artscapeレビュー

その他のジャンルに関するレビュー/プレビュー

野球と鉄道──幻の球場と思い出の球団

会期:2015/04/07~2015/07/20

旧新橋停車場 鉄道歴史展示室[東京都]

旧新橋停車場の鉄道歴史展示室の「野球と鉄道──幻の球場と思い出の球団」展を見る。思いがけず、武蔵野グリーンパーク、藤井寺球場、大阪スタヂアム、西宮球場など、20世紀前半の東京や関西の球場のドローイング、模型、写真などの資料がいろいろ集まっており、これを調べていくと、面白い建築のテーマになりそうだった。

2015/05/26(火)(五十嵐太郎)

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山口小夜子 未来を着る人

会期:2015/04/11~2015/06/28

東京都現代美術館[東京都]

むかし、一龍斎貞水の講談を演芸場で見たとき、不思議な体験をした。演目は「徂徠豆腐」で、貞水が御用学者の徂徠と彼の貧しい時代の恩人である豆腐屋の男を演じ分けていたところ、ふと貞水の口元を見やると、どういうわけか歯が欠けているように見えたのだ。先ほどまではしっかりとした歯並びだったのに、いつのまにか上の歯が一本抜けている。あるいは、単なる眼の錯覚だったのかもしれない。けれども、豆腐屋の男が貞水を乗っ取ってしまったのではないかと勘ぐるほど、その日の貞水の講談は確かに熱を帯びていた。あれはいったい何だったのか、いまだに解決しがたい謎として、いまも心の奥底に残されている。
本展とまったく関係のない講談の話から始めたのは、ほかでもない。本展で発表された山川冬樹の映像作品が、まさしくそのような謎を喚起する作品だったからだ。映像に映されているのは、被災地である福島。そこを、白い仮面を被って小夜子に扮した山川がさまよい歩く。むろん、仮面であるから、じっさいの顔の輪郭と正確に重なっているわけではなく、不自然な印象は禁じえない。にもかかわらず、人影の見当たらない海岸や森のなかを彷徨するその姿を見ていると、山口小夜子本人なのではないかと直感する瞬間が幾度となくあった。
鑑賞者の心を撃つ、その瞬間はいったい何なのか。仮面は緻密な再現性を追究して造形化されているわけではないので、外形的な印象に由来しているわけではあるまい。山口小夜子本人を知っているわけでもないので、記憶の重力がイメージを引きつけたわけでもなかろう。あるいは貞水の豆腐屋のように、物語という明確な輪郭のなかに挟まれていれば、その一貫性のある前後関係が鑑賞者の視覚を偏らせることもあるのかもしれない。だが山川の作品は、全編にわたってモノローグが映像に重ねられていたように、定型をもたない散文詩のような構成である。物語の構造がイメージを実体のように見せたとは到底考えられない。
むろん、降霊現象のようなオカルトめいた話に落ち着かせたいわけではない。しかし、山川のパフォーマンスは、少なくとも、あの一龍斎貞水と同じ水準まで熱が入っていたことは間違いない。その熱の入れ方は異なるはずだが、鑑賞者の視線をさらうほどの熱量を投入することは、おそらく芸能であれ芸術であれ、優れた芸の基本的な条件だったはずだ。視線のアブダクションを体験できるパフォーマンスである。

2015/05/17(日)(福住廉)

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狂転体 展

会期:2015/05/09~2015/05/23

CAS[大阪府]

「シュルレアリスムの再認識」を目的に、1977年に結成されたグループ「狂転体」。メンバーは、美術家、デザイナー、音楽家、TVプロデューサーなどで、常時7名前後のメンバーが入れ替わりながら、1983年まで活動を続けた。本展では、彼らの過去のイベント(現在のパフォーマンスに近いニュアンス)の遺物を展示した他、メンバー数名で共作した新作オブジェ、記録写真などが展示された。一部とはいえ、よくも作品が残っていたものだと感心したが、それ以上に重要なのが記録写真の存在である。筆者は「狂転体」の存在を知らなかった。研究者でも、よほど精通した人でなければ知らないだろう。関西の現代美術では、こうした活動の数多くが埋もれたままになっている。早急なアーカイブが必要だが、体制が整っておらず残念でならない。当事者たちが資料を整理してウェブを立ち上げるだけでも随分違うと思うのだが、いかがだろう。

2015/05/16(土)(小吹隆文)

アート(AM Ver.) 伊東宣明 / Nobuaki Itoh

会期:2015/05/05~2015/05/10

Antenna Media[京都府]

2013年にアートと制度を巡る問題をテーマにした映像作品を発表した伊東宣明。本展で発表した新作のテーマは「アートとは何か」だ。伊東は全国各地のランドマークで自画像を撮影し、「アートとは何か」をカメラに向かって語りかける。彼にとってアートは、不可視で手に入れられないものや、到達不能な理想に向かって邁進するアーティストの姿勢そのものに内在する。19世紀ロマン主義以来の理想に基づいた価値観と言えよう。ただ曲者なのは、当の本人がアートの理想を本当に信じているのか、それとも敢えてドン・キホーテ役を演じたのかが定かではないことだ。おそらく伊東は意図的に両義的な作品を作ったと思われる。観客に作品の二律背反性を気付かせ、アートとは何かを自問自答させること。そこに本作の真意があるのだろう。なお本作は、今年2月から4月にかけて愛知県美術館で発表した作品の京都バージョンである。

2015/05/08(金)(小吹隆文)

フランス国立ケ・ブランリ美術館所蔵 マスク展

会期:2015/04/25~2015/06/30

東京都庭園美術館[東京都]

ケ・ブランリが所蔵する仮面を一堂に集めた展覧会。改装された東京都庭園美術館の本館と新館でそれぞれ作品が展示された。昨年、国立民族学博物館が所蔵する民俗資料を国立新美術館で展示した「イメージの力」は改めて人類による造形の魅力を深く印象づけたが、それに比べると本展はいかにも中庸な展示で、じつに退屈だった。だが問題は、そうした印象論を超えて、ことのほか根深い。
もっとも大きな問題点は、本展の展示方法が、取り立てて工夫の見られない、凡庸だった点。さまざまな仮面は、ガラスケースの中に収められていたため、鑑賞者はそれらについての解説文を読みながら、一つひとつの造形を鑑賞することになる。美術館においては王道の鑑賞法であるが、本展のような文化人類学的な民俗資料を展示する場合、必ずしも王道として考えることはできない。なぜなら、それらの民俗資料は本来的に美術館から遠く離れた異郷の地に存在していたものである以上、美術館でそれらを造形として鑑賞する視線には、その土地に根づいていたものを引き剥がしたという暴力の痕跡を打ち消してしまいかねないからだ。1990年代以降のポストモダン人類学やポストコロニアリズムの功績は、そのような展示する側と展示される側の不均衡な権力関係を問題化してきたが、本展の展示構成はそのような学術的な蓄積を前提として踏まえているようにはまったく見えなかった。問題を問題として認識していない無邪気な素振りが、問題である。
例えば、前述した「イメージの力」展は、まさしく古今東西の仮面を凝集的に展示することで、仮面の造形に隠された妖力を引き出すことに成功していた。それが、展示する側の権力性を免罪することには必ずしも直結しないにせよ、少なくとも本来の文脈を、テキストによって解説するという安易な方法ではなく、あくまでも展示という方法のなかで伝えようとしていた点は高く評価するべきである。言い換えれば、展示という方法の芸術性を存分に引き出していたのだ。だが、本展のそれは、そのような芸術性はまったく見受けられなかった。むしろ逆に、(そのような意図が含まれていたわけではないにせよ、結果的には)この美術館の歴史性が帝国主義的ないしは植民地主義的な視線をより一層上書きしてしまっていたようにすら思える。
その「イメージの力」展の関連イベントとして、2014年4月12日、国立新美術館で「アートと人類学:いまアートの普遍性を問う」というシンポジウムが催された。新進気鋭の3人の人類学者による基調講演に、同美術館館長の青木保や写真家の港千尋がコメントするという構成だったが、何より驚かされたのは、いずれの発表にも「普遍性」という言葉が、あまりにも無邪気に用いられていた点である。人類学は、その「普遍性」を徹底的に再検証してみせたポストコロニアリズムやカルチュラル・スタディーズの経験を忘却して、かつての古きよき人類学に回帰してしまったのだろうか。本展の中庸な展示が、そのような「普遍性」の無批判な称揚と同じ地平にあるとすれば、他者への不寛容と攻撃性が増している昨今の社会状況にあっては、十分警戒しなければならない。

2015/05/07(木)(福住廉)

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