artscapeレビュー

その他のジャンルに関するレビュー/プレビュー

「現美新幹線」試乗会

上越新幹線の越後湯沢駅から終点の新潟駅まで、現代美術で武装した新幹線が走るという夢(悪夢?)のような本当の話。車体の外装は蜷川実花が撮影した長岡の花火。景気よく火花が散って、これで事故など起こしたらシャレにならない。6両の車両には7人のアーティストが作品を展示している、というより、車内を作品化しているというべきか。いずれも新潟県や新幹線をテーマにした作品だが、新潟市の「水と土の芸術祭」のために撮った旧作をアクリルで固定した石川直樹や、沿線の風景を描いた絵をコピー?した古武家賢太郎の作品にはちょっとガッカリ。また、シートにデザインした松本尚や鏡面で抽象構成した小牟田悠介は車内インテリアと同化してしまっている。おもしろかったのは、カラフルな布切れを上下対称に組み合わせて宙づりにした荒神明香の作品。新潟県とも新幹線とも直接関係ないけど、地上ではありえない振動により微妙に揺れるという予想外の効果を見せている。高速で走る密閉空間に展示するのだから制約は多いとは思うけど、揺れる、窓の外の風景が変わる、半分近くがトンネル、展示空間(車両)が細長い、といった美術館やギャラリーにはない特質を作品に採り込めれば、「超特急アート」として名が残るだろう。どうでもいいけど、現美(ゲンビ)というネーミングはちょっと古くさくないか? 6月まで土日のみ、1日3往復運行。7月以降の情報はウェブサイトで確認を。

2016/04/12(火)(村田真)

南京大虐殺紀念館

[中国、南京]

南京大虐殺紀念館を見学した。人骨の発掘現場を囲む第1期は、ランドスケープ的な空間で物静かである。現在、その両サイドに第2期の拡張エリアが継ぎ足されており、導入部はリベスキンド風の鋭角的なデザインによる地下の空間において大量の資料を展示する。悲劇からその克服という流れは、四川大地震の記念館の構成とも似ている。さらに、細い柱が林立する第3期の増築エリアを建設中だった。ここも入場無料であり、多くの中国人観光客が集まって、ひっきりなしに人の波が続いていた。動員+メモリアルが融合した場である。

2016/04/10(日)(五十嵐太郎)

出版社ARCHI-CREATION編集部

[中国]

石上純也のレクチャーを企画した出版社ARCHI-CREATIONの編集部を訪問した。日本でも出ていない『エル・クロッキー』の中国版のほか、フェニックス国際メディアセンターや人民大会堂など、ひとつの建物だけをテーマに、一冊ずつ本がつくられている。こういう贅沢な企画が、最近の日本では少ない。その後、高速鉄道に乗って、南京に移動する。25年前に初めて中国に来たときには考えられない速度だ。

2016/04/09(土)(五十嵐太郎)

GAME ON ゲームって なんで おもしろい?

会期:2016/03/02~2016/05/30

日本科学未来館[東京都]

お台場に「ガメオン」現われる! と思ったら「GAME ON」だったって話。春休みの息子12歳(ゲーム中毒)を連れて、なるべくすいてそうな雨模様の月曜の午前中に訪れるも、みんな考えることは同じ、100メートルを超す長蛇の列で待ち時間は40分だと。晴れた休日だったら倍は混んでいただろう。展示は70年代の化石のようなゲームから現在まで約半世紀の歴史をたどり、実際に体験するもの。ぼく自身いまはゲームにはまったく興味ないが、サラリーマンになりたての70年代末、会社の近くにスターウォーズ系の敵機を撃ち落とすゲーム機が導入され、昼休みに夢中になったことがある。やがてブロック崩しやインベーダーゲームが幅をきかせるようになって興味を失ったが、その最初にハマったゲームを探したら、どうやら「スペースウォーズ」らしいことがわかった。なつかしい。企画展を出たら、隣のシンボルゾーンでアシモくんの実演をやっていた。ひざが「く」の字型に曲がってはいるが、走ったり後ずさりしたりケンケン(片足飛び)したり、よく進化したものだと感心。最後は手話も披露して人間らしさ(というより人間への隷属性)をアピール。これ以上進化する(させる)と危険水域に入っていくんじゃないか。

2016/04/04(月)(村田真)

細密工芸の華 根付と提げ物

会期:2016/04/02~2016/07/03

たばこと塩の博物館[東京都]

根付とは、印籠や煙草入れ、巾着を帯から提げるための留め具。おもに木や象牙を材料にしながら動物や神獣、霊獣、植物、妖怪などを主題に造形された。提げ物の先端に取りつけるため、大きすぎず小さすぎず、手のひらに収まるサイズのものが多い。とりわけ江戸時代の文化文政(1804-1830)の頃に全盛を迎えたが、その後は和装や提げ物の衰退に伴い徐々に庶民の日常生活から姿を消していった。
本展は、約370点の根付を中心に、印籠や煙草入れなどの提げ物、関連資料などを一挙に展示したもの。同館がかつて企画した「小林礫斎 手のひらの中の美~技を極めた繊巧美術~」展(2010-2011)ほどの衝撃は見受けられなかったにせよ、それでも繊細で巧みな技術と、それによって醸し出されるある種の情緒、あるいは初見の人を驚かせる機知など、いわゆる明治工芸に通底する特質を存分に堪能できる展観である。
おびただしい数の根付を通覧して気づかされるのは、その周縁性。根付は現在では美術品ないしは工芸品として評価されているが、本来的には実用品である。いや、より正確に言えば、実用性と装飾性を同時に兼ね備えた両義的な特質こそ、根付本来の価値と言えよう。おそらく、そうした両義性が美術でもなく工芸でもなく、しかし美術にも工芸にもなりうるような、微妙な立ち位置に根付を追いやったのだろう。根付とは、言ってみれば、ジャンルとジャンルの狭間にあって、双方をつなぎ合わせる「のりしろ」なのだ。
しかし、だからといって、根付は二次的で副次的な造形物にすぎないわけではない。そのように見させてしまうとすれば、それは「絵画」や「彫刻」といった近代的なジャンルの内側に視線があるからにほかならない。だが本展の会場を埋め尽くした大量の根付は、そうした近代的色眼鏡による偏った見方を一掃してしまう。印籠に蒔絵や螺鈿など漆芸の技術がふんだんに取り込まれているように、根付はある種の総合芸術であることが理解できるからだ。それは制作の行程が長いばかりか、材料も技法も多岐にわたっており、その豊かな多様性が素材や技法によって細かく分類される近代的な美術工芸の論理には馴染まないのである。
思えば、近代日本は西洋に由来する「美術」を盛んに輸入した一方、江戸に由来する明治工芸を気前よく輸出してしまった。「美術」を手に入れた代わりに、私たちはいったい何を失ったのか。根付の醍醐味が「手に持って愛でることで(根付が)優品に育っていく。愛でる側は幸福感や癒しを得て愛着が湧いてくる」(駒田牧子『根付 NETSUKE』角川ソフィア文庫、2015、p.64)ことにあるとすれば、今後の私たちが取り戻すべきなのは、そのような造形と人とのあいだの親密な距離感ではなかろうか。

2016/04/03(日)(福住廉)

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