artscapeレビュー

その他のジャンルに関するレビュー/プレビュー

国宝 一遍聖繪

会期:2015/10/10~2015/12/14

遊行寺宝物館[神奈川県]

《一遍聖繪》とは、時宗の宗祖、一遍上人(1239-1289)の行状を描いた鎌倉時代の絵巻。国内最古の絹本著色絵巻で、国宝に指定された名品である。今回の展覧会は、これを所蔵する時宗総本山清浄光寺の遊行寺宝物館が、その全十二巻を一般公開したもの。一巻の全長がおよそ10メートルだから、全巻を合わせると、およそ130メートル。それらが決して広いとは言えない会場に一挙に展示された。
「南無阿弥陀仏」。一遍上人は、この六文字による念仏を唱えるだけで誰もが往生を遂げることができると説きながら全国を行脚した。《一遍聖繪》には、その旅の道程が四季それぞれで移り変わる風景とともに描かれている。詞書は高弟の聖戒が、絵は法眼円伊が、そして外題は藤原経尹が、それぞれ手がけたとされている。
注目したいのは、十二巻にも及ぶ長大な構成のなかで、俯瞰的な視点による広がりと奥行きのある空間表現を一貫させている一方で、人物表現の密度によって一遍上人の遊行の盛衰を巧みに表わしているように見える点である。旅の始まりは孤独だったが、徐々に同行者が増えてゆき、やがて一遍上人を先頭に列を成すほどの一団となる。
その人物表現の沸点は、おそらく踊り念仏を描いた場面だろう。その始まりは第四巻第五段。そこには、信州は小田切の里に入った一遍上人が、とある武士の館の縁側に立ちながら、朱塗の鉢を叩いて踊る様子が描かれている。一遍上人が視線を向ける庭には3人の僧が同じように鉢を叩きながら踊り、その周囲を取り巻いた民衆も身体を大きく揺らしているのがわかる。通説では盆おどりの起源は踊り念仏にあるとされているが、一遍上人の念仏が「踊り」によって人々を魅了しながら広まっていったことは、ほぼ間違いないのだろう。
その踊り念仏の熱気が最高潮を迎えるのが第六巻第一段である。一遍上人とその高弟たちは、舞台に上がり、胸元に下げた鉦を打ち鳴らしながら激しく身体を動かしている。舞台の下では、群衆がその踊りを見上げているから、この時期、踊り念仏は早くもある種の見世物と化していたのである。
屋外でゲリラ的に実行される身体表現から舞台上で期待されて催されるパフォーマンスへ。一遍上人の踊り念仏のなかに、近代社会における芸術表現が宿命的に陥る隘路を見出すことは難しくない。けれども、その一方で注目したいのは、その群衆のなかに両手を合わせて拝んでいるようにも見える者が少なくないという事実である。踊り念仏がたんに身体表現の高揚感を醸し出す見世物だけでなく、ある種の礼拝の対象にもなっていたとすれば、そこにはベンヤミンが言うところの「展示的価値」と「礼拝的価値」が同居していたことになる。
だが、これを「同居」とみなす見方こそ、近代的なバイアスがかかっているかもしれない。そもそも前近代社会においては、双方は分かちがたいものとして一体化していたと考えられるからだ。物事を明確に峻別する近代的思考法によれば、近代の展示的価値を自立させるために前近代の礼拝的な価値は切り離された。しかし《一遍聖繪》が視覚化しているように、そもそも双方は表裏一体の関係にあったはずだ。しかも、そのような価値のありようは現代美術にも確かに及んでいる。
よく知られているように、1970年の大阪万博では、多くの来場者が岡本太郎による《太陽の塔》に両手を合わせて拝んでいた。また、菊畑茂久馬の《奴隷系図(貨幣)》(1961)にも、来場者が次々と賽銭を投げ入れたため、制作に使用した五円玉の総数が、展示が終わった後、増えていたという逸話もある。つまり、私たちは美術を純然たる展示的価値として受容することが甚だしく苦手であり、それゆえ、いかなる造形であれ、そこにおのずと礼拝的価値を見出してしまうという癖があるのだ。これを、例えば切腹のような前近代的な悪習として退けることは、私たちの身体感覚からすると、あまりにも不自然である。優れた現代美術の作品が展示的価値と礼拝的価値をともに内蔵しているように、戦後美術史は礼拝性によって再編成されうるのではないか。《一遍聖繪》は、みごとなまでに、その契機を示している。

2015/11/13(金)(福住廉)

[世界を変えた書物] 展 大阪展

会期:2015/11/06~2015/11/23

グランフロント大阪北館 ナレッジキャピタル イベントラボ[大阪府]

金沢工業大学が所蔵する理数工学系の歴史的名著の初版本や、科学者の論文、書簡など130点以上を紹介。会場構成は、アンティークな図書館を模した導入部「知の壁」、中心部に目次のオブジェを据え、そこから枝のように展示が広がるメイン展示の「知の森」、エンディングのインスタレーション「知の変容」並びに映像ブースであった。筆者は理系が苦手なので書物の内容は理解できないが、会場に満ちている「知の殿堂」的雰囲気や、人類が脈々と受け継ぎ発展させてきた知の歴史には大いに魅了された。また、書籍自体もオブジェとして美しかった。同コレクションは、今後一大学の枠を超えて国家的な財産になるだろう。散逸や海外流出が起こらないことを切に願う。また、今後も学外で展示する機会を設けてもらえればありがたい。

2015/11/05(木)(小吹隆文)

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画家の詩、詩人の絵──絵は詩のごとく、詩は絵のごとく

会期:2015/09/19~2015/11/08

平塚市美術館[神奈川県]

表題のとおり、絵画と詩の関係性を探る展覧会。画家からは萬鐡五郎や松本竣介、田島征三、小林孝亘ら、詩人からは高村光太郎、萩原朔太郎、宮沢賢治、稲垣足穂、北園克衛、瀧口修造ら、63名による絵画と詩があわせて展示された。
注目したのは、画家の詩。詩人のそれが全般的にいかにも難解で長大な傾向があったのとは対照的に、画家の詩は軒並み簡潔明瞭で、そうでありながら言葉の奥行きと広がりを感じさせるものが多かったからだ。例えば鴻池朋子は「あるひ洪水がきて すべてを流してしまう 地球は変化こそが 本性」と書いたが、それは過去の歴史としても読めるし、未来の予言としても受け止めることができる、非常に神話的な詩である。また、村山槐多の詩は「走る走る走る 黄金の小僧ただ一人 入日の中を走る、走る走る ぴかぴかとくらくらと 入日の中へとぶ様に走る走る 走れ小僧 金の小僧 走る走る走る 走れ金の小僧」というもの。猛烈なスピード感とほとばしる熱情、そしてそれらの背後に潜む焦燥感は、槐多の絵画にも見出すことができる若々しい詩情である。
絵と言葉の関係性は根深い。色彩や線、形態など絵画の形式性を重視するフォーマリズム批評の価値基準からすると、文字による物語性や文学性は排除の対象にほかならなかった。文字は絵画の自立性を損なうと考えられたからだ。だからこそ文字は絵画の画面から周到に取り除かれ、結果として挿絵やイラストレーションを本画より下位に置く序列的な構造が形成された。だが、本展で示されたのは、そのような文字が絵画の存立を脅かす脅威ではなく、むしろれっきとしたひとつのメディウムであるという厳然たる事実である。
そのもっとも明示的な例証が、O JUNの作品だったように思う。展示された作品は、階段を降りてくる女の子を描いた《オリルコ》(2013)。最低限の線によって構成された、いかにもO JUNらしい絵画だが、そこにあわせて展示された詩は、「のうちゃん あした ひあくまんえんもてこい」。この詩は、鴻池や槐多のように絵画と直接的に照応しているようには思えないが、だからといってまったく無関係というわけでもないように思われる。言い換えれば、詩と絵画が同じ焦点を共有することで同心円状のイメージを生成するわけではないが、それぞれ異なる中心点をもちながら、しかしそれでもなお、結果として楕円状の輪郭が描き出されているような気がするのだ。
イメージを豊かにするためには、絵画であれ詩であれ、ヴィジュアルであれテキストであれ、それぞれのメディウムに備えられた固有の特性を存分に発揮するのがいい。センスのいい若いアーティストたちは、すでにこのことを知っている。本展の行間には、フォーマリズムの残滓をなかなか振りほどくことができない現代美術への根本的な問題提起が隠されていたのではないか。

2015/11/04(水)(福住廉)

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障害(仮)

会期:2015/09/12~2015/12/13

鞆の津ミュージアム[広島県]

同館のキュレーター、櫛野展正は、現在のところ日本でもっとも野心的かつ挑戦的な企画を打ち出している学芸員である。死刑囚、ヤンキー、老人など、従来の「障がい者」にとどまらない、さまざまなアウトサイダーたちによる造形や表現を紹介してきた。「アウトサイダー・アート」や「アール・ブリュット」というより、むしろ「美術」そのものの外縁を拡張した功績は非常に大きい。
今回の展覧会は、「障害(仮)」。末尾の「(仮)」に、櫛野の批評的な問題提起が込められている。それは、障がい者によるアウトサイダー・アートやアール・ブリュットが抱え込む純粋で無垢な性質に対する根本的な疑いである。例えば山下清の作品がそうであるように、アウトサイダー・アートやアール・ブリュットの作品には、そのような純粋性によって語られることが非常に多い。アール・ブリュットの生みの親であるデュビュッフェも、精神障がい者による表現行為のなかに純粋無垢な精神性を求めていたことは間違いない。けれどもデュビュッフェの前提には、西洋近代が標榜していた普遍的な美の概念への対抗心という一面があった。その純粋性は、いわば敵対関係に位置づけられていたのだ。
逆に言えば、そのような敵対性を見失った純粋性は、個性の無批判な賞揚や優劣を退ける批評嫌悪に結びつきやすい。言うまでもなく、健常者による作品が玉石混交であるのと同じように、障がい者による作品に優れたものとそうでないものがあるのは当然だ。障がい者という属性が自動的に作品の質を底上げすることにはならないし、なってはならない。アウトサイダー・アートやアール・ブリュットが美術の現場に定着するにつれ、それらの純粋性はいつのまにか非常に偏ったものになってしまったのである。
そのような偏りを是正するという意味で、アウトサイダー・アートやアール・ブリュットという概念のリハビリテーションを試みたのが本展である。参加したのは、「アイ・プロジェクト」で知られるチンパンジーのアイをはじめ、好きな施設職員の痕跡が残るあらゆる物を収集している武田憲昌、フェルトや毛糸などで食品サンプルを制作している三浦和香子など14名。基本的にはなんらかの障害をもつ人々が中心だが、現代美術から会田誠と百瀬文を招聘しているところが大きな特徴である。というのも、このような展覧会の構成は、同館でも開催した全国規模の巡回展「TURN」展と相似形をなしているからだ。それゆえ今回の企画展は、前述したような障がい者をめぐる偏った純粋性を再生産しかねない「TURN」展に対する櫛野展正からの批判的応答と言ってよい。
とりわけ注目したのが、小林一緒とあそどっぐ。小林はもともと調理師として働いていたが、アルコール性神経炎を患い、歩行困難となる。以来、自宅で毎日の食事を非常に緻密に描いたイラストレーションを描き続けている。展示されたおびただしい数の作品を見ると、小林の執着心のある視線がひとつひとつの食材はおろか、パッケージやラベルのデザインにまで及んでいることがわかる。あまりにも細かい場合はシールをそのまま転載したり、「めくり」を入れて紙面を重層化するなど工夫が凝らされている。
小林の作品が面白いのは、それが食事とその記録という主従関係をみずから反転させているように見えるからだ。本来であれば食事の記録としてのイラストレーションは、あくまでも食事という出来事の副産物だった。けれども小林のイラストレーションは非常に緻密に描き込まれるため、多大な時間を費やすそれが食事そのものを圧倒しているようにも見える。食事のイラストからイラストのための食事へ。そのような反転が起こりうるほど、小林にとってのイラストレーションは彼自身の生と分かちがたく結びついているのである。
あそどっぐは熊本県在住のコメディアン。脊髄性筋萎縮症をもつため顔と指をわずかにしか動かすことができない。24時間介助を必要とする寝たきりだが、みずからの障害をネタにした自虐的なコントをYoutubeなどで精力的に発表している。むろん、その笑いは自身の身を削るという意味で、ブラック・ユーモアである。けれども本展で展示された新作のコントを見ると、彼のネタが非常に緻密に練り上げられた構成であることがよくわかる。ストレッチャーや布団の上に身体を横たえているため、画面的にはほとんど動きがない。しかし物語の構成と言葉の選定を研ぎ澄ますことによって見事にオチまで鑑賞者を導くのだ。彼のある意味不自由な身体によるネタと比べると、いわゆるお笑い芸人の芸がいかに無駄な身体の動きと不必要な言葉によって飾られていることか。あそどっぐの芸の醍醐味は自虐的なネタによる障害問題の焦点化だけではなく、必要最低限の身体と言葉によるミニマル・コメディーを追究している点にあるのだ。
2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて、東京都はアール・ブリュットの拠点を整備することを明言している。つまりアウトサイダー・アートやアール・ブリュットは、この先さらなる再編成の過程に巻き込まれると考えてよい。そのとき、「社会包摂」という名のもとで、いったい何が排除されるのか。

2015/11/03(火)(福住廉)

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プレビュー:「咲くやこの花芸術祭2015」より、現代美術の瀧弘子と文楽のインスタレーション「曾根崎心中」天神森の段

会期:2015/11/27

大阪市中央公会堂[大阪府]

将来の大阪を担うべき概ね40歳以下の芸術家に贈られる「咲くやこの花賞」。対象ジャンルは、「美術」「音楽」「演劇・舞踊」「大衆芸能」「文芸その他」の5部門で、これまでの受賞者は160組を超える。その受賞者たちが受賞翌年に成果を披露するのが「咲くやこの花芸術祭」だ。筆者が注目しているのは「美術」の瀧弘子。彼女は2012年に成安造形大学を卒業したばかりの新鋭だが、すでに多くの活動歴を持ち、美術関係者からの評価も高い。同祭では、絵画、映像、鏡などを駆使してポートレイト作品を投影する《写身(うつしみ)》を館内の特別室など各所に展示する(11/27~29)ほか、11月27日には文楽と共演して「曾根崎心中」より天神森の段を上演する。特に文楽との共演は、彼女にとって飛躍の契機となるだろう。どのような舞台を見せてくれるのか、期待が大きく膨らむ。

「咲くやこの花芸術祭2015」公式サイト http://www.sakuya-konohana.com/sakuya2015/

2015/10/20(火)(小吹隆文)