artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

ベッド&メイキングス第4回公演「墓場、女子高生」

会期:2015/07/17~2015/07/26

東京芸術劇場 シアターイースト[東京都]

タイトルどおり、墓場と女子高生の組み合わせの妙が効いている。とんでもなく生を謳歌する根本宗子ら、女子高生のパワフルさと、彼女たちが息抜きで集う墓場(の死者たち)。そして両者をつなぐ亡くなった友人=清水葉月が、物語をドライブさせるエンジンとなる。生者の記憶こそが、幽霊を存在させるという重いテーマを抱えながらも、歌あり笑いありの舞台だった。

2015/07/20(月)(五十嵐太郎)

声が聴かれる場をつくる──クリストフ・シュリンゲンジーフ作品/記録映画鑑賞会+パブリック・カンバセーション

会期:2015/07/20~2015/09/27

アートエリアB1[大阪府]

美術館や劇場といった既存の制度の枠内から路上に出て、多様な社会層の参加と議論の喚起を引き起こすクリストフ・シュリンゲンジーフのアクション/パフォーマンス作品の記録映画の上映会。ここでは、特に『外国人よ、出ていけ!』に焦点を絞ってレビューする。
『外国人よ、出ていけ!』は、オーストリアで2000年に、外国人排斥を掲げる極右政党が政権入りしたことを背景に、同国最大の演劇祭「ウィーン芸術祭週間」で制作されたパフォーマンス作品(『お願い、オーストリアを愛して!』)の記録映画。12人の「難民申請者」を1週間コンテナハウスに居住させ、内部の様子をネット中継し、「観客」の投票によって国外追放する外国人が毎日2人ずつ選ばれていくという、過激な仕立てのパフォーマンス作品である。広場に設置されたコンテナは、極右政党のスローガンやヘイト発言を掲げる人気大衆紙で飾られ、道行く人々はピープショーのように壁の隙間から覗くことができる。
記録映画を見ているうちに感じるのは、真/偽の境界が融解していくに伴って、「パフォーマー/観客・観察者」の関係に生じる、奇妙な反転である。移動の自由を奪われ、監視され、強制送還を待つ身の「難民申請者」たちには、不思議なことに緊張感が感じられない。コンテナ内部の映像を見る限り、彼らはリラックスした様子で、コンテナから「強制退去」される場面でも、顔こそ隠しているものの、理不尽な「投票」結果に抗議したり、人権侵害を訴えたりすることなく、無抵抗で歩いていく。彼らが「本物の」不法滞在者かどうかは、映画内では(おそらく故意に)曖昧化されている(常識的・倫理的には「本物」とは考えにくいが、サンチャゴ・シエラのように、不法就労者に賃金を払ってギャラリー内で「労働」させる作品の例もある。ただしここでは、「本物かどうか」が重要なのではなく、「投票による外国人追放劇が公共空間で実際にパフォームされること」、つまり将来的な可能性が社会実験として「上演」されることで、市民の中に賛否両論の嵐のような反応を引き起こすことが企図されていたと言える)。
コンテナ内の「難民申請者」たちの切迫感のなさや正体の不透明さとは対照的に、「観客」たちの方が、右翼・保守/左翼・リベラルの双方の立場から抗議の声を上げ、シュリンゲンジーフに詰め寄り、身振り手振りも豊かに語り出す。「観客」「観察者」「窃視者」であったはずの者たちの方が、むしろ俳優のように雄弁に振る舞い、現実社会の諸相を鏡のように映し出すのだ。差別意識、ナショナリズム、監視社会、投票というシステムの「正しさ」とそれに則った不寛容さ……。とりわけ傑作なのは、「我々は文化的な国家だ、オーストリアに対する侮辱だ」と抗議する人が、「ドイツへ帰れ!」とシュリンゲンジーフを罵倒し、はからずも差別意識をさらけ出してしまうシーンだ。
シュリンゲンジーフの戦略の巧みさは、自身の立場を左か右か表明せず、「政治的主張」として行なうのではない点にある。コンテナに掲げられた「外国人よ、出ていけ!」というショッキングなスローガンもまた、予想される極右政党の批判をかわす戦略である。「これはあなたたちの掲げているスローガンですよ」というわけだ。ただしこの文句を観客に向かって直接言うのではなく、文字で表示することで、主張の明確さとは裏腹に、メッセージは匿名性を帯びていく。誰が誰に向かって発した言葉なのか、主体と対象が曖昧なまま、メッセージだけが浮遊し、人々の感情的な反応を引き起こす。
では、単なる社会批判や政治的主張ではないのなら、シュリンゲンジーフの挑発的な試みのより深い意図はどこにあるのか? 路上で人々と向き合うシュリンゲンジーフは、スローガンに賛同する右翼や保守主義者/批判する左翼やリベラリストにかかわらず、相手の意見を否定せず、むしろ拡声器を渡して彼らに積極的にしゃべらせる。たとえそれが何語であろうとも、「あなたはあなたの言葉で話してよい」のだ。一時的であれ、感情を逆撫でする不快感を伴うものであれ、誰もが自由に発言できる、多層的な声を響かせることのできる空間を、公共の場に開いたこと。それによって社会の矛盾や歪みが露わになり、「発言者」自身や周囲が気づけば、なぜそうした社会構造や心理構造になっているのか? 変えるにはどうすれば良いのか? と考え始めるだろう。その先に、一人一人が政治参加者として主体的に考え始めることが、真に民主的な社会への第一歩ではないか。おそらくここに、彼が根源的に目指す地点がある。
アートには、「現実を直接変える」有効性はないが、意識を変える媒介としての可能性はある。本作は、「観客」であった存在が、舞台に上がった「俳優」として声を発し、しかしその「台詞」はメディアなど他の誰かによって用意されたものではないか? という自問を経て、「主体的発言者」へと至ることが賭けられた演劇作品であると言える。だから劇場の幕が下りて終わるのではなく、「幕が上がった」というシュリンゲンジーフの言葉で締めくくられるのだ。

開催日:2015/07/20、08/08、9/27

2015/07/20(月)(高嶋慈)

SEKAI NO OWARI「Twilight City」 in 日産スタジアム

[神奈川県]

巨大なツリーハウス、テーマパーク仕様の舞台装置が印象的だった。何曲か披露された最新作も攻めの姿勢である。西側スタンドは客席に使ってなかったが、アリーナを活用していたので、新国立競技場と近い、7万人級のスケール感がイメージできる。日産スタジアムは、プレキャストコンクリートで建設しているが、結局、新国立競技場もこうした早く、経済的な方法でしか建設できなくなるだろう。もっとも、東日本大震災の復興事業とオリンピックに合わせた首都圏の再開発ブームで、異常に建設費が高騰しているなか、白紙撤回によってさらに工期が圧縮されるから、高いお金を払って安普請するしかない。つまり、あまり建設費は下がらないのに、わざわざ凡庸な競技場をつくるわけだが、税金を投入する「国立」の施設が、本当にそれでよいのだろうか。

2015/07/19(日)(五十嵐太郎)

Q『玉子物語』

会期:2015/07/08~2015/07/15

こまばアゴラ劇場[東京都]

「モテたいんじゃなくて、育てたい」。ぴったりそう言ったかは定かではないけれど、こんな台詞が飛び出した。舞台はアパート。屋上が鳩小屋?みたいに金網張りになっていて、そこにちゃぶ台とテレビとしゃがんで漫画を読む女たちがいる。そこでは女たちが卵を産み、その卵を食すのがそこに住む女主人公の楽しみになっている。異生物同士の交尾やそれによるハイブリッドが話題になったり、ストレスフルな女性の狂気じみた1人語りが取り上げられたりと、女性のまなざしから見える世界が描かれるのはいつものQらしいところ。今作でとくに際立っていたのは、そうした一場一場がまるでひとつのコント(小話)になっていて、それぞれがそれだけでひとつのテンションを保って築かれていたことだ。物語の展開を追う面白さだけでなく、一つひとつの場が形成する人と人の関係の妙に没頭してしまう。白眉だったのは、きゃしゃでチワワのような目をしたある登場人物が、小太りでグレーのスウェット姿の男とバレエを踊るシーン。男はこの女性のオルター・エゴであることが後でわかるのだが、女のいわゆるバレエ的な踊りを、醜い男が繰り返し模倣する場面は、異性というよりは異文化の接近遭遇の瞬間のようで、爆笑ものだったし、なんといえばよいか、エロティックだった。以前の作品にも取り上げられていたケンタウルスと暮らす女のイメージは、今作でも出てきた。過剰な性欲をなだめてくれる女の脇で、何度も何度も白い液体を放出せずにはいられないケンタウルスは滑稽だが、その滑稽で気味の悪いものと、どう共存すればよいのかと本作は問いかける。「育てたい」は、だから、この世をどうにか肯定したいがゆえの一言だろう。Q(市原佐都子)の「肯定する意志」の射程が見えた作品だった。

2015/07/15(水)(木村覚)

野田秀樹「障子の国のティンカーベル」

会期:2015/07/12~2015/07/20

東京芸術劇場 シアターウエスト[東京都]

野田秀樹が一気に書き上げた若き日の原作をもとにした、マルチェロ・マーニ演出による、毬谷友子のひとり舞台である。なお、彼女以外は人形使いによる人形が登場し、その声は毬谷の腹話術だった。古今東西のイメージが連鎖していくファンタジーである。大人にならない永遠の少年と妖精、そして日本人形。ある意味で、年齢を感じさせない毬谷の存在こそが、もっとも妖精的だった。

2015/07/13(月)(五十嵐太郎)