artscapeレビュー
その他のジャンルに関するレビュー/プレビュー
堂島リバービエンナーレ2015 Take Me To The River
会期:2015/07/25~2015/08/30
堂島リバーフォーラム[大阪府]
大阪市の堂島リバーフォーラムで隔年開催される同展。4度目となる今回は、英国からトム・トレバーをアーティスティック・ディレクターに招き、15組のアーティストの展示を行なった。展覧会タイトルの「テイク・ミー・トゥー・ザ・リバー」は、会場が堂島川に面していること、鴨長明が『方丈記』で記した「行く川のながれは絶えずして~」、ギリシャの哲学者ヘラクレイトスの「万物流転」などにちなんでいるが、特に重要なのは、スペイン出身の社会学者マニュエル・カステルが著書『ネットワーク社会の出現』で指摘した「流れの空間性」である。この説によると、グローバル化した社会では従来の地縁的なセルフ(自我)が衰退し、流動的なネットワークに依拠したセルフが現われるとのこと。池田亮司の巨大な映像・音響作品や、自らの家を金融商品化するフェルメール&エイルマンスなどは、まさに「ネットワークに依拠したセルフ」を具現化したかのようだった。一方、関西を拠点に活動するアーティスト集団プレイや、下道基行、島袋道浩の作品は「旅」がキーワードになっており、牧歌的な詩情が強く感じられる。このようにいくつもの「ザ・リバー」を提示した本展だが、読解力を要求する作品が多いので、現代美術ビギナーにはややハードルが高かったかもしれない。しかしこの機会にそうした作品に好感を持つ人が少しでも増えてくれればと思う。また本展では、過去3回と比べて建物のバックヤードを大胆に活用していた。普段は入れないエリアを探検する感覚が味わえたのも楽しかった。
2015/07/24(金)(小吹隆文)
声が聴かれる場をつくる──クリストフ・シュリンゲンジーフ作品/記録映画鑑賞会+パブリック・カンバセーション
会期:2015/07/20~2015/09/27
アートエリアB1[大阪府]
美術館や劇場といった既存の制度の枠内から路上に出て、多様な社会層の参加と議論の喚起を引き起こすクリストフ・シュリンゲンジーフのアクション/パフォーマンス作品の記録映画の上映会。ここでは、特に『外国人よ、出ていけ!』に焦点を絞ってレビューする。
『外国人よ、出ていけ!』は、オーストリアで2000年に、外国人排斥を掲げる極右政党が政権入りしたことを背景に、同国最大の演劇祭「ウィーン芸術祭週間」で制作されたパフォーマンス作品(『お願い、オーストリアを愛して!』)の記録映画。12人の「難民申請者」を1週間コンテナハウスに居住させ、内部の様子をネット中継し、「観客」の投票によって国外追放する外国人が毎日2人ずつ選ばれていくという、過激な仕立てのパフォーマンス作品である。広場に設置されたコンテナは、極右政党のスローガンやヘイト発言を掲げる人気大衆紙で飾られ、道行く人々はピープショーのように壁の隙間から覗くことができる。
記録映画を見ているうちに感じるのは、真/偽の境界が融解していくに伴って、「パフォーマー/観客・観察者」の関係に生じる、奇妙な反転である。移動の自由を奪われ、監視され、強制送還を待つ身の「難民申請者」たちには、不思議なことに緊張感が感じられない。コンテナ内部の映像を見る限り、彼らはリラックスした様子で、コンテナから「強制退去」される場面でも、顔こそ隠しているものの、理不尽な「投票」結果に抗議したり、人権侵害を訴えたりすることなく、無抵抗で歩いていく。彼らが「本物の」不法滞在者かどうかは、映画内では(おそらく故意に)曖昧化されている(常識的・倫理的には「本物」とは考えにくいが、サンチャゴ・シエラのように、不法就労者に賃金を払ってギャラリー内で「労働」させる作品の例もある。ただしここでは、「本物かどうか」が重要なのではなく、「投票による外国人追放劇が公共空間で実際にパフォームされること」、つまり将来的な可能性が社会実験として「上演」されることで、市民の中に賛否両論の嵐のような反応を引き起こすことが企図されていたと言える)。
コンテナ内の「難民申請者」たちの切迫感のなさや正体の不透明さとは対照的に、「観客」たちの方が、右翼・保守/左翼・リベラルの双方の立場から抗議の声を上げ、シュリンゲンジーフに詰め寄り、身振り手振りも豊かに語り出す。「観客」「観察者」「窃視者」であったはずの者たちの方が、むしろ俳優のように雄弁に振る舞い、現実社会の諸相を鏡のように映し出すのだ。差別意識、ナショナリズム、監視社会、投票というシステムの「正しさ」とそれに則った不寛容さ……。とりわけ傑作なのは、「我々は文化的な国家だ、オーストリアに対する侮辱だ」と抗議する人が、「ドイツへ帰れ!」とシュリンゲンジーフを罵倒し、はからずも差別意識をさらけ出してしまうシーンだ。
シュリンゲンジーフの戦略の巧みさは、自身の立場を左か右か表明せず、「政治的主張」として行なうのではない点にある。コンテナに掲げられた「外国人よ、出ていけ!」というショッキングなスローガンもまた、予想される極右政党の批判をかわす戦略である。「これはあなたたちの掲げているスローガンですよ」というわけだ。ただしこの文句を観客に向かって直接言うのではなく、文字で表示することで、主張の明確さとは裏腹に、メッセージは匿名性を帯びていく。誰が誰に向かって発した言葉なのか、主体と対象が曖昧なまま、メッセージだけが浮遊し、人々の感情的な反応を引き起こす。
では、単なる社会批判や政治的主張ではないのなら、シュリンゲンジーフの挑発的な試みのより深い意図はどこにあるのか? 路上で人々と向き合うシュリンゲンジーフは、スローガンに賛同する右翼や保守主義者/批判する左翼やリベラリストにかかわらず、相手の意見を否定せず、むしろ拡声器を渡して彼らに積極的にしゃべらせる。たとえそれが何語であろうとも、「あなたはあなたの言葉で話してよい」のだ。一時的であれ、感情を逆撫でする不快感を伴うものであれ、誰もが自由に発言できる、多層的な声を響かせることのできる空間を、公共の場に開いたこと。それによって社会の矛盾や歪みが露わになり、「発言者」自身や周囲が気づけば、なぜそうした社会構造や心理構造になっているのか? 変えるにはどうすれば良いのか? と考え始めるだろう。その先に、一人一人が政治参加者として主体的に考え始めることが、真に民主的な社会への第一歩ではないか。おそらくここに、彼が根源的に目指す地点がある。
アートには、「現実を直接変える」有効性はないが、意識を変える媒介としての可能性はある。本作は、「観客」であった存在が、舞台に上がった「俳優」として声を発し、しかしその「台詞」はメディアなど他の誰かによって用意されたものではないか? という自問を経て、「主体的発言者」へと至ることが賭けられた演劇作品であると言える。だから劇場の幕が下りて終わるのではなく、「幕が上がった」というシュリンゲンジーフの言葉で締めくくられるのだ。
開催日:2015/07/20、08/08、9/27
2015/07/20(月)(高嶋慈)
スピリチュアルからこんにちは
会期:2015/04/30~2015/07/20
鞆の津ミュージアム[広島県]
いわゆる「スピリチュアル」系のアート作品を集めた展覧会。参加したのは、アーティストのRammellzeeや宇川直宏をはじめ、障害福祉施設で暮らしたり、そこに通ったりしている人びと、さらには宇宙村村長や創作仮面館創設者、珍石館館長など、13名。いずれも何かを創作していることに違いはないが、「アート」ではなく「精神世界」を中心にした選定である。
全体的な印象からいえば、いわゆる「アウトサイダーアート」として括られるような創作物が多い。それらに通底しているのは、精神障害、占星術、神霊、あの世など、いずれも近代社会にとって排除の対象である「外部」にほかならないからだ。生ぬるい鑑賞者を寄せつけないほど強力な唯我独尊のオーラを放っている点も、良質のアウトサイダーアートと共通している。
しかし、個別の出品物をよく見ると、そこには必ずしも自閉的で独善的なアウトサイダーアートとは言えない特質も含まれていることに気づかされる。それが「交信」である。むろん、宇宙を主題とした一部の出品者が宇宙や地球外生命体との交信を図っている点は改めて言うまでもあるまい。けれどもその一方で、必ずしも宇宙に関心を注がなくとも、交信を試みている者がいないわけではない。
栃木県の那須高原にある創作仮面館は、およそ2万点の創作仮面を陳列する私設博物館。主宰する岡田昇によってつくられた創作仮面が、建物の内外を埋め尽くすほど飾りつけられている。しかも岡田昇本人も創作仮面を着用しているほどの徹底ぶりだ。本展会場では、4面の壁面にそれらのおびただしい創作仮面が展示され、あわせて平面作品なども発表された。
岡田本人が仮面を着用していることが如実に物語っているように、仮面とは素顔を覆い隠すことで仮の顔を仮設するものである。その意味で、来場者との「交信」は端から放棄されているように感じられないでもない。斜視の子どもを描いた平面作品にしても、こちらと視線が決して交わらないことが、そのような「交信」の断絶をよりいっそう実感させている。しかし、にもかかわらず、おびただしい数の仮面に囲まれていると、必ずしもそのような拒否の意志に苛まれるわけではないことに気づく。むしろ、仮面をとおして、何かしらの「交信」が働きかけられているようにすら感じられるのだ。
それは、岡田がつくる仮面が日用品や廃棄品を再構成したある種のアッサンブラージュであり、その素材の親近感が来場者との距離を縮めているとも考えられる。だがより根本的に考えれば、そもそも「美術」は、言ってみれば、そのような仮面を挟んだ非言語的なコミュニケーションの一形式ではなかったか。言語的なコミュニケーションのように、正確無比な意思疎通が可能になるわけではないにせよ、どんな「美術」であれ、ある種の「仮面」を内蔵しているのであり、その制作と鑑賞は「仮面」の此方と彼方の交信と言い換えられるからだ。その意味で、岡田の創作仮面は、アウトサイダーアートの一種というより、むしろ美術の王道を体現していると言えよう。
「コミュニケーション・アート」や「関係性の美学」という新語がいかにもいかがわしいのは、それが臆面もなく同義反復を犯しているからにほかならない。美術とは、その言葉の内側に、本来的にコミュニケーションや関係性を含みこんでいる。この自明の理を、岡田の創作仮面は仮面の向こう側から控えめに照らし出しているのである。
2015/07/05(日)(福住廉)
山本作兵衛の世界
会期:2015/06/06~2015/07/26
福岡市博物館[福岡県]
筑豊の炭鉱画家、山本作兵衛(1892~1984)の回顧展。世界記憶遺産に登録されてから、改めて再評価の機運が高まっているが、本展は、質的にも量的にも、これまででもっともまとまった良質の企画展であった。それは、これを企画したのが「美術館」ではなく「博物館」であったということと、おそらく無関係ではない。
展示されたのは、画用紙に水彩や墨で描かれた炭鉱画の原画をはじめ、関連する映像、炭鉱で使われていた機械や器具、筑豊の鉱山を示す地図など、160点あまり。それらが明快な展示構成によって整然と展示されていた。坑道を模した入り口から会場に入ると、石炭の塊が出迎え、野見山暁治が描いたベルギーのボタ山の絵や吉田初三郎による鳥瞰図が続く。その後も、作兵衛が描いた炭鉱労働の器具を実物とあわせて展示したり、菊畑茂久馬が美学校の生徒とともに制作した300号の「炭坑模写壁画」の9枚すべてを同一の壁面に並べて展示したり、酸性紙に描かれた炭鉱画の劣化を防ぐための保存研究の技術と成果を発表したり、あるいはサッカー日本代表の内田篤人が所属するドイツのブンデスリーガの「シャルケ04」が元来炭鉱のクラブであり、現在でも節目のセレモニーでは選手たちが坑内に下りるという逸話を紹介するなど、展示の随所に工夫が凝らされていた。作兵衛の原画だけでなく、それらに関連する文化表現やそれらを包括する社会的な背景を総合的に見せていたのである。なんであれ「美術」に回収しようとする美術館では期待できない、博物館ならではの優れた展観であった。
しかし、そもそも作兵衛の炭鉱画は、本来的に従来の「美術」の範疇に収まらない。水彩の技術は稚拙であるし、人体表現のデッサンも精確とは言えないからだ。しかも、余白を埋め尽くすほどの文字によって絵を図解している点も、色彩や線、形態を重視する反面、物語性や文学性を排除するモダニズムの基準から大きく逸脱している。にもかかわらず、作兵衛の絵が来場者の視線を釘づけにしてやまないのは、いったいどういうわけか。
それは、本展の企画者で同館館長の有馬学が正確に指摘しているように、作兵衛の絵が「肯定の思想」に貫かれていることに一因があることは間違いない。どれほど過酷な炭鉱労働であれ、暴力的な事件であれ、作兵衛はそれらを否定的にではなく、あくまでも肯定的に、すべての人間存在を肯定するかのように描いている。実際は暗い坑内をあえて明るい光と色彩で描いたのも、その肯定の思想の表われであろう。しかし、それだけではあるまい。
山本作兵衛の炭鉱画は、一般的には、アウトサイダーアートとして考えられがちである。作兵衛が美術教育を受けておらず、その絵のありようも絵の主題である炭鉱も、近代の基準からすれば「外部」にあるからだ。だが作兵衛の絵には、いわゆるアウトサイダーアートの特徴である、他者を顧みない排他的な独善性は一切見られない。むしろそれは、炭鉱について何も知らない私たち来場者の耳に届くように、丁寧に語りかけている。声は聞こえずとも、その絵の前に立つと、作兵衛の語りを聴いているような気がするのである。だからこそ私たちは、作兵衛の語りに耳を澄ますかのように、その絵に視線を注ぐのだ。しかし、絵というものは、本来的に、そのようなものではなかったか。
山本作兵衛の炭鉱画は、近代にとってのある種の原点を示している。炭鉱が日本の近代化を支えた産業だったからではない。作兵衛の絵は、近代以後の美術の展開からすると、アウトサイダーアートとして括られるが、同時に、その展開との距離を計測するための座標軸になりうるからだ。近代社会ないしは近代絵画がどれほどの距離を歩んできたのか、あるいはより直接的に言えば、いったい何を失ってきたのか。私たちは作兵衛の語りに耳を傾けながら、そのことに思いを馳せるのである。山本作兵衛の炭鉱画は、近代遺産へのノスタルジーではないし、あまつさえ近代礼賛のセレモニーでもない。それは、「近代」の実像を把握するための、すぐれて批評的な文化表現なのだ。
2015/07/05(日)(福住廉)
大阪国際平和センター(ピースおおさか)リニューアル「大阪空襲を語り継ぐ平和ミュージアム」
大阪国際平和センター(ピースおおさか)[大阪府]
ピースおおさかを訪れた。以前は建築が目的で来たので、リニューアルされて、加害展示が消えた実感はあまり持てないのだが、いまはテーマを大阪空襲に絞り、垢抜けた展示になっている。が、はたしてアート的なインスタレーションでいいのか? それよりも気になったのは、なぜ戦争が起き、空襲になるまでの事態を招いたかの説明がほぼない。まるで自然災害のように、悲惨な目にあいました。これでは博物館なのに、『永遠の0』みたいな構えである。
2015/06/25(木)(五十嵐太郎)