artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

EAT & ART TARO『「上郷クローブ座」レストラン』

会期:2015/07/26~2015/09/13

上郷クローブ座[新潟県]

8月の末、6度目となる大地の芸術祭のために、3日間越後妻有に滞在した。3日では全貌を知るのに足りず、見逃した展示・上演のほうがはるかに多いのだが、わずかに体験したなかでもっともよかったのが「上郷クローブ座」だった。筆者にとって4度目の大地の芸術祭。今回強く印象に残ったのが、新潟の土をテーマにした「もぐらの館」のような、いわゆる現代美術とは直接関係ない展示の魅力だった。よく言われることだろうが、北川フラムの手による地域フェスティバルでは、一応「アート」目当てで足を運んだはずが、アートという「図」に隠れていたはずの「地」のほうに観客の目は奪われてしまう。自然の景色や地元の人の佇まいに触れ、そこが人口減少の進む過疎地であること、ゆえにここでの人の営みは永続するものではないこと、そしてそうした問題はここだけではなく日本全土を覆っていることなどに心は引き寄せられる。10年ほど前の大地の芸術祭では、「地方」に「アート」を置いた驚きと違和感のなか、その「とってつけた」印象が拭えなかった。都市でも、どこかでも見られる「アート」がなぜここにあるのか、その因果性が乏しいと感じてしまったからだろう。また泥だらけの「大地」の世界に、ホワイトキューブをつくろうとすれば、無理があるものだ。しかし、上郷クローブ座のレストラン・パフォーマンスのような上演は、ここでしか見られない。それは運搬すればどこでも見られる「アート」の遍在可能性(というモダニズム)とは一線を画すものだった。旧上郷中学校を改装した建物の1階で、それは行なわれた。いったん暗幕で窓が覆われると、地元の女性が一人、ゆっくりとロウソクの火を灯して、観客たちが座る食卓の周囲を巡る。信濃川流れる土地の紹介が音声で流される。方言の抑揚が土地を感じさせる。これからはじまる饗宴に捧げられたささやかな儀式。この「フレーム」が置かれることで、その後の女性たちのもてなしぶりが「演劇」に映る。今朝採れたとうもろこし、焼いた糸瓜、グループ名の由来でもあるクローブで味付けされた豚肉などに、地元の女性たちのていねいな説明が施されると、ただおいしいだけではなく、この土地を胃袋を通して鑑賞しているかのような気持ちにさせられる。食事は、地元の料理を元に、EAT & ART TAROがアレンジしたもの。洗練されている。「うぶすなの家」もそうだった。都市型の感性とのコラボで地元の良さを引き出すのも、大地の芸術祭が得意とするところだ。クローブ座に出演した地元の女性たちは会期後、どんな日常に戻っていくのだろうと思いを馳せる。この土地の未来を想像しつつ、日本の未来への想像力をたくましくさせる、それこそが6回目の大地の芸術祭が観客に与える最大の土産なのだ。遍在可能であるがゆえに抽象的なモダニズムのアートでは到達不可能なところに観客を導く「別種のアート」の可能性が、そうしたところに示唆されていた。

2015/08/31(月)(木村覚)

相模友士郎『ナビゲーションズ』

会期:2015/09/25~2015/09/27

STスポット[神奈川県]

相模友士郎『ナビゲーションズ』の関東圏での公演が横浜のSTスポットで行なわれる。相模は、F/Tにて2010年に『ドラマソロジー/DRAMATHOLOGY』を上演、伊丹在住の老人たちが出演し、自らの生い立ちやいまの生き方についての語りによって構成される舞台が注目された。架空のドラマを役者に演じさせるのではなく、役者のなかにあるドラマを引き出して舞台化する劇作術は、おとぎ話的なイリュージョンを排した舞台のマテリアリズムを展開しているともいえるし、演劇に対する社会の今日的な要請に応える方法ともいえる。恥ずかしながら、筆者はこれまで、そんな相模の舞台を見ずに過ごしてきた。単に「知らなかった」といったら、四方八方からお叱りを受けそうだが、事実そうだったのだから仕方がない。過去の映像資料をお借りして、おおよそのフォローをしてみた立場としていうのだけれど、相模は間違いなくほっとけない作家である。ダンス・舞台芸術における1960年代以降のモダニズムを咀嚼して、そのうえで、いまなにをするべきかという問いに向き合っている。その意味で、まっとうな作家である。今回上演される『ナビゲーションズ』は、すでに相模の故郷福井で初演されたものだ。いまや舞台上演とは、一見、都市に集中しているようでいて、実のところは都市にいるかぎりでは数が多く華々しいばかりで、案外、目を見張るほどの良作に出会えないものなのだ。5月に仙台で上演された砂連尾理の公演や、越後妻有アートトリエンナーレの「上郷クローブ座」によるパフォーマンス・レストランなどが思い浮かぶ。そう考えると、福井での初演舞台が横浜で再演されるというのはとてもラッキーなことといえるだろう。『ナビゲーションズ』はダンスの作品、といってしまうと貧しくなるかもしれない。ものと身振りとの出会い、両者の拮抗による作品であるようだ。筆者は、9月25日のアフタートークで作家とお話しする予定。相模のことがよくわかる仕掛けを思案中。お見逃しなく。

2015/08/31(月)(木村覚)

歌劇ブラック・ジャック ─時をめぐる3章─ ~手塚治虫作「ブラック・ジャック」より~

会期:2015/08/30

アクトシティ浜松 大ホール[静岡県]

演出・あいちトリエンナーレオペラの田尾下哲 × 作曲・宮川彬良×脚本・響敏也である。時をテーマに3つのエピソードで構成しているが、手塚治虫のマンガ「ブラック・ジャック」でさえ題材にできるのだから(特に手術のシーン!)、オペラはあらゆることが表現できるのかもしれない。やはり原作のよさがひきつける。実際、選ばれたエピソードはどれも読んでいて、内容を覚えていた。美術・松岡泉は演劇「解体されゆくアントニン・レーモンド建築」でも担当した人で、三部ともテイストを変え、めまぐるしい展開をさまざまな趣向で表現している。

2015/08/30(日)(五十嵐太郎)

プレビュー:したため#3『わたしのある日』

会期:2015/10/01~2015/10/04

アトリエ劇研[京都府]

2015年、創作コンペティション「一つの戯曲からの創作をとおして語ろう」vol.5最優秀作品賞を受賞した、したためによる新作公演。
演出家・和田ながらのユニットであるしたための特徴は、予め用意された台本を用いず、出演者との会話を積み重ねる中から言葉を引き出し、時空間を構築していく方法論にある。公演に先立って、8月後半には途中経過がワーク・イン・プログレス公演として公開された。5人の出演者たちは、それぞれ「昨日使ったお金と内訳」「昨日見つからなかったもの」などの質問に対して、淡々と言葉を発して答えていく。垣間見えたような気がするその人の日常と、残された想像の余地。舞台上の見知らぬ他人に、いつしか淡い関心を抱いていく時間。そのゆっくりとした時間の醸成は、舞台上に佇む彼らのあいだにも起こっているようだ。「失くしたもの」の重さを誰かに聞いてほしくて、隣の人の腕を掴んで伝えるシーン。形にならないものが、言葉と身体感覚の両方でぎこちなくも伝えられ、隣の人へ次々に手渡されていく。そのとき、それまで断片化された情報の羅列として佇んでいた個人どうしの関係がふっと揺らぎ、親密さと危うさを孕んだ瞬間が立ち上がったことにはっとさせられた。
派手さや劇的な「演出」はないが、共感できるささやかなスケールのなかに、個人の輪郭とそれを形づくる記憶、記憶の共有(不)可能性、言葉の帰属先と個人の身体、さらには舞台上で発せられる「言葉」に誠実に向き合う態度とはどういうものか、などについて考えさせられる公演になるのではと期待したい。

2015/08/30(日)(高嶋慈)

KUNIO12「TATAMI」

会期:2015/08/22~2015/08/30

KATT 神奈川芸術劇場[神奈川県]

脚本はままごとの柴幸男、演出・美術は杉原邦生。「たたみ」をキーワードに繰り広げる、不条理劇である。これにひっかけて、巨大な畳が舞台美術として使われ、そこに見えない空間が立ち上がり、人生をたたもうとする父親と息子の不思議な会話が展開する。

2015/08/28(金)(五十嵐太郎)