artscapeレビュー
デザインに関するレビュー/プレビュー
あいちトリエンナーレ2016 虹のキャラヴァンサライ 創造する人間の旅
会期:2016/08/11~2016/10/23
愛知芸術文化センター、名古屋市美術館、名古屋・豊橋・岡崎のまちなか[愛知県]
3回目を迎えた「あいちトリエンナーレ」。芸術監督の港千尋が掲げたテーマは「虹のキャラヴァンサライ」だ。キャラバンサライはペルシャ語で「隊商宿」を意味する。虹は「多様性」の言い換えであろう。つまり、世界各国の多様な文化的・地理的・宗教的背景を持つアーティスト(虹)が旅をして愛知県(キャラヴァンサライ)に集い、新たな創造の芽が育まれる、と解釈できる。美しいがややドリーミーではではないか。取材前はそう感じていた。しかし、名古屋、豊橋、岡崎での展示を見るうち、このテーマが現在の不穏な国際情勢(テロ、紛争、難民問題、不寛容など)を反映した切実なメッセージだということに気付いた。一見ドリーミーを装って、じつはきわめて硬派な国際芸術祭。それが「あいちトリエンナーレ2016」なのである。3エリアを比較すると、規模の大きさでは圧倒的に名古屋だが、もっともテーマを体現していたのは豊橋だったと思う。岡崎も、石原邸と岡崎シビコは見応えがあった。名古屋だけを見て帰るつもりの人には、ぜひ豊橋と岡崎にも足を運びなさいと申し上げたい。また名古屋の名古屋市美術館の展示は収まりが良すぎて、おとなしい印象を与えた。国際芸術祭なのだから、もっとはっちゃけても良かったと思う。
2016/08/11(木)・2016/08/17(水)(小吹隆文)
ポール・スミス展 HELLO, MY NAME IS PAUL SMITH
会期:2016/07/27~2016/08/23
上野の森美術館[東京都]
2013年にロンドン、デザイン・ミュージアムで開幕した世界巡回展の東京展。日本ではすでに京都で開催され(京都国立近代美術館、2016/6/4~7/18)、このあと名古屋に巡回する(松坂屋美術館、2016/9/11~10/16)。
展示はポール・スミスの仕事そのものよりも、ポールの世界観、コレクションが生まれる場を見せる構成になっている。東京会場の最初の展示室は「アートウォール」。著名なアーティストの作品から、家族や友人、ファンから贈られたものまで、ポールが10代の頃から集めているという絵画や写真のなかから選ばれた約500点が壁を埋め尽くしている。なかには、ネットでジョーク写真として見かけたことがある画像のプリントもあり、どの作品も同種のシンプルなフレームに収められている。この展示が語るのは、作品のマーケットでの価値とは無関係に、ポールにとってのインスピレーション源としてこれらすべてがフラット、等価だということだろう。さまざまなオブジェが混沌と溢れるポールのオフィス、デザインスタジオの再現展示からも同様の印象を受ける。常にカメラを持ち歩いているというポールが撮影した写真による映像インスタレーション、他メーカーとのコラボレーション、一つひとつコンセプトが異なるというショップデザインが紹介されたあと、最後にファッション・ブランドとしてのポール・スミスの仕事、ショウの映像の部屋に至る。
この展覧会はデザイン・ミュージアムでは過去最多の入場者を記録したという。東京会場も若い人たちでいっぱいだった。会場は写真撮影自由。来場者には展覧会のイメージカラーであるピンクのイヤホンが配られ、スマートホンで無料の音声ガイドを聞くことができる。ポール・スミスという人物そしてブランドの世界観を伝える仕掛けとして、非常に成功していると思う。他方で、具体的なデザインのプロセスは曖昧だ。ポールは正規のデザイン教育を受けていない。彼はスケッチを描かない。自分は言葉でデザインするのだと語っている。ということは、誰か他のデザイナーたちがポールの世界観を共有し、彼の言葉を具体的な色や形に落とし込んでいるはずだ。再現されたスタジオの様子からその片鱗はうかがわれる。しかし他の人物の存在はほとんど語られない。世界約70の国と地域で展開するブランドに成長した現在でも、1970年にノッティンガムにオープンした最初の小さなショップと同様に、ここにはポールしかいない。ブランドとしてのポール・スミスは人物としてのポール・スミスと常にイコールなのだ。展覧会が見せているものと見せていないもの。その双方でブランドの神話はつくられている。[新川徳彦]
2016/08/10(水)(SYNK)
アール・ヌーヴォーの装飾陶器
会期:2016/07/06~2016/08/31
三井記念美術館[東京都]
アール・ヌーヴォーの作家としてすぐに名前が浮かぶのは、エミール・ガレやアルフォンス・ミュシャ。しかし、アール・ヌーヴォーが19世紀末から20世紀初頭の時代の様式の名称である以上、そこにはさまざまなジャンルの工芸、作家や工房が関わっている。本展はその中でもフランスやドイツ、北欧の名窯によるアール・ヌーヴォー様式の多彩な磁器に焦点を当てるほか、西洋から影響を受けた日本のアール・ヌーヴォーの陶磁も紹介している。
ヨーロッパ名窯のアール・ヌーヴォー様式の磁器を総合的に紹介する展覧会は日本初なのだそう。アール・ヌーヴォーの展覧会は頻繁に開かれている印象があるので、これはとても意外だった。立花昭・岐阜県現代陶磁美術館学芸員の解説に依れば、特定の作家の仕事というよりもメーカー(窯)が開発の中心となる磁器は、主に作家・デザイナーを中心として構成される日本の展覧会において体系的に紹介されにくかったという事情を指摘している。もちろん、メーカーの仕事であっても個々の作品にはデザイナーが存在するし、ガレの作品にしてもガレはデザインのみで、実際の制作は工房の職人が担っていた。工房や窯の規模の大小はあっても、作品に注目する限り作家とメーカー(窯)の関係にはそれほどの違いはない。それでも「陶磁器においてメーカーに着目するのは、……この時期の主要な各メーカーに在籍した化学者らによって釉下彩などの技法が完成にいたり、その組織力を生かして個人や小規模な工房では成し得ないような、新たな技法を用いた出色のデザインによる作品が生み出されていた例が多分にあったためである」(本展図録、6頁)。
ここに付け加えるとすれば、メーカー(窯)や工房の歴史と設立主体の違いが、展覧会における取り上げられ方の違いに影響しているだろうという点である。ガレやドーム兄弟のガラス工房が設立されたのは19世紀後半。それに対して、マイセンやセーブルが設立されたのは18世紀前半、KPMベルリンやロイヤル・コペンハーゲンは18世紀後半。これらの窯はアール・ヌーヴォーの時代よりも100年以上前から操業し、また設立には王室が深くかかわっている。ガレやドーム兄弟の工房は民間企業でほぼ一代で事業を終えているのに対して、本展で取り上げられているメーカーはいずれも(途中で経営主体が代わったり、他のメーカーと合併しているものもあるが)現存している。けっしてアール・ヌーヴォー様式のメーカー(窯)という訳ではなく、長期に渡る経営において当然のことながら製品のスタイルは時代によって変遷してきた。なのでメーカーという視点を取り込んでも、それだけでは「アール・ヌーヴォー様式の磁器」という枠組みに落とし込むのはやや強引である。しかし、本展が上手くまとまっているのは、釉下彩など新しい技術に着目することで、様式に留まらない同時代性を見出しているためだろう。そしてこの技術と様式の結合が日本のアール・ヌーヴォー磁器の完成に影響していることを示しているところ、19世紀末から20世紀初頭の陶磁器における東西交流にとても興味深い視点を提供している。[新川徳彦]
2016/08/10(水)(SYNK)
土木展
会期:2016/06/24~2016/09/25
21_21 DESIGN SIGHT[東京都]
残念な展覧会だった。しかし残念な理由はおそらく筆者が勝手に期待していた内容と違ったからであって、企画の問題ではないのだろう。なにしろネットで見る限り、この展覧会はすこぶる評判がよいのだから。いや実際、この展覧会が楽しい展覧会であることには異論はない。インタラクティブなしかけ、参加型の作品も多数あり、一人よりも二人、あるいはグループで訪れればより楽しめる。そのあたりは、とても21_21らしい企画と言ってよい。
すでに本展については福住廉が「物質の忘却と参加体験の強制」と批判している。ここには「土木の世界の物質性」がない。福住が「もし、あの広大な会場に重機のひとつでも展示されていたら、もしあの無機質な展示空間の床に底が見えないほどの暗い穴がひとつでも穿たれていたら、本展の印象は一変していたにちがいない」と書いているとおり、重機のイラストではなく実物を(せめて巨大なタイヤを)、消波ブロックのひとつふたつ、土木のスケールの非日常を体感できるようなしかけが欲しかった。とはいえ、この会場、3ヵ月の会期で出来ることは限られていたと思う。土木のリアルなスケールを体感したいのであれば、首都圏外郭放水路の見学会に行くとよい。あるいは本物の下水幹線に入れる小平市ふれあい下水道館もお勧めの施設だ。ダムを見に行くのもよいし、身近なところでは地下鉄や高速道路もまた土木技術の結晶だ。なにも展覧会に足を運ばなくても、当然のことながら街には土木が溢れている。だから、容易に実物を持ってくることができない会期限定の展覧会が福住が批判するところの「日常生活にあふれているメディア」に頼っていたとしても、そのこと自体はやむを得ない。問題はリアルなものを非リアルなメディアに変換しておきながら、その非リアルなメディアがリアルを再現できていないところだ。展示作品はばらばらで、土木というキーワードで括られている以上のものではない。土木との関連が強引に思われるものもある。たとえば、Rhizomatiks Researchの《Perfume Music Player》は、人々の行動分析を目的として情報を収集するアプリではないだろう(アプリ・ダウンロードの際にそのような説明はない)。土木に関連する映像や音をサンプリングしてボレロに仕立てた《土木オーケストラ》には「土木が造られていく現場を想像することができるでしょう」とあるが、筆者の想像力の貧困さを確認する以上のものではなかった。ダム建設の記録映画など、世の中にはすばらしい歴史的な土木ドキュメンタリーが多数存在しているのに、なぜ生のままを見せてくれないのだろう。展示では土木の目的、歴史についてはほとんど触れられていない。構造に関連する展示はあるが、技術の話はない。土木の現場を支えるヒトについては菊池茂夫の写真があるのみ。どの展示物も個々には優れていて面白く楽しめるのだが、土木というキーワードに対してあまりに抽象的で、その理解にはほど遠い。
しかしながら、このような印象は博物館で土木に関する展覧会が企画されたらこういう視点があるだろうという、筆者の勝手な思い込みによるものかもしれない。会場を一巡し、展覧会タイトルやステートメントもすべて忘れて、先入観を抜きにして、純粋に出展作品が何を語っているのかを考えてみると、これは土木を愛する人々による文化祭なのだと思い当たる。その愛がいちばん分かりやすく示されているのはご飯をダムにカレーを貯水湖に見立てた《ダムカレー》とその解説映像だろう。出展者が土木のさまざまな鑑賞の仕方、愛し方を持ち寄った企画なのだと考えると、本展に生の土木がないことにも納得がいく。ディレクターズ・メッセージには「縁の下の力持ち的な"見えない土木"を、楽しく美しくヴィジュアライズしたい」とある。この展覧会は身近にありながらもなかなか意識されない土木に気づいてもらうための試みであって、ここに土木やその前提となるインフラのリアルな課題や歴史的視点、批評が欠けているのは、そもそもそれを目的としていないからなのだ 。[新川徳彦]
2016/08/08(月)(SYNK)
ヨコオ・マニアリスム vol.1
会期:2016/08/06~2016/11/27
横尾忠則現代美術館[兵庫県]
横尾忠則の作品のみならず、本人が創作と記録のために保管してきた膨大な資料を預かり、調査を進めている横尾忠則現代美術館。その成果はこれまでの企画展にも反映されてきたが、より直接的にアーカイブ資料と作品の関係に踏み込んだのが本展である。キーとなるのは横尾が1960年代から書き続けてきた日記で、作品との関連がうかがえるスケッチや写真のある見開きをコピーして、作品とともに展示している。もちろん実物の日記を並べたコーナーもある。また、展示室の中にアーカイブ資料の調査現場を移設して、美術館業務の一端を公開する斬新なアイデアも。ほかには、制作の副産物として生じた抽象画のようなパレット、郵便にまつわる作品、猫とモーツァルトと涅槃像をテーマにした作品、ビートルズにまつわる作品と資料も展示された。全体を通して、横尾が作品を生み出す過程や、発想の源が生々しく伝わってくるのが面白い。横尾自身も「発見の多い展覧会」と述べたほどだ。本展は末尾に「vol.1」とあるように、調査の進展に応じて今後も継続される予定。今まで本人ですら気付かなかった横尾忠則像を提示してくれる可能性があり、今後の展開が楽しみだ。
2016/08/05(金)(小吹隆文)