artscapeレビュー

デザインに関するレビュー/プレビュー

新世代アーティスト展 in Kawasaki「セカイがハンテンし、テイク」

会期:2013/07/20~2013/09/29

川崎市市民ミュージアム[神奈川県]

今年25周年を迎える川崎市市民ミュージアム。「セカイがハンテンし、テイク」展は、8人(組)の若手アーティストをフィーチャーし、「現代のコミュニケーションのありようを考える」をテーマとした新作の企画展である。しかし、「現代のコミュニケーション」を主題としながらも、興味深いことにこの十数年に登場した新しいメディアを全面に出した作品はほとんどない。
 高田安規子・政子の作品はミニチュア。豆本、あるいはミュージアムのある等々力公園内各所に配置された小さなツリーハウス、サッカー場のネットやプールのフェンスに仕込まれたミニチュアのネットやフェンス[図1]は、普段は意識しないモノのスケール感を意識にのぼらせる仕掛け。藤村豪・内野清香《猫は歩き、私たちは出会う》は、川崎市内の小学生約7万人を巻き込んだプロジェクト。子どもたちに地元で見かけた猫について記述してもらい、集まった大量のデータを地域や猫の色、模様などによって分類する。子どもたちはそれぞれが別々の猫について書いているようにみえるが、分類と整理によって同じ猫と思われるものの姿が浮かび上がってくる。安西剛《Somewhere in the Ballpark》[図2]は、なんらかの出来事で私たちの時代と断絶してしまった未来を舞台にした映像作品。野球場(ロケ地は等々力公園内の球場だ)で掘り出されたプラスチック製品を手にしたふたりの男がその道具に名前を付け、用途を議論する。冨永昌敬・土田環《20世紀の事故》[図3]は、一組の男女の姿を、異なる三つの視点、あるいは少しずれた三つの時間軸でとらえ、それを三つの画面で同時に映し出す映像作品。狭い家の中で互いを探しながらもすれ違う二人。タイミングがずれることによって生じる異なる結末あるいは悲劇が描かれる。北上伸江《RGB Home Video》は作者の兄弟を写したホームビデオの映像をRGBの3色に分解し、一コマ一コマを手書きでトレース、着彩し、それを再び重ね合わせてつくりあげられた映像。元の映像のディティールは消え、作者の記憶の中の映像を覗き込んでいるかのようなイメージが現われる。中村土光《誰かのドライブインシアター2013》[図4]は、川崎市内のタクシー運転手たちに「誰か」の物語を語ってもらうというドキュメンタリーの形式を借りた作品。鑑賞者は会場に運び込まれた実物のタクシーに乗り、スクリーンに映し出された映像を鑑賞する。彼らが語る「誰か」は、男性であったり女性であったり、家族であったり恋人であったりするようなのだが、語られる言葉の輪郭は曖昧として掴みどころがない。結局のところ、私たちはそれぞれが自分自身がつくりあげたイメージのなかで、彼らの語る人物を見ていることに気づかされる。aricoco《Runningway Furoshiki Project》は、布などでできた移動可能なシェルターを使ったインスタレーション。録画映像によれば、コクーン(繭)に納まった人々が緊急を伝えるサイレンとともに繭を畳んでガスマスクを身につけて集団で避難を始める。繭には身を守るものというイメージがあったが、それすらも安全な場所ではないということだろうか。ラファエル・ローゼンダールは、ウェブ上にインタラクティブな作品をつくり、それをドメイン名ごと販売しているアーティスト。その作品はインターネットを通じて世界中からアクセスできる。《looking at something.com》のモチーフは雨。トラックパッドを操作すると、雷鳴が轟き雨が降り、あるいは空が晴れて小鳥がさえずる。人間がコントロールするバーチャルな自然を極めてミニマルなかたちで表現している。
 出品されている作品の多くに共通してみることができるのは「ズレ」である。スケールのズレ、時間のズレ、タイミングのズレ……。本来あるべき形に対して少しずれた姿を示すことで、日頃私たちが無意識に捕らえているものの形を意識にのぼらせる。そしてもうひとつは、コミュニケーションの「不在」。《20世紀の事故》では一声かければ、二人はすれ違うことがなく、悲劇も起きなかったかもしれない。タクシーの運転手さんに質問をすれば、彼らが語る人物ももっとはっきりしたイメージとしてとらえられるかも知れない。私たちは同じものを見ていたとしても、それが同じように見えているとは限らない。違うものについて語っているつもりでも、じつは同じものについての話かも知れない。コミュニケーションをとっているつもりでも、そこにはズレがあるかも知れない。作品の前でもどかしさを覚えるとき、じつはどのようなメディアを媒介としていてもコミュニケーションの本質は変わらないことに気づかされる。ここにあるのは、直接的であれ、ものやメディアを介した間接的なものであれ、コミュニケーションをどのように表現しうるかについてのケーススタディである。
 同期間にはアートギャラリーで二つの展覧会も開催されていた。「夜が明ける頃」(アートギャラリー1・2)は、巨匠と呼ばれる写真家、ポスター作家たちが、アーティストを目指し、まだ評価が一定していなかった若き時代の作品を紹介するもの。「柴川敏之|2000年後の今に触れる☆プロジェクト|PLANET TACTILE」(アートギャラリー3)は、2000年後に発掘された現代社会をテーマとした柴川の作品と、川崎市内の特別支援学校の生徒とのワークショップ作品。新世代のアーティストを支援するという本展示、館のテーマである「複製技術時代以降の芸術」、そして「川崎市」という地域の美術館・博物館が果たすべき役割と呼応したよい企画であった。[新川徳彦]


1──高田安規子・政子《Under Reconstruction》2013


2──安西剛《Somewhere in the Ballpark》2013


3──冨永昌敬・土田環《20世紀の事故》2013


4──中村土光《誰かのドライブインシアター2013》2013

2013/09/11(水)(SYNK)

ジリアン・ネイラー『アーツ・アンド・クラフツ運動』(川端康雄+菅靖子 訳)

発行日:2013年6月11日
発行所:みすず書房
価格:4,800円(税別)
サイズ:A5判、352頁

19世紀後半に英国で興り、西洋諸国だけでなく、東アジア、日本の民芸運動にも影響を及ぼしたデザイン運動の「アーツ・アンド・クラフツ」。基本的には、手工芸の復興を目指す運動だが、社会改革や環境保全に深く関わる社会運動でもある。近年では2008年から翌年にかけて、『生活と芸術──アーツ&クラフツ展 ウィリアム・モリスから民芸まで』と題した、同運動の国際的展開を扱った展覧会が日本でも行なわれたので、ご記憶の方も多かろう。これに関する著述としては、古典的必読書とされるG・ネイラーの著作(『アーツ・アンド・クラフツ運動──その源泉、理想、デザイン理論への影響の研究』。原著は、初版:1971, Studio Vista、第二版:1990, Trefoil Publications)が翻訳刊行された。本書のあとがきで訳者が述べるに、この著作の独自性は以下の四つ。1)アーツ・アンド・クラフツ運動が開始される前史の記述に詳しいこと。2)当時にいくつも設立された工芸団体の実践が、時代の文脈のなかで詳述されていること。3)1880年代以降の、同運動の国際的な影響と個別的展開が記述されていること。4)20世紀前半の北欧デザインの発展が、同運動の抱えた矛盾をカヴァーし、豊かな成果が見られた点について強調していること。図版も多く収録され、アーツ・アンド・クラフツの全史を知るに最適な本である。[竹内有子]

2013/09/10(土)(SYNK)

ヴィクトリア時代の室内装飾──女性たちのユートピア展

会期:2013/08/25~2013/11/19

LIXILギャラリー[大阪府]

英国・ヴィクトリア時代(1837-1901)といえば、真っ先に過剰なまでの装飾が思い浮かぶ。もちろん過剰かどうかは個人の好みの問題だが、ヴィクトリア時代の人たち、とくに女性たちの関心が室内装飾に向けられていたことに間違いはない。その背景には産業革命による中産階級の台頭と、工業化や都市化、交通手段の発達により進んだ「職住分離」があるという。つまり、これまでとは異なる「家」の概念が現われ、経済的に余裕のある中産階級の女性たちが理想の家庭(家)をつくるため、室内装飾に情熱を注いだ時代であったということだ。展覧会ではそうしたヴィクトリア時代の室内装飾が垣間見られる、写真パネル、雑誌や絵本の資料、再現コーナーなどが設けられており、当時の雰囲気を伝えている。[金相美]


展示風景


暖炉まわりの再現空間


ドールズハウス「アイビー・ロッジ」(1886)


当時の雑誌や絵本


ヴィクトリアン・タイル

2013/09/09(月)(SYNK)

artscapeレビュー /relation/e_00023124.json s 10091701

PARTY そこにいない。展

会期:2013/09/04~2013/09/28

ギンザ・グラフィック・ギャラリー[東京都]

遠い場所で起きている出来事を離れた場所で見る、聞くという行為は、ラジオやテレビという媒体でも可能であるが、その感動、驚き、悲しみの感情を、互いに離れた場所にいる視聴者同士が同時に共有することは難しい。しかし携帯電話のメール、twitterやLINEなどのサービスの登場によって、その出来事の場にいなくても、人々はそれを視聴し、互いの感想をほぼタイムラグなく共有することができるようになってきた。もはや私たちはなにかが起きているその場にいなくても、そこにいるのと同様の体験が可能である。伊藤直樹、清水幹太、中村洋基、川村真司らによって2011年に設立されたクリエイティブラボ「PARTY」は、こうした新しい技術がもたらす新しい体験を活かした仕事を多数手がけているユニットであり、何れのメンバーも数々のデザイン賞・広告賞を受賞している。「PARTY そこにいない。」展は、彼らの仕事を紹介する展覧会である。
 会場を入ってすぐ裏側の壁には、PARTYのオフィスの写真が貼られている。その前には展望台にあるような望遠鏡。覗くと、現在のPARTYのオフィスの様子が見える。オフィスに置かれたカメラと望遠鏡が連動しており、望遠鏡の向きを変えるとカメラの視界も移動するしくみである。無印良品の旅行用品「MUJI to GO」のキャンペーンを紹介するコーナーでは、キャンペーンのロケ地ホワイト・サンズで吹いている風のデータによって送風機を動かし、リアルタイムでホワイト・サンズの風を再現する。もっとも面白かったのは過去のCM作品や、NHK「テクネ 映像の教室」の映像作品を紹介するコーナー。彼らの過去の仕事はウェブサイトで見ることができるのだが、展覧会場ではそれを一風変わった方法で見せている。プロジェクターの前のリモコンの数字を押すと見たい映像を再生できるしくみ。と書くと、極めて普通の話なのだが、プロジェクターに写っているのはどこかの誰かの部屋のテレビ。展覧会場のリモコン・ボタンを押すと、その部屋の誰かのiPhoneにメールが届き、その誰かが部屋のテレビのリモコンを押して画面に写る番組を変えてくれるのだ! つまり、私がリモコンによってコントロールしているのはテレビではなく、どこかの部屋にいる誰かということになる。そして展覧会場にいる私は、どこかの部屋に設置されたテレビを写すカメラの映像を、ネットを通じて目の前のプロジェクターで見るという、デジタルなのかアナログなのかよくわからない体験をするのである。
 彼らが使用しているコンピュータやソフトウェアなどの新しいテクノロジーの変化の速度は速い。すぐに陳腐化してしまうのではないだろうか。否、伊藤直樹はメッセージを伝えるものはテクノロジーや仕組みではなく、人の心を動かすものは表現であるということを強調する★1。じっさい、伊藤の過去の仕事を見ると、「仕組み」はつねに更新されているが、身体を使うこと、皮膚で感じること、人と人とがコミュニケーションを計ること、感動を共有することといった、表現の基本は変わらない。彼らにとって、テクノロジーは「表現」に新しい体験を与える媒体、インターフェースという位置づけにあると考えられようか。[新川徳彦]

★1──伊藤直樹『「伝わる」のルール──体験でコミュニケーションをデザインする』(インプレスジャパン、2009)、188頁。

2013/09/06(金)(SYNK)

第8回 金の卵 オールスターデザインショーケース「産学協同/地域連携──現場で育て未来のチカラ」

会期:2013/08/29~2013/09/08

AXISギャラリー[東京都]

2011年、第6回のテーマは「日常/非常 ハイブリッド型デザインのすすめ」。2012年は「スマートライフ──エネルギー再考」。前2回が社会的な課題の発見と解決をテーマとしていたのに対して、今年は「産学協同/地域連携」。社会との関わりが限定的なうえ、なにが課題となるのかは企業・製品によって異なるために、出品作には互いの連関がない。思考のプロセスも比較しづらく、これでは特定の企業が主催する学生向けデザインコンペのほうが面白いのではないだろうか。昨年と比べて良かった点は、来場者が気に入った作品に貼る丸いシールに、あらかじめ作品番号が記されていたこと。昨年の方式では同じ作品に一人が何枚もシールを貼る可能性があった。とはいえ、フェイスブックの「いいね!」と同様、作品の良さよりもお友達の多さを競っている印象は否めない。[新川徳彦]

2013/09/06(金)(SYNK)