artscapeレビュー
パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー
FUKAIPRODUCE羽衣『耳のトンネル』

会期:2012/03/09~2012/03/19
こまばアゴラ劇場[東京都]
女性主体の劇団による公演には、それ以外の大多数の演劇にはないなにかがあって、そこには演劇というものの通念をひっくり返す力が見え隠れしている。定型のフェミニズム的な批判意識を彼女たちに見ているというわけではない。ぼく個人の偏見なのかもしれないけれど、快快なり、バナナ学園純情乙女組なり、またこのFUKAIPRODUCE羽衣(作・演出・音楽は男性の糸井幸之介、でもプロデュースは深井順子で、彼女の磁力はとても強く舞台で作用している)なりを見ると、「ふざけているのか!」なんて思わされつつ、そんな思いこそ「正しい演劇」というよく考えればくだらないマッチョな規範意識に縛られているだけではと反省させられるくらい、驚くようなダイナミズムに圧倒させられることがよくある。藤田貴大(マームとジプシー)や柴幸男(ままごと)が戯曲で女性の生活を丁寧に扱いつつ、上演形式においては今日の演劇動向にきわめて「正しく」応答しているのと対照的に、彼女たちはそうした正しさとはほとんど無縁に、それよりも自分たちにとって大事なことを優先させている気がする。
本作もまさにそんな作品で、深井曰く「がっつり系」の芝居は大声でオーバー・アクションの元気な演技。ミュージカル(レビュー)仕立ても手伝って観客は失笑と微笑で応じてしまう。こうした脱力は、観客に批評意識という武装態度の解除をうながしているようだ。物語は他愛ない。恐ろしいほどにあっけらかんと性(欲)が描かれる点で、その根底にあるのはしかし、母性的なものである。冒頭は、おっぱい吸いたい男子が赤子のようになると、女子も母のようになって自分の乳を捧げる。中盤には中学生の恋愛が描かれ、終盤には中年になった男の旅が描かれる。恋愛物語は「リア充」と称されバリアになりかねないが、最終的に母性的なものが充満していくことで、すべての人の癒しへ転換する。舞台にも本人役で登場していた深井の存在感こそ、なにより母性的なものを帯びていた。快快にもバナナ学園純情乙女組にも程度は違えども感じることなのだけれど、彼女たちの観客へ向けた歓待の態度は観客との「つながり」を強く望んでいるようだ。観客を強く抱き、一体化し、それによってなにをしようというのか、それはまだ見えない。
2012/03/12(月)(木村覚)
プレビュー:FUKAIPRODUCE羽衣『耳のトンネル』、大駱駝艦(演出:高桑晶子)『おやま』ほか

『耳のトンネル』というタイトルで、FUKAIPRODUCE羽衣の上演がこまばアゴラ劇場(2012年3月9日~19日)で行なわれます。自分たちの舞台をミュージカルならぬ「妙ージカル」と称する彼らは、猛烈に身体をたぎらせ燃やして、アングラのようなファンタジーのような不思議な世界を歌い踊り演じる。失笑しながらいつのまにか飲み込まれてしまう独特の舞台。これが、今月の推薦公演です。今月はほかにも大駱駝艦(演出:高桑晶子)壺中天公演『おやま』(2012年3月15日~20日)がありますし、イデビアン・クルーなどで活躍するダンサー中村達哉と私的解剖実験で知られる手塚夏子がコースリーダーになって新人作家たちが創作・発表するSTスポットの企画「ヨコラボ」も気になります(ヨコラボ'11b民俗芸能調査クラブ『春の実験まつり──本当にひとごとなのか?』=2012年3月3日~4日@STスポット、ヨコラボ'11A集団創作コース 最終発表『のりしろ』=2012年3月6日~7日@象の鼻テラス)。「ヨコラボ」は「ラボ20」と呼ばれ、2000年代数々の新しい才能を引き出した伝説的企画がもとになっています。その意味でも、二人が見出し、育てたニューフェイスに期待したいところです。
2012/02/29(水)(木村覚)
蓮沼執太×山田亮太(TOLTA)『タイム』
会期:2012/02/19
KAAT中ホール[神奈川県]
美しいカオス。60分の上演を一言で言えばそうだろう。公演情報からは「音楽家と詩人のコラボレーション」というイメージを強く抱かされたが、ふたをあけてみると音楽演奏と詩の朗読のみならず、演劇やダンスの要素も絡まりあったパフォーマンスが展開された。体育館に似てがらんとした空間の真ん中が舞台の大部分、その周りを観客が囲む。観客の座るあたりに通路が敷かれ、そこでもパフォーマーたちが走ったり詩を読み上げたりするので、客席/舞台の境ははっきりしない。ダンサーや美術作家があちこちで各々の上演を展開する、半世紀以上前にジョン・ケージが行なった公演『無題イベント』にそれは通じていそうだ。しかし、多様な表現が共存するという共通点はあるとしても、明らかに異なるのは各パフォーマーが詩と音楽を手だてにつながっているところだ。そこにカオティックでありながら美しいことの理由がありそうだ。森の路をうろうろしているときのように、あちこちから声が聞こえ、楽器の音が聞こえ、歩いたりポーズをつくったりする人が目に映る。淡々と、結論へ向かうのではない時間が進む。エコロジカルなんて言葉も浮かんでくる中心のない舞台。ただし、でたらめには見えない。そこには、詩による統一があり、音楽による統一があり、詩と音楽との響き合いがある。この美しさはある見方からすれば、反動と映るだろう。演奏の合間にあちこち歩き回りながら、演奏者のみならずパフォーマーたちにも指示を与える指揮者としての蓮沼の立ち位置は、そうした見方からは専制的に見えるかもしれない。終幕の直前、蓮沼は意図的に観客に終幕を意識させつつ、腕を大きく振って拍手をうながすと、観客までも上演の一部にした。こうした振る舞いがいやらしく見えないところに蓮沼の特異性を感じてしまう。その特異性が、各人の即興に任せて生まれるものとは別の、カオティックだが美しい時間を成立させていた。
2012/02/19(日)(木村覚)
快快『アントン、猫、クリ』

会期:2012/02/16~2012/02/20
nitehi works[神奈川県]
快快の作品で、もっとも方法的な実験が試みられている本作。今回二度目の再演となったように、快快たちは本作での実験作業がとても楽しいようだ。目下パーティ・ピープルとしての認知度が高い彼らだけれど、登場した当初(とくに小指値時代)はなにより、ポスト・チェルフィッチュを強く感じる方法を見せた劇団であった。かつてぼくは彼らの方法を「あて振り」と呼んで論じたことがある(『レビューハウス』No.01にて)。あて振りとは、歌の文句に即して身振り動作で具体的に表現することを指す日本舞踊の用語。たいてい歌い手と踊り手が分かれている日本舞踊において踊り手の動作が歌詞を図解して見せるやり方があるように、1人がひとつの役柄を担う演劇の約束ごとを中断したうえで、快快の役者たちは身体で台詞のイメージ化を行なうのだ。
例えば、本作において「雨、雨、雨、雨……」と口ずさみながら、それぞれ雨の動きや質感を役者たちが体で表現する。その際の台詞は登場人物の発言というよりも、多くがいわばト書きにあたる言葉である。舞台上の4人は、小道具の少ないシンプルな舞台を小刻みに動き回りながら、一般的な芝居ならば書き割りがはたしている情景の描写に多くの時間を費やす。次々変化して行く景色を人力で描いていくさまはそれ自体で面白く、各人の芸達者振りも加わって、器用な動きで魅了される。こうした方法は、台詞から溢れでてくる無意識の身体動作を拾い上げたチェルフィッチュの方法と、台詞とはほぼ無関係に独自の様式性をおびた身体動作(ほとんどそれはダンス)を行なうニブロールのそれとの、中間にあるといえそうだ。
台詞と身体動作の関係をこうとらえてみると、チェルフィッチュは台詞の内容に動作の必然性を求め、ニブロールは動きの様式性に動作の必然性を求めていることが判る。快快は台詞の側にも動きの様式の側にも必然性を求めていない。あえて特定するなら必然性はジェスチャーを発案する役者各人の内にある。古い例で恐縮だが、役者の振る舞いはNHKの番組『連想ゲーム』にあったようなジェスチャーゲームに似ている。ジェスチャーゲームでは演技者が身振りで回答者に言葉を連想させるわけだが、本作の場合、役者は身振りを行ないつつこの例えで回答にあたる言葉も発している。答えがあらかじめ判っているジェスチャーゲームであるなら、身振りはつねに余剰と化す。ここがこの方法の難しさだ。「余剰としての役者」を主題化するのも手で、確かに役者の力量が目立っているのは、そうした方向からのひとつの帰結と言えなくもない。役者の力量がきわだつということは、あて振りの生み出す造形が、このかたちや動きでなければならないことの理由が見えないということにもなる。当然といえば当然、集団的制作が平等を重んじていれば、それだけ全体を統轄する強い方向性は生まれないだろう。それにしても、白血病の野良猫とアパートの住民との交流という小さな、しかし潜在力のあるお話に彼らの方法が接続しないままだったということが、なにより惜しかった。
快快-faifai- 『アントン、猫、クリ』予告編 "Anton,Neko,Kuri" Trailer
2012/02/17(金)(木村覚)
庭劇団ペニノ『誰も知らない貴方の部屋』

会期:2012/02/10~2012/02/26
はこぶね(劇団アトリエ)[東京都]
会場が公共ホールではなく主宰タニノクロウ氏の個人的な空間であることがそう思わせる主要因かもしれないが、会場を後にする気分は観劇体験というよりも、特殊な趣味の知人に招かれ、彼のきわめて個人的な嗜好に触れてしまったときのそれにきわめて近い。マンションの狭い一室。ぎゅうぎゅう詰めで座った観客の前に、上下二層になった舞台(部屋)が窮屈に広がる。前半の舞台となった上の層では、歯並びの極端に悪い人間(というよりは家畜の形相の)修道女(らしき)二人がランプや椅子やテーブル、たて笛などを磨く仕事を行なっている。問題はそれらのオブジェがどれもどう見ても男性器の形状をとっていることで、それだけでなんだか目の前の景色が「あやしいもの」に思えてくる。カーヴを布で撫でると、客席は失笑を禁じえない。男性器化したオブジェたちは悪夢? 修道女の妄想? あるいは観客の無意識の実体化? あれこれと思いがゆれる。そもそもタイトルの「貴方」とは誰を指している? などと問うていると、下の層が明るくなった。タイル張りのその部屋では中年にして学生服姿の男が異形のはりぼてを制作している。しばらくすると胴回りのしっかりした兄が現われ、二人は戯れ出した。兄の顔ははりぼてにそっくり。似すぎていて気持ちが悪い。これは兄のための誕生日プレゼントだということが次第に明らかになってくる。上の層に置かれたオブジェたちも修道女たちにつくらせたプレゼントの一部らしい。となれば、同性愛というべきかどうかは微妙だが、制服男の過剰な男性器愛がこの芝居の主題だったと判ってくる。最後のほうのシーンでは、この奇怪な男女4人がパッフェルベルの「カノン」をたて笛で演奏する。端から端まで、まともには理解不能の舞台、しかしすべてが絶妙なバランスで連動している。この絶妙な感じはタニノのセンスのなせるわざとしか言いようがなく、こんな凝った舞台を見せてくれて本当にありがとうとちょっと引きつった笑顔でこの部屋の主人に(心のなかで)会釈しつつ帰り道、思わず「早くいまの松本人志のステイタスを獲得して映画でもテレビ番組でもつくって欲しい」と呟いてしまった。
2012/02/12(日)(木村覚)


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