artscapeレビュー
パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー
笠井叡×麿赤兒『ハヤサスラヒメ 速佐須良姫』
会期:2012/11/29~2012/12/02
世田谷パブリックシアター[東京都]
ダンサーとは錬金術師ではないか。あるいは、七五三の子どもをカメラに向かせようと「鳩が出ますよ!」と口にするカメラマンではないか。笠井叡と麿赤兒。ともに1943年生まれ。舞踏の黎明期から活動してきた2人が、真っ向からぶつかり合った宣伝に偽りない「事件」的上演は、ダンスという表現が独自に有している「嘘の真実性」とでもいうべき不思議な質を大いに湛えていた。ベートーヴェンの「第九」が、第1楽章から律儀に最終楽章まで大音量で流れ続けるなか、笠井が率いる天使館の若者たち4人の肌色の肉体と麿が率いる大駱駝艦の若者4人の白塗りの肉体とが、ときにバトルするように、ときに協働しながら、舞台を縁取ってゆく。そのなかを、笠井はラメの入ったズボンを履いて、まるでミック・ジャガーのようなアグレッシヴでときにコミカルなダンスを繰り出し、対して麿は巨大なカツラにロングドレス姿でのっそりとまたときどきなにかに翻弄されているかのような仕草をして徘徊する。彼らの動作は、バレエやモダンダンスといったオーセンティックなダンスとはほど遠い。そうしたダンスならば約束される美しさや様式性を見せることはない。あるいは、若いダンサーたちが体現する高い身体能力も彼らの身体とは縁遠い。ゆえに、2人の動作は「とんでもないなにかがここにはある」と約束しながら、その約束を延々と先延ばししているような詐術を感じさせる。いや、これは非難ではない。若い身体が現在の躍動を通して未来へ向かう可能性を示すのとは異なり、不可能性を意識させる初老の身体が語るのは、現世とははかない夢であるという真実である(とはいえ、彼らはまだ初老というのもはばかれる溌剌としたところがあり、もっと老いたほうが若い身体とのコントラストは際立ってくるだろう。大野一雄がそうであったように、10年後の彼らの身体こそ見物であるのかもしれない)。「三途の川をみんなで渡ろう」なんて台詞も笠井の口から漏れたが、2人の大袈裟でルール無用の振る舞いは、生の無意味さを嘆くのでも、意味あるものに無理やり変えようというのでもなく、ただ無意味さの周りで戯れるのだという意気込みばかりですがすがしい。「第九」の最終楽章が舞台を煽りに煽って「偉大ななにか」が立ち現われたかに見えた瞬間、音響のヴォリュームが急に下がり、それまで躍動していた若いダンサーたちがすっといなくなり、2人は舞台に取り残された。夢は消えた。あるいは、生はそもそもはかない夢だった。結局、鳩は出たのか、出なかったのか。定かではないが、「鳩が出るよ」の叫びの持つ人間的な真実に向き合うことができたことは間違いない。
笠井叡×麿赤兒 『ハヤサスラヒメ 速佐須良姫』
2012/11/30(金)(木村覚)
神田コミュニティアートセンタープロジェクト「TRANS ARTS TOKYO」
会期:2012/10/21~2012/11/25
旧東京電機大学校舎11号館ほか[東京都]
神田のTRANS ARTS TOKYOを訪れた。解体予定の旧電機大学の校舎がまるごと展示空間になっており、ぶっとんだ学園祭のようである。13階は建築系だが、たぶん少ない予算のため、大量の紙を貼る+映像といった類似した展示のパターンが多い。最近はどうしても展示環境を見てしまうのだが、改めて学校空間は出入口を管理しやすいと気づく。
2012/11/16(金)(五十嵐太郎)
美しい星|フェスティバル/トーキョー
会期:2012/11/12~2012/11/20
The 8th Gallery(CLASKA 8F)[東京都]
ピーチャム・カンパニーの「美しい星」を観劇した。核の恐怖を背景とした三島由紀夫のSF(!)的な小説が原作である。舞台装置はミニマムにおさえる。本編は少し長過ぎると思ったが、クラスカの8階から屋上へと場所を変えたエピローグの空間環境の素晴らしいこと! 狂言まわしは「ゴドーを待ちながら」のエストラゴンとヴラジーミルが重なる。
2012/11/12(月)(五十嵐太郎)
TAT Performing Arts Vol. 1(Abe "M"ARIAほか)
会期:2012/11/04
TRANS ARTS TOKYO(旧東京電機大学11号館)[東京都]
神田の街に「神田コミュニティアートセンター」をつくるためのプロローグとして開催されたTRANS ARTS TOKYO。このアートイベントの一環で「吾妻橋ダンスクロッシング」やSNACでおなじみの桜井圭介がキュレーションしたのがこの「TAT Performing Arts Vol. 1」。11月25日にはVol. 2も行なわれた(筆者は未見)。本イベントでは三組(Abe "M"ARIA、core of bells、危口統之[悪魔のしるし])が出演したが、冒頭に出演したソロダンサーのAbe "M"ARIAによるパフォーマンスが強烈だった。彼女は、いわゆるコンテンポラリー・ダンスの枠で括られることの多いダンサーで、10年以上単独公演や路上パフォーマンスを行なってきた。パンキッシュな下着姿で猛烈に速く腕や脚や胴体をやや痙攣気味に動かすさまは、10年以上前に筆者が初見したときから一貫している。その速さや強さ、また古い大学校舎の扉を蹴飛ばしては舞台となる教室を出たり入ったりするその暴力的な雰囲気もさることながら、際立っていたのは、観光地の猿の如く観客の頭を突っついたりするといういわゆる観客へのいじりだ。ラストシーンでは、観客のめがねを次々と奪っては戦利品を鑑賞するように床に並べたり、身につけてみたりし、観客の爆笑を得ていた。得体の知れない怪物のような存在が観客をいじる。その傍若無人な様子が痛快といえば痛快。彼女の前では黙ってなされるがまま、観客は石となる。ただし、解散が予定されているバナナ学園純情乙女組が観客にわかめや豆腐や水を投げかけ、舞台と観客をスープのように混沌化してしまうパフォーマンスを知っているいまとなっては、そのコンタクトは舞台/客席間を侵犯する激しさよりも、〈無鉄砲な女の子の暴走〉という日本のコンテンポラリー・ダンスらしいイメージの枠内に収まってしまっていると感じないわけにはいかない。そもそも、コンタクトを通してなにをしたかったのだろう。暴走する異物として観客とのディスコミュニケーション状態を出現させたかったのか、しかし、その結果は、そのパフォーマンスが観客に対して他者への気づきを喚起するというよりも、〈ちょっと困ったコがいる(不思議ちゃん?)〉として括られてしまうだけのような気がしてしまった。ぼくもいじられた1人だった。一番派手にいじられた。ただいじられるのがいやでわざとこっちから体をくっつけてみたり、声をかけてみたりとこっちもいじろうとしたからだ。けれども、どうあがいても、彼女のパフォーマンスのための客体にしかなれないと思わされ、寂しい気持ちになった。
2012/11/04(日)(木村覚)
プレビュー:笠井叡×麿赤兒『ハヤサスラヒメ 速佐須良姫』、公開パフォーマンス「小林耕平×山形育弘(core of bells)」
[東京都]
今月は、F/T関連の公演に注目が集まると思いますので、このプレビューではあえてそれ以外をとりあげることにします(もろちん、アンチF/Tというわけではありません)。
今月の話題作と言えば、日本のダンスシーンを40年以上牽引し続けた笠井叡と麿赤兒がタッグを組む『ハヤサスラヒメ 速佐須良姫』(2012年11月29日~12月2日@世田谷パブリックシアター)だろう。土方巽が語った「踊りとは命がけで突っ立った死体である」の言葉のように、舞踏とは矛盾を抱えた、レトリカルなものであり、嘘、冗談、異常に見える生真面目さなどが際立ったとき、ある独特の力を漲らせるものである。初共演という2人のぶつかり合いからそうした力がスパークするのか、期待したい。
もうひとつ、面白そうな企画あればそこにCxOxBありといった感じで昨今大活躍中のcore of bells。「TRANS ARTS TOKYO」や「CE QUI ARRIVE 2012──これから起きるかもしれないこと」といったイベントへの出演にも注目したいが、彼らが継続的に行なってきた美術作家・小林耕平とのセッションも忘れてはならない。11月22日に山本現代で行なわれる個展「あなたの口は掃除機であり、ノズルを
手で持つことで並べ替え、電源に接続し、吸い込むことで語る」に関連した公開パフォーマンス「殺・人・兵・器」は、9月に東京国立近代美術館で行なわれた「14の夕べ」でのパフォーマンス同様、パフォーマンス研究者の伊藤亜紗がテキストを書き、その解釈のために小林制作の構築物が用意され、小林とcore of bellsの山形育弘が構築物をとおしたテキスト解釈に挑む。「14の夕べ」ではテーマはタイムマシンだったが、今回はさらに奇妙奇天烈なテーマが用意されるそうだ。
笠井叡×麿赤兒『ハヤサスラヒメ 速佐須良姫』 - Hayasasurahime - pv1 for pc
2012/11/01(木)(木村覚)