artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

ままごと『朝がある』

会期:2012/06/29~2012/07/08

三鷹市芸術文化センター 星のホール[東京都]

本作に限らず、柴幸男の脚本に出現する数字が柴作品の独自性を形作っているのは間違いない。本作は、三鷹市と縁のある太宰治の作品をモチーフに舞台作品を上演する、三鷹市芸術文化センター企画の演劇シリーズ(今回で第9回目)の最新作。太宰の「女生徒」がもとになっているとのことだが、出演は男性が1人。彼が語り手となり主人公(「女生徒」そのままではなく主人公は2001年の女生徒)になりすましもしながら進んでゆく話の中心には、主人公がくしゃみをする一瞬が置かれている。この一瞬がストップモーションのようになったり、同時に起きたあれこれに目を向けたり、その瞬間から時間を数えたりして、些細な物事がいくつものほかの出来事と、はては宇宙の運行ともシンクロしてゆく。そこで用いられるのが数字。この瞬間がリプレイされる度に「くしゃみ、10分後」「くしゃみ、4カ月後」などの台詞が中心との距離を測る。ほかにも「太陽で生まれた光は、8分19秒かけてこの星までやって来て」とか「2キロ上空にある雨雲」とか「65年後にわたしは死ぬし」とか、数字は世界についてのある決定済みの認識を明示するように、観客の想像力を喚起しながら同時に観客に客観的事実を告げる。気になるのは、そうすることで生まれる俯瞰的あるいは超越的な視点のこと。それは柴の芝居を堅牢なものにする一方、構造を閉じたものにする。いやいや、音楽のリズムや舞台美術(舞台の床面や壁面に映写される映像も含め)が役者の喋る言葉・身体動作の一つひとつと見事に対応し、全体がミュージカルのように協和しているさまは見事で、ままごとの力量を体感する時間であったことは間違いないのだ。そのうえで、すべてが連鎖し互いに共鳴していることの不思議さは、超越的なものの存在を自ずと意識させることになるけれども、その分、異質なものたちのノイジーな接触はきれいに回避されている、そう見えたのも事実。すべての連なりが「オン」ビート、だから「オフ」ビートが聞こえない。それ故に、と言うべきか、本作は美しかった。その美しさをただ絶賛することに、ぼくはちょっと躊躇してしまう。

2012/06/30(土)(木村覚)

康本雅子『絶交わる子、ポンッ』

会期:2012/06/28~2012/07/01

世田谷パブリックシアター/シアタートラム[東京都]

なによりタイトルがユニーク。奇妙に融合した言葉たちを分解すれば「絶交」「交わる」「わる(悪/割る)子」「ポンッ」。「交わる」とはひょっとして「性交」の意? 「絶交」と「性交」の関係は? 「ポンッ」ってなんの音? 会場アナウンスでこのタイトルを係員が読み上げたときの浮いた感じといったらなかった。これはなにか起きそう!と弾んだ期待。しかし結果は、その期待を何倍か凌駕するパワーとアイディアが詰まった、いや、それ以上に彼女個人の強い思いがたっぷり詰まった直球の剛速球(=傑作)と言うべきものだった。テーマはやはり「性」、というより「性交」で、例えば、男と女は不穏な物音のオノマトペを呟き、向き合えば腹に挟んだティッシュ箱から白い紙を飛ばす。そのほか「この角度以上に踏み出すとまずいみたい」といった自己規制を確信犯的に踏み越える表現がちらほら。なんて「わる(悪/割る)子」なんだ!と思っていると、たんに「性交」というより「男と女の生活」が互いの弱さも狡さも嘘も隠さず描写されていることに気づかされ、康本の狙いの深さに感嘆してしまう。それにしても、頭に包丁の刺さったカップルが現われたり、線香が刺さったバースデーケーキが舞台の隅で煙を上げていたりといった場面はさすがに強烈で、笑い飛ばせずシリアスな気持ちにもなる。そう、康本はいつも舞台をアンビバレンスな宙吊り状態に置くのだ。康本が男(遠田誠)をぎゅっと抱きしめた直後「違う」と投げ飛ばし、また抱きしめまた「違う」と絶叫するシーンはその代表例。複雑で曖昧な人間存在の深さにダンスの公演はここまで迫れるものなのかと唸らされる。ピナ・バウシュの作品から受ける感動に近いが、ダンスの面白さは康本独自のものだ。オオルタイチの音楽は康本を上手く刺激したようで、どのジャンルからも自由でユニークな動きが次々繰り出されて、ハッとさせられ続けた。最後に、精子/卵子を想像させる数百個のピンポン球が天井から落下した。そのうえでまた康本は踊った。これもまた、死と生と性という身体の芸術であるダンスならば扱うべきテーマが濃縮された瞬間だった。

2012/06/28(木)(木村覚)

プロジェクト大山『みんな しってる』

会期:2012/06/23~2012/06/24

スパイラルホール[東京都]

2年前、トヨタコレオグラフィーアワードの「次代を担う振付家賞」をプロジェクト大山が獲得した。そのときぼくが思ったのは、トヨタのような現代(現在)のダンスに賞を与える場で、彼女たちのようなダンスを、というよりも彼女たちのダンスが基礎にしているダンスを評価する時代が来たということだった。ときに人はそれを「正統派」と呼ぶ。ぼくは見聞が狭くどう形容すべきかわからないのだが、ひとつ感じるのは、大学の教え子たちが高校時代に励んでいたといいながら貸してくれる、いわゆる「創作ダンス」の映像に似ているということだ。トヨタの受賞作品と同様、本作からも「創作ダンス」に似ているという印象を受けた。曲ごとに構成された振付は、激しかったりユーモラスだったりするポーズが挟まれるとしても、基本的には独特の美しさやフォーメーションの正確さ、独特のシャープネスを表現することに専心する。珍しいキノコ舞踊団やニブロールといった日本のコンテンポラリー・ダンスの女性作家たちが振付を通して示そうとした「等身大の若者」像は、本作からも読みとれなくないのだが、それより明らかなのは、目の前にいるのが「踊りたい女子たち」ということ。踊りでなにかを表現すること以上に、踊ることそれ自体を欲している「踊りたい女子たち」。彼女たちを駆り立てているのは、芸術的な表現欲というよりも体育的な運動欲に映る。そう思うと、フィギュアスケートやシンクロナイズドスイミングを見るときのように正確さや形の美しさに興味が湧いてきて、見る目が普段とは違ってくる。それをコンテンポラリー・ダンスの多様化として歓迎すべきなのかはわからない。ただし、気になったのは、その「創作ダンス」的なものの価値それ自体が作中で問われなかったことだ。そのことに違和感が残る。なぜこの系統のダンスを「踊りたい」のか。それが見る者に説得的に伝わってくるならば「踊りたい女子たち」の欲求もひとつの見所になりうるかもしれないのだけれど。

2012/06/24(日)(木村覚)

ナカフラ演劇展

会期:2012/06/07~2012/06/20

こまばアゴラ劇場[東京都]

久しぶりに訪れた駒場にて、ナカフラ演劇展のCプログラムを鑑賞した。3つの短編を上演したが、最後のおまけ「マクベスのあらすじ」が特に印象的だった。10分で本当に物語の粗筋を生身の俳優が演じる。だが、文字で読む粗筋と似ているようでまるで違う。文字は不要な情報を削ぎ落し、内容を抽象化しているが、生身の人間は表情、衣装、音声、動作など、それ以外の多くの情報を必然的に抱え、それを聴衆に伝達してしまうからだ。ゆえに、粗筋による物語の裁断は暴力的なインパクトを感じさせる。むろん、基本的に演劇はリアルタイムだけではなく、場面が変わるごとに時間が飛ぶものだが、さらに時間を編集した粗筋で感じる奇妙さと、どこが境界線になるのかを考えさせられた。

2012/06/14(木)(五十嵐太郎)

五反田団『宮本武蔵』

会期:2012/06/08~2012/06/17

三鷹市芸術文化センター 星のホール[東京都]

「剣豪演劇」と自称する五反田団の新作は時代劇。しかし、派手な殺陣が披露されるわけではなく、主人公が宮本武蔵であるにもかかわらず、五反田団らしいいつもの日常的情景が描かれた。山の湯治場、3部屋だけの宿に集う男たち女たち。作・演出の前田司郎演じる宮本は、その宿のなかで、自分が誉れ高い存在であることを隠そうとしない。この「誉れ高い存在」という自意識が芝居を牽引する。威張ったり、照れたり、すがったり、自意識はあれやこれやの芝居を宮本に演じさせる。だが周囲の者たちは、宮本がそう思い込んでいるように彼を尊敬するわけではない。宮本の勘違いが導く滑稽さ、情けなさ。そこにフォーカスするのが前田らしい。そもそもメディアが発達していない時代のこと。目の前の人が伝説の人物かを客観的に確かめることは難しい。宮本は孤独な剣士であるばかりか、孤独な演技者となって、この世に浮遊し続ける。「この宮本、中学生みたいだな」などと思わされる、前田お得意のコミカルな人間像は、そのまま喜劇として楽しんでも十分味わいがあるのだけれど、人間というものが生来有している自意識の姿そのものをそこに見るような気がして、人間というものが情けなくまた愛しく思えてくる。そういえば2006年の『さようなら僕の小さな名声』も「名声」をめぐる作品だった。自らの名声を誉れ高き人間にふさわしく他人に譲るという話で、前田自身が本人役で出演していた。本作は、人間の自意識の姿を描くこうした作品の系譜に属すものといえるかもしれない。

2012/06/13(水)(木村覚)