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パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

プレビュー:「咲くやこの花芸術祭2015」より、現代美術の瀧弘子と文楽のインスタレーション「曾根崎心中」天神森の段

会期:2015/11/27

大阪市中央公会堂[大阪府]

将来の大阪を担うべき概ね40歳以下の芸術家に贈られる「咲くやこの花賞」。対象ジャンルは、「美術」「音楽」「演劇・舞踊」「大衆芸能」「文芸その他」の5部門で、これまでの受賞者は160組を超える。その受賞者たちが受賞翌年に成果を披露するのが「咲くやこの花芸術祭」だ。筆者が注目しているのは「美術」の瀧弘子。彼女は2012年に成安造形大学を卒業したばかりの新鋭だが、すでに多くの活動歴を持ち、美術関係者からの評価も高い。同祭では、絵画、映像、鏡などを駆使してポートレイト作品を投影する《写身(うつしみ)》を館内の特別室など各所に展示する(11/27~29)ほか、11月27日には文楽と共演して「曾根崎心中」より天神森の段を上演する。特に文楽との共演は、彼女にとって飛躍の契機となるだろう。どのような舞台を見せてくれるのか、期待が大きく膨らむ。

「咲くやこの花芸術祭2015」公式サイト http://www.sakuya-konohana.com/sakuya2015/

2015/10/20(火)(小吹隆文)

こまつ座公演「マンザナ、わが町」

会期:2015/10/03~2015/10/25

紀伊國屋ホール[東京都]

太平洋戦争時のアメリカにおける日系の強制収容所に関心があり、井上ひさし作「マンザナ、わが町」(紀伊國屋ホール)を観劇。個性的な5人の女性が、ぶつかりながら、マンザナ(マンザナー強制収容所:第二次世界大戦中に日系アメリカ人が収容された収容所のひとつ)を紹介する劇を練習する物語である。その過程で、日本人やアメリカとは何か、そして中国への態度が議論される。ひとつの正義に収束せず、最後に希望的なヴィジョンを導く。

2015/10/19(月)(五十嵐太郎)

KERA・MAP #006「グッドバイ」(横浜公演)

会期:2015/10/17~2015/10/18

KAAT神奈川芸術劇場[神奈川県]

太宰治が執筆した、女性問題で振り回される未完の小説を、古典的な大団円を迎えるラブコメに帰着させ、随所に笑いを散りばめている。左右からスライドして出し入れする舞台装置の転換、奥の階段の使い方も興味深い。永井キヌ子役の小池栄子がなかなかの怪演だった。

2015/10/18(日)(五十嵐太郎)

UNKNOWN ASIA──ART EXCHANGE OSAKA 2015

会期:2015/10/17~2015/10/18

大阪市中央公会堂[大阪府]

大阪のFM局「FM802」のアートプロジェクト「digmeout」と、アジアン・クリエイティブ・ネットワーク(ACN)等が共同で企画した、アーティスト主体のアートフェア。日本、中国、台湾、香港、韓国、タイ、フィリピン、ベトナム、マレーシア、シンガポール、インドネシアから120組のアーティストが集い、作品の展示・販売を行なった。一方、日本と東南アジア各国からアート、デザイン、メディアのキーパーソンを審査員として招いており、彼らとアーティストの出会いの場、つまりビジネスマッチングの機会を設けているのも大きな特徴である。出展者から国際的に活躍する人材を輩出すれば、このイベントのステイタスは揺るぎ無いものになるだろう。そのためにも、第2回、第3回と継続する必要がある。筆者は会期前日のプレビューに参加したが、会場を覆う華やかな熱気と多国籍の人々が集う様子に高揚感を覚えた。今後関西を代表するアートイベントになるよう、上手に育ててほしいものだ。

2015/10/16(金)(小吹隆文)

岸井大輔『始末をかく4「茶屋建築に求めてゆかなければならぬ」』

会期:2015/10/03~2015/10/12

横浜各所[神奈川県]

馬車道の喫茶店サモアールを出発点に、横浜各所(10カ所)を歩いて見ていく演劇作品。各所に着くたび手紙を渡される。手紙には、次の場所の来歴が岸井の言葉で語られる。横浜は世界的な観光地である。日本丸のあたりで手紙を読む。ドックの保全が芸術作品によって、次に商業施設によって、いまは「BUKATSUDO」(街のシェアスペース)によって図られているとの説明を受ける。景色が、いつもと違って見える。他には、横浜市のクリエイティブシティ事業で補助を受けるアーティストのアトリエ、展覧会開催中の横浜市民ギャラリー、ヨコハマアパートメント、かつて居酒屋だった建物、あるいは黄金町バザールが会場となった。岸井は『POTALIVE』で散歩を演劇として捉える活動を10年以上前から始めている。2時間以上ゆっくりと横浜の港エリアだけではなく、山のほうのエリアもめぐる。手紙にも書いてあったが、疲労度でいえば、これは高尾山登山に類する体験だ。丁寧に歩くことで、横浜が立体的に見えてくる。食べたり飲んだりも、バスやタクシーでの移動も、すべては日常のことでありながら、劇の一部でもある。痛快なのは、上演の輪郭が見えないことで、「始末」とは始まりと終わりのことだというのだが、それを「欠いている/書いている」のがこの演劇なのだ。途中で降りてもよい。かくいう筆者も、見過ごしたエリアを残してしまった。座席の角度で見えない芝居ができてしまうように、各自の体験によってしか「始末」は問えない。観客はすべて異なる演劇を観た。劇場に縛られないが故のことだろう。

2015/10/12(月)(木村覚)