artscapeレビュー
その他のジャンルに関するレビュー/プレビュー
江戸の悪
会期:2015/06/02~2015/06/26
太田記念美術館[東京都]
大盗賊や侠客、そして悪女や毒婦。本展は、浮世絵に描かれた「悪人」に焦点を当てた企画展。三代歌川豊国、歌川国芳、月岡芳年らによる80点あまりが展示された。いずれも意匠性の高い浮世絵によって悪の魅力が凝縮した展覧会で、たいへん見応えがあった。
注目したのは、悪人たちによる悪行の数々を描写した作品がある一方で、捕らえられた彼らが公開の場で厳しく処罰される様子が描かれた作品も数多いという事実である。石川五右衛門が釜茹の刑に処されたことはよく知られているが、歌川国芳による《木下曽我恵砂路》を見ると、わが子を両手で抱えながら断末魔の雄叫びを上げる五右衛門を大勢の人々が見守っているのがわかる。いや、見守っているというより、見物しているというべきかもしれない。事実、同じ国芳による《恋模様振袖妹背》には、お縄を頂戴した八百屋お七を取り囲む大勢の民衆が描かれているが、彼らの視線は明らかに好奇と憐憫、侮蔑が含まれている。
悪人を処罰する現場を可視化したうえで共有すること。これは一方では、前近代的な、つまり非常に野蛮で恥ずべき文化的習俗のひとつなのかもしれない。だが他方で、これは、そうすることによって正と悪を峻別する境界線を共同体の構成員のあいだで確認し、結果として社会秩序を更新する儀式としても考えられる。そして、このような現場を劇的に描写したこれらの浮世絵が、そうした儀式を象徴的に再生産する社会的装置として機能していたことも想像に難くない。
だが、浮世絵は社会の異分子を排除する政治学を実践していただけではない。それは、悪人への共感といえば言い過ぎになるかもしれないが、ある種の魅力を隠さないメディアでもあった。なによりも悪人たちが着こなす着物が、小粋でかっこいい。悪人たちは明らかに審美的な対象として描写されていたのだ。だが、それだけではない。月岡芳年による《新撰東錦絵 鬼神於松四郎三郎を害す図》は、女盗賊のお松による復讐劇を描いた作品。旅の道中で巡り会った仇敵の四郎三郎の親切心につけ込み、彼の背に乗って川を渡るが、突然小刀を振りかざして彼の首元を狙う。気配を察して恐怖に慄く四郎三郎の歪んだ顔とは対照的に、当のお松はいたって冷静な表情を保っているが、激しく波打つ川面やそこから慌てて飛び立つ2匹の水鳥がお松の並々ならぬ激情を代弁しているかのようだ。ここには悪人の悪行を咎める一面はまったく見受けられず、むしろ積年の怨みを果たす復讐劇のカタルシスがあるとさえ言える。
悪への戒めと赦し。本展で発表された浮世絵のなかには、悪に対する両義性がはっきりと現われていた。これを日本人独特の精神性と断言することは早計にすぎよう。しかし、改めて本展に展示された浮世絵を見直してみると、そこにはそのような両義性を可能にする幅と厚みのある世界観が通底しているように思われた。例えば三代歌川豊国による《梨園侠客伝喧嘩屋五郎吉》は主題である侠客の肉体に描かれた鮮やかな花と、その背景に描かれた小鳥と草花が、それぞれ有機的に結びつき、一体化しているように見えた。同じ豊国の《梨園侠客伝朝比奈藤兵衛》にしても、着物の中の小鳥が、背景に走る雷に慄いているようにしか見えない。近代的な思考法によれば、地と図は明快に切り分けられるが、浮世絵においては双方の境界線はそれほど厳密ではなく、互いに重複し、融合し、ひとつの全体を構成しているのである。
竹内整一が的確に指摘したように、日本語においては受動性を表わす「自ずから」と能動性を表わす「自ら」が同じ「自」という言葉に由来する。このような言語環境のもとに浮世絵があったことを考えると、悪に対する両義性が論理的にも心情的にも成立していたことは想像に難くない。悪が悪であることに変わりはないし、悪を社会から排除する必要性も揺るがない。しかし、その悪が、時と場合によっては、こちらにも及んでくることを、浮世絵を嗜んでいた当時の人々は、経験的に知っていたのではあるまいか。路上の片隅から政治の中枢まで悪がはびこる現在、こうした経験から学ぶことは多い。
2015/06/18(木)(福住廉)
山口小夜子──未来を着る人
会期:2015/04/11~2015/06/28
東京都現代美術館[東京都]
「山口小夜子──未来を着る人」展がよかった。70年代に日本から登場したミューズとしての活動と、モデル業以外のアートとの積極的な関わりを回顧するものだ。素顔や初期の写真・映像を見ると、意外に丸い目で、日本的なかわいらしさを感じさせる。一方、有名な切れ長を強調したメイクは、まさに海外から見た東洋の美女イメージであり、彼女は両者を横断していたことがわかる。
2015/06/07(日)(五十嵐太郎)
MONSTER Exhibition 2015
会期:2015/06/04~2015/06/08
渋谷ヒカリエ 8/COURT[東京都]
渋谷ヒカリエの8階にて、MONSTER exhibition2015が開催された。被災地の仙台で企画された怪獣をテーマにした公募であり、デザインやアートが同居する異種格闘技の雰囲気は、以前審査を担当したキリン・アートアワードを思い出す。今回は造形としてのデザインよりも、精神的な脅威としての怪獣性に注目し、児玉龍太郎の13分の不穏な短編映画『小僧枯』が気になった。本展はニューヨークに巡回する予定だが、『ゴジラ』や『チャッピー』など、日本リスペクトの映画が海外で次々と発表されるなか、本家の怪獣に対する創造力を見せてほしい。
2015/06/03(水)(五十嵐太郎)
稲村米治 昆虫千手観音巡礼ツアー
会期:2015/05/31
群馬県板倉町中央公民館ほか[群馬県]
現在、鞆の津ミュージアムで開催中の「スピリチュアルからこんにちは」展の関連企画として催されたツアー。いまもっとも「やばい」企画を次々と打ち出して高く評価されている同館学芸員の櫛野展正が、参加者10名ほどを引率しながら、群馬県に在住する稲村米治のもとを訪ねた。
稲村米治は今年で95歳。いわゆるアーティストではないが、いまからちょうど40年前の1975年、ひとりで昆虫千手観音像を制作した。これは文字どおり数々の昆虫を素材とした千手観音像で、おびただしい数のカナブンやクワガタ、カブトムシ、タマムシなどを表面に貼りつけ、構成することで、千手観音像を立体的に造形化したものだ。その数、じつに2万匹。制作期間に6年もの時間を費やしたのは、一夏で採集できる昆虫の数に限界があったからである。その持続的な執念に圧倒されるばかりか、クワガタを組み合わせることで千手や後輪を表現した造形上の工夫や、本体ばかりか台座までも昆虫で埋め尽くした徹底的なこだわりに、大変な衝撃を受けた。この昆虫千手観音像を最後に、同様の造形物は一切制作していないという逸話は、その執着心を極限まで突き詰めたことを如実に物語っている。
昆虫を用いたアーティストといえば、ヤン・ファーブルがいるが、稲村の昆虫千手観音像はヤン・ファーブルの作品より時期的に先駆けているし、その質的な差も歴然としている。ヤン・ファーブルの作品は多彩な昆虫の配列によって色彩の美しさを洗練させることに力点が置かれているが、稲村はクワガタの鋭角的な顎を千手に見立てたように、むしろ昆虫の形態を活かしながら立体的に造形化することに心を砕いているからだ。前者はより平面的で、後者はより立体的と言えるかもしれない。
かつて岡本太郎は、今日の芸術の条件として「いやったらしさ」を挙げていたが、稲村の昆虫千手観音像を見ると、まさしく「いやったらしい」感情がふつふつと沸き上がってくる。いわゆる美や醜といった価値基準を超えて、有無をいわさずに、見る者を圧倒してくるからだ。それは、2万匹もの昆虫が集合しているという事実だけではなく、それ以上に、一つひとつの昆虫が文字どおり「生きている」ように見えることに由来しているように思われる。稲村によれば、死んだ昆虫は一切採集しなかったという。生きた昆虫に注射をすることで、生命のある形態を留めることに腐心していたのだ。樹木にへばりついた昆虫のかたちが認められるからこそ、結果として昆虫千手観音像には、躍動するような迫力のあるイメージが醸し出されていたのである。
惜しむらくは、この大傑作が正当に評価されているとは言い難いことだ。無料で誰でも鑑賞できる地元の公民館に常設されている点は、決して悪くない。だが、平凡な蛍光灯のもと、天板のあるガラスケースの中に収められた状態で鑑賞するのがベストであるとは到底考えられない。もし入念につくりこまれた照明で照らし出されたとすれば、いったいどのように見えるのだろう。カナブンの緑色やクワガタの赤茶色がいま以上に妖しく光り輝き、クワガタの顎が背景に鋭い影を落とすのではないか。稲村は昆虫を供養するために千手観音像を制作したというが、私たちにできる供養とは、これを鑑賞して正当に評価を与えることにあるはずだ。
2015/05/31(日)(福住廉)
プレビュー:声が聴かれる場をつくる──クリストフ・シュリンゲンジーフ作品/記録映画鑑賞会+パブリック・カンバセーション
会期:2015/07/20、2015/08/08、2015/9/27
アートエリアB1[大阪府]
映画、舞台演出、美術、テレビ、選挙運動など、多様なメディアと社会領域を横断する活動を行ない、2011年のヴェネチア・ビエンナーレでは、ドイツ館の構想半ばで逝去するも金獅子賞を受賞したクリストフ・シュリンゲンジーフ。多様な社会層の参加と議論の喚起によって成立する彼のアクション/パフォーマンス作品の記録映画を上映する試みが、〈声なき声、いたるところにかかわりの声、そして私の声〉芸術祭III PROJECT(8)「ドキュメンテーション/アーカイヴ」として企画されている。
今回上映されるのは、『友よ!友よ!友よ!』『失敗をチャンスに』『外国人よ、出ていけ!』『フリークスター3000』の4作品であり、鑑賞後にはファシリテーターの企画によって対話の場が設けられる。『失敗をチャンスに』は、シュリンゲンジーフが1998年のドイツ総選挙に向けて設立した政党「チャンス2000」の選挙運動のドキュメンタリーで、俳優、失業者、障害者らが国会議員候補となって、ドイツ全国で街頭演説を行なった。また、外国人排斥を掲げる極右党の政権入りを背景にした『外国人よ、出ていけ!』は、12人の「亡命希望者」をコンテナハウスに居住させ、内部の様子をネット中継し、「観客」の投票によって国外追放する外国人が1人ずつ選ばれていくという過激な仕立てのパフォーマンスの記録である。
「演劇」という虚構のフレームを用いて、社会に潜在する矛盾や差別意識をあぶり出すとともに変革の可能性を提示するシュリンゲンジーフ作品の記録上映を通して、パフォーマンスとドキュメンテーションのあり方のみならず、参加型芸術と現実社会の関係、社会の多声性をいかに拾い上げるか、民主主義、同質性と排除の力学などについて再考する機会になればと思う。
2015/05/31(日)(高嶋慈)