり、非戦闘画もまた同じイデオロギーのなかで機能していたと本書は指摘する。
さらに、本書のより広範な射程は、ファシズム・ナショナリズムとモダニズムとの結託・共犯関係である。「伝統的」とされる様式やモチーフを採用しつつ、「物語性や装飾性の排除」「写真的視覚」「平面性や幾何学性の強調」「構図の簡素化」といった(視覚様式としての)モダニズム受容により、刷新と近代化を図った日本画が、体制に与すること。「既存の体制や権威への異議申し立て」としてのモダニズムはファシズムによって消滅したという通念を覆し、モダニズムの美学が真逆の反動的政治学に「収用」(アプロプリエーション)され、変容して存在し続けたと筆者は指摘する。また、台湾や朝鮮といった帝国内部の植民地と同様、東北を「近代化されていない周縁」と眼差す構造は、モダニズムと表裏一体のオリエンタリズムや植民地主義を浮き彫りにする。西洋近代化の推進としての領土獲得は、その外部に「遅れた/純粋な文化の残っている」地域をつねに生み出し、これから帝国の支配領域に組み込まれるべき、未来完了形の領土として欲望するからだ。本書はそうした、「伝統」「古典」がモダニズムを取り込み、あるいは逆にモダニズムが「近代以前」を欲望しながら、国粋的なファシズムと結託していく輻輳的な回路を浮き彫りにしている。
2020/05/30(土)(高嶋慈)