artscapeレビュー
パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー
大橋可也&ダンサーズ「高橋恭司展『走幻』パフォーマンス」
会期:2012/10/07~2012/10/28(毎週曜)
NADiff Gallery[東京都]
写真家・高橋恭司の展示に関連して行なわれたパフォーマンスは、4週連続毎回4時間(最後の30分がコアタイム)という異例の形態をとった。しかも会場は、ギャラリースペースと繋がる美術系書店の店内。事情を知らないでやって来た本が目当ての客のなか、6人のダンサーたちは幽霊のように徘徊し、ときに床や壁に体を叩きつける烈しい動きもすれば、ときに客と並んで本を開いたりもする。劇場とは違って至近距離で踊るダンサーたち。女性たちの露出した肌や男性たちの汗など、近すぎてどう見たらいいかとまごつき、迫ってくると目を逸らしたりしてしまう。なにやってんだ、俺。いや、こんな戸惑いこそこうした企画の醍醐味であって、劇場空間ではえられない感覚が痛気持ちよかったりするのだが。そういえばNADiffが原宿にあった10年前、KATHYも同じように店内を徘徊するパフォーマンスを行なった。ただKATHYが頭に黒ストッキングを被っていたのと違って、大橋可也のダンサーたちは目がむき出しだ。迫ってくると目を逸らしてしまうのは、なによりもダンサーと目が合ったとき気まずいから。ダンサーは踊りに没頭する「憑依した目」のみならず、冷静に空間を感じ客に衝突したり本を散らかしたりしないようにする「働く目」も携えている。「働く目」を観客が見ないことにする(観客に見せないことにする)ことで、ダンサーは「働く目」を隠し「憑依した目」をしたダンサーになる。やっぱりそういう意味では、ダンサーは人形だ。いや人間が踊ったっていいはず、でも大橋は人形をダンサーに求めたんだ。4時間の上演の真ん中1時間半ほど見て、帰りの電車のなか、コアタイムをUstream中継で見た。カメラ越しの彼らを見ることに気まずさはない。ネットコミュニケーションがぼくたちに与えたものと奪ったものを確認した。
高橋恭司「走幻」大橋可也&ダンサーズパフォーマンス20121014(抜粋)
2012/10/28(日)(木村覚)
ウィーン国立劇場2012日本公演 G.ドニゼッティ「アンナ・ボレーナ」全2幕
東京文化会館[東京都]
会期:2012/10/27、10/31、11/4
東京文化会館にて、オペラ『アンナ・ボレーナ』を見る。英国王ヘンリー8世の無茶苦茶に翻弄され、死刑にされた女王の物語。引退を発表したアンナ・ボレーナ役のソプラノ、エディタ・グルベローヴァ(65歳!)の独唱がすさまじい。超高音の波動がホールの隅々まで突き刺す、圧倒的な存在感だった。舞台美術も興味深い。パースを効かせた台形の大きなフレームの箱が、物語の展開に従って、少しずつ回転しながら、あるいは開口部の大きさを調整することで、さまざまな場に変容していく。例えば、ウィンザー城の広間、居室、森、建物の外部、牢獄、裁判などである。
2012/10/27(土)(五十嵐太郎)
青年団+大阪大学ロボット演劇プロジェクト:アンドロイド版『三人姉妹』
会期:2012/10/20~2012/11/04
吉祥寺シアター[東京都]
舞台は天才と称されたロボット研究者・深沢のリビング・ルーム。逝去して3年が経ち、父の遺言で海の見える墓地に墓を移すことにした家族。買い物はロボットが行なうので「ショッピングの楽しみ」なるものが機能しなくなった未来では、デパートはすでに過去のもの、ショッピングモールさえ意味を喪失しつつある。この家庭には、深沢が製作したロボット一台と深沢の娘を代理するアンドロイド一台が暮らしている。物語は、これら父の製作した二台の機械と父が母と産み育てた3人の娘と1人息子を中心に進んで行く。シンガポールへ赴任が決まった深沢の弟子・中野の送別会をひらくために集うひとたち、彼らをもてなす料理は買い物も含めロボットが行なう。優れたロボットとは対照的に、父の子たちは、1人は引きこもりに、1人は研究者になることを断念、1人は中年になって結婚せず、1人は夫の不倫で離婚を考えており、端的に言えばみな父の失敗作だ。ときにその失敗は父のせいとみなされる。これはゆえに、ギリシア神話に登場する王ピュグマリオンをめぐる物語である。しかもこの内容は、実際にロボットとアンドロイドを舞台に登場させ人間の役者と演劇を行なわせるといったこの芝居の形式とパラレルであり、観客は自ずと、目の前のロボットやアンドロイドと人間の役者たちの存在のあり方、両者の違いへと思いを傾けさせられることになる。すると、当たり前だが、役者が生体であることをつくづく感じさせられるのだ。役者はロボットやアンドロイドと同様、台本というプログラム通りに作動することが求められる。ただし、役者はただプログラムをアップロードすればよいわけではなく、ある生の状態(非演技の状態)を別の生の状態(演技の状態)へと変容させなければならない。この変容に際して生じる役者の緊張や失策や危機の切り抜けが演劇を見るということの醍醐味なのだ、なんて当然のことに思い至る。この「変容」までも機械が手にするときは来るのかもしれない。そのとき機械は機械独自の「生」を手にすることだろう。ただしそれまでは、生身の役者を私たちの目は求めることだろう。
平田オリザ×想田和弘 アンドロイド版『三人姉妹』10/21アフタートーク
2012/10/27(土)(木村覚)
室伏鴻『Krypt──始めもなく終わりもなく』

会期:2012/10/20
鎌倉生涯学習センターホール[神奈川県]
舞踏家・室伏鴻の希有な所作に〈言葉を漏らす〉というものがある。踊りの最中、不意に喋る。踊りがたいていの場合踊り手の陶酔とともに生じるとすれば、その酔いを自ら醒ますかのように言葉が踊り手の肉体から漏れる。本作では、60分ほどの上演が40分を超えたあたりだったか、94才の認知症だった母が昨晩亡くなったと言葉が漏れ出した。火葬した骨の話に及ぶと、全身を銀色に染めた男の肉体にも同じ骨が、いつか白い灰と化す骨が存在していることへ、思いは吸い寄せられた。非人間的というよりも非有機的に見える銀の肉体は実際のところ生ある存在であり、そしていつか死する存在である。そして、そう思ったときはたと気づいたのは、室伏は死の側から生へ向けて踊ってきた踊り手だった、ということだった。大抵、踊り手は陶酔し忘我へ至ることで死へと接近するものである。とすれば、それとは反対に、室伏はずっと死者として舞台に立っていたのではないか。おかしな、矛盾した表現だが、室伏は生の衣を纏った死者である。そう考えると道理が行く。そうであるならば、core of bellsの瀬木俊を中心とした若い音楽家たちの演奏が室伏の踊りにフィットしていると感じさせたのは、彼らの振る舞いが、盆に親と帰省した孫が亡き祖父とおかしな交信をしているようなものだったからかもしれない。「おかしな」と書いたが、若い音楽家たちは室伏の踊りを認めながら、踊りに従属することなく、ギャップを抱えながらうまく遊んでいたということだ。死者があらかじめ「出(ex-)てしまった存在」であるとして、その死者・室伏の存在が硬直化するのを回避し、死者が死者のまま活性化しうるとすれば、そうした「おかしな交信」を実行してしまう他者の存在が必要なのかもしれない。
2012/10/20(土)(木村覚)
山下残『ヘッドホンと耳の間の距離』

会期:2012/10/10~2012/10/14
STスポット[神奈川県]
『北斗の拳』や『ジョジョの奇妙な冒険』を彷彿とさせるおかしな表情やポーズを取りながら、若い男二人が声を漏らしたり床を踏みしめて音を立てたりするのを、マイクロフォンが拾って、アンプから増幅した音を出す。50分の舞台で起きるのは基本的にこれで、仕組みとしてはさほど目新しくないとも言えるのだが、視覚も聴覚も刺激するしっかり充実した上演であった。どんな動きでも体は勝手に音を出しているもの。ダンスだからと言って視覚的な動きにだけ注目するのではなく動く際の勝手に出た音にも注目し、それを採集して、アクションペインティングならぬアクションプレイング(演奏)にしたのが面白い。それは確かにそう、しかし、ただ採集したのではなく、大事なのは、瞬時にディレイやリバーブで加工することで、音は動作から離れ一人歩きを始め、そのうえでなおも音の源である体の近くに居座っていることで、その効果が面白さを倍加させていた。四つん這いになって倒れ込むと両膝と両腕で床を叩くことになるが、その音が過剰にヴォリュームを上げられ、リバーブもかけられなどされると、まるで漫画の効果線みたいな効果を与える。四つん這いの姿を置いていけぼりにして、音が勝手に過激化する。視覚像と音像のギャップがおかしくて、身体の見え方が変わってしまう。そんな仕掛けがじつに巧みだ。それよりなにより、このポーズ(動き)を取らせるか!と山下残のセンスがずるい。それは山下が既存のダンスにとらわれずにダンスをつくっているからこそのものだろう。そう、ダンス作品を面白くするのもつまらなくするのも、作り手が「ダンス」なるものにどう囚われているのかを自覚し、その囚われからどう自分を解放しようとするのかにかかっている。
2012/10/14(日)(木村覚)


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