artscapeレビュー
パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー
『“distant voices - carry on”──青山借景』
会期:2015/10/10~2015/10/12
スパイラルホール[東京都]
fieldworks(ハイネ・アヴダルと篠崎由紀子)を中心に、インスタレーションに梅田哲也、著名な日本人ダンサーたちも多数加わった、豪華な企画。スパイラルホールというビルのあちこちを前半は移動しながら、後半はフラットな舞台空間で上演が行なわれた。白い箱と黒い箱。大きいサイズもあれば、手の平サイズもある。前半は、観客7人ほどが組となり、1人のダンサーに連れられ、街やビル内の雑貨店などへとまなざしを促され、箱を見つけながら、時が過ぎていく。サイトスペシフィックな上演は、いまやまったく珍しいものではない。とくに越後妻有や瀬戸内を経験したあとでは、都心でのこうした形態の上演が「抽象的」に思えてしまう。越後妻有や瀬戸内では、美術作品を見ていたまなざしがその周囲に存在する自然や人の営みを思いがけず拾う、そうした不意の出会いが面白いのだけれど、ここでは美術作品は白と黒の箱に変わり、目が泳いでも、見えるのはいつもの街のアイテムたちで、新鮮な発見とはいい難い(この対比は、たんに住んでいる場所に依存するものかもしれず、地方在住の方たちは、この上演に新鮮さを感じるかもしれない)。ダンサーに案内される「見学旅行」は舞台裏を覗く楽しさがあるとしても、ダンサーの踊りの味わいは微弱だし、さて、なにをどう味わえばよいか……と思っていると、楽屋のエリアで目を瞑るよう指示される。そこでは、梅田哲也の演出する音響に耳を傾けることとなる。次いで、舞台空間に通されると、観客の前に、50個の白い箱が現われ、ダンサーたちはそれを押したり引いたり、組み上げたり、壁にしたりした。箱には音響的仕掛けがしてあって、各様の音がする。真っ暗になったり、爆音に包まれたりと、驚くことはあるが、諸々の要素にちぐはぐさも感じる。小さい箱と同サイズのアルファベットが出てきて、ダンサーたちは文章をつくり出した。あるときは「様々なひとが様々な仕方で同じものを理解するdifferent people understand the same thing in different way」という文章が現われた。最後には、冷蔵庫が舞台に持ち込まれ、なかにはスパークリング・ワインが入っており、その目の前には、今度は「あなたにこれをあげますyou will see what you get」との文章が。グラスを手にし、観客たちは歓談をはじめて、気づけば終幕。多様な刺激があったといえばそうだし、けれども、それらがほぼどれも微弱な刺激だったのも間違いなく、そんな塩梅が今日のコンテンポラリー・ダンスなんだよといわれているようで、でも、そんな戸惑いをワインが流してしまった。
2015/10/11(日)(木村覚)
LOUD PARK 15
会期:2015/10/10~2015/10/11
さいたまスーパーアリーナ[埼玉県]
ラウドパーク参戦。通常は耳と頭で聴くギター中心主義史観だが、初日は足下から響き、胸に到達し、バンドを牽引するドラムが印象に残った。初来日のGOJIRAと帝王SLAYERである。前者は異常に持続するマシンガン・ツーバス、後者は安定した早回しの時計のように高速のリズムを刻み続ける。2日目は、2つの共演が序盤に華を添えた。浜田麻里×高崎晃のギターは、ウルトラ・ハイトーンボイスに久しぶりの再会で懐かしい、という感想ではなく、いやいや彼女は昔よりカッコよくなっているのではないかと感心した。もうひとつが、KAMELOT×デス声ではない声でも歌う白衣のアリッサ嬢(アーチ・エナミー)である。HELLOWEENとGAMMA RAYは、想像以上にヨレヨレで、カイ・ハンセンの2日目サプライズ参加もなかったが、前者に名曲メドレーをやられると、さすがに盛り上がる。結局、2日連続で「I want out」を聴くことになった。一方、大トリのメガデスは正確無比のメタル・マシーンが演奏するかのような貫禄である。今回、デビュー時のレビューがすごくて名前を覚えた、ナパーム・デスのライブを初めて見る。これは前衛芸術だ。しかも、笑える。痙攣のような律動に多くの観客はノリ方がわからず、リフやコード進行が認識できないし、そもそも1分くらいの曲ばかりで反復する構成も少ない。常識的な曲の体裁をなしていないが、圧倒的な強度をもつ。個人的な趣味で言えば、ツインギター+keyの様式美を追求するドラゴンフォースとか、3ピースのカッコよさを見せつけるDIZZY MIZZ LIZZYとか、80年代懐メロの企画バンドは楽しい。が、音楽とは何か? の問いにはならない。そうした意味において、ナパームデスの音楽は、現代芸術的かもしれない。
2015/10/10(土)、2015/10/11(日)(五十嵐太郎)
ロベール・ルパージュ作・演出「Needles and Opium 針とアヘン──マイルス・デイヴィスとジャン・コクトーの幻影」
会期:2015/10/09~2015/10/12
世田谷パブリックシアター[東京都]
ギミックたっぷりの作品だ。すなわち、プロジェクション・マッピング×さまざまに開口が仕掛けられた回転するキューブの空間×重力に抗う俳優の動きによって、観客を驚かせる。会期中に建造物が回転することで、機能を変えていく、OMAのトランスフォーマーを思い出した。ただし、マイルス・デイヴィスとジャン・コクトーを交差させる物語は、思ったほどの説得力を感じなかった。
2015/10/09(金)(五十嵐太郎)
川村美紀子新作ダンス『まぼろしの夜明け』
会期:2015/10/09~2015/10/11
シアタートラム[東京都]
上演時間80分の内、最初の50分まで、舞台の上ではほぼなにも起こらない。『ボレロ』の舞台に似た舞台を囲み、観客はずっと立たされたまま、「なにも起こらない」ことの意味を探った。爆音でハウス系(?)の音楽が鳴り、照明はミラーボールその他があたりを照らしているのだが、スモークがときおり舞台を吹き付ける以外は、6人のダンサーはずっと寝たままだ。腕がちょっと上がったりするが、しばらくすると倒れてしまう。残り30分くらいからか、一人の上体が起き、するともう一人も背中が立ち、残り10分となるころ、一人立ち、二人立ち、最後の一人が両足で立ったかと思われた瞬間に、暗転。明転後に拍手はなかった。足早に帰る観客のなかには、明らかに不満を表わしている者もいた。この上演に、ポストモダン・ダンスとの関連性を推測したり「ノン・ダンス」なんて言葉を当てがったりするのは、筋違いだと私は考えている。あるいは、ゆっくりと起床する様に、審美的な評価を与えようとするなら、そのひとは便器にも美を見出すことだろう。ここにあるのは、デュシャンの連想に乗じてさらに遊戯的に説明するなら、「寝ているだけでも上演になる」という一種の錬金術だろう。ふざけてる。このおふざけを「不思議ちゃんの踊り子がしたこと」として受容することが、ふさわしいことなのかがわからない。彼女を「ダンス界のアンファン・テリブル」と形容するダンス批評は、上演を作品としてというよりも踊り手=恐るべき子どもの行ないとして捉えているのだろう。そこに置かれた「親」と「子」の図式に、川村も乗っかっているように見えるからやっかいだ。「ヒトは、どれくらい踊れるだろう?」とフライヤーにあって、そのうえでのダンスの不在。狡猾だ。けれども、その狡猾さが親に対する子の反抗のように思えてしまう。内輪でヒートしても、外部には伝わらない、外部は盛り上がれない。
2015/10/09(金)(木村覚)
バットシェバ舞踊団「DECADANCE─デカダンス」
会期:2015/10/04
神奈川県民ホール[神奈川県]
ダンサーが円形に並んで座るシーンから始まる「マイナス16」を冒頭にもってきた後、いろいろなレパートリーをつなぐ。昨年末にスペイン国立ダンスカンパニーもやっていたが、「マイナス16」は観客を巻き込みながら、盛り上げていく鉄板の演目である。多くの観客を壇上に上げるシーンでは、見知らぬ相手でも即座にアドリブ的に対応できる個々のダンサーの能力に感心させられる。
2015/10/04(日)(五十嵐太郎)