artscapeレビュー
パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー
Chim↑Pom「SURVIVAL DANCE」
会期:2011/09/24~2011/10/15
無人島プロダクション[東京都]
Chim↑Pomが凄まじい力を発揮するときというのがある。社会に自分から介入しておきながら、自分たちでは制御しえない出来事を招いてしまうときだ。だからと言って、諸々の事件やお騒がせな若者というイメージが生むセンセーションのことは本質的ではないので無視しておこう。大事なのは、「巻き込みつつ巻き込まれる」出来事を計画し実行するということを彼らが自らの方法にしてきたということだ。さて、今回の展示である。ぼくが彼らに期待する「凄まじい力」が十分に発揮されたか、といえば「さほどではなかった」というのが正直な感想だ。はっきりしていたのは「Chim↑Pomのなかの絵画/彫刻的傾向」が、前述した「出来事を招いてしまう傾向」に勝っていたこと。スーパーマーケットで目にするイメージを、「平和の火」(福岡県星野村)で板をあぶる手法で描いた作品。同じく平和の火に関連しているのだろう、火で地面に同名作のタイトルロゴなどを描く作品《BACK TO THE FUTURE》。エリイがカンボジアの射撃場で投影されたハリウッド映画の銃撃戦に向かってライフルを打ち続ける作品《Ellie VS Hollywood》(無数の弾丸が打ち込まれたボード/スクリーンは、ニキ・ド・サンファル「射撃絵画」を連想させる)。福島で制作された《Destiny Child》は砂でできた子どもの彫刻を写真に収めたものといえるが、以上のどれからも「不測の事態」は発生していない。なかでも気になったのは、彼らのデビュー作にして代表作であり、あらためて制作された黄色いネズミたち《スーパーラット showcase》で、以前は剥製のほかに捕獲の映像シーンが作品の一部として上映されていたのだが、今回はその捕獲映像がなかった。ギャラリーの天井にミラーボールとともに10台近くのモニターが置かれ、そこには都会のネズミたちのたくましい生態が映し出されているのだけれども、そこにChim↑Pomたちが映り込むことはない。あの、キャーキャー言いながらネズミと格闘する映像こそ、この作品の核だと思っていたので残念だ。そうした例もあげられるように、展示タイトルの「SURVIVAL」「DANCE」のワードはともに、彼らの過去作品のほうにより濃厚に結晶化されている気がしてしまうのだった。
参考:Chim↑Pom展「SURVIVAL DANCE」再レビュー(2011年11月1日号)
http://artscape.jp/report/review/10014180_1735.html
2011/09/25(日)(木村覚)
山下残『庭みたいなもの』

会期:2011/09/22~2011/09/25
神奈川芸術劇場[神奈川県]
ヨコトリ連携プログラムとして制作された公演。客はまず材木で組まれた舞台の下を通って客席に着く。舞台下は食堂や浴室などを備えた小屋になっていて、一艘の船も置かれている。つまり舞台は小屋の屋上ということになる。もうこれだけでリッパなインスタレーションだ。舞台上に登場するのは男3人に女4人の計7人。彼らがシリトリでもするかのように次々と言葉と行為によるコミュニケーションを繰り広げるのだが、その間合いがじつに微妙で、笑う場面で笑えなかったり、逆に笑うべきでない場面で笑えたり。このハズシ方はとても新鮮だ。終盤、床板を外して小屋から船を引き上げるのだが、この屋根の上に船が乗った風景はどこかで見た覚えがある。さてどう終わるのかと思ったら、じつに後味のいい絶妙な終わり方をしていた。これは納得。
2011/09/25(日)(村田真)
トリコ・Aプロデュース演劇公演2011 『和知の収穫祭』
会期:2011/09/24~2011/09/25
京丹波町下粟野観音堂[京都府]
これまで京都市内を活動の拠点に演劇のプロデュースや上演を行なってきた、演劇集団トリコ・A。和知の伝統芸能、和知人形浄瑠璃の演目・長老越節義ノ誉(ちょうろうごえせつぎのほまれ)をモチーフにした作品が、室町時代建立とされる和知町の明隆寺観音堂で上演された。この作品はトリコAの演出家であり、劇作家でもある山口茜が、和知に滞在しながら制作したもの。当日、あたりも暗くなった頃、本殿の前でハットを被った役者の「誰そ彼」という言葉の説明から始まったその劇には、地元の子どもたちも10人以上出演していた。和知町は町のほとんどが山林で会場の周辺にはなにもない。過疎化が進む限界集落でもあるのだが、当日の会場はほぼ満員。予約客ばかりでなく、当日になって町の人々がたくさん鑑賞に来ていたと聞いた。演劇の内容は、私には理解しきれず消化不良な部分もあったが、観音堂の神秘的な雰囲気が素晴らしかった。今後も和知での活動展開を考えているというトリコ・Aプロデュースに注目したい。

2011/09/24(土)(酒井千穂)
山下残『庭みたいなもの』

会期:2011/09/22~2011/09/25
KAAT神奈川芸術劇場[神奈川県]
日常のもの(廃物)が言葉を発話させ、発話が動きを引き出す。90分ちかい上演中、7人のパフォーマーは、代わる代わる、互いにかかわり合いもしながら、ほぼ一貫して「もの」→「発話」→「動き」の連鎖を繰り返した。一貫しているぶん、大きな展開はなく、単調で、退屈と言わざるをえないところもあった。けれども退屈なぶん、一貫した方法それ自体がクリアに舞台上で示されることとなった。例えば冒頭、男女2人が向かい合い、男の掲げたTシャツを見て女は「てぃーしゃつ」と言い、男は「てぃんしゃつ」と口にする。訂正するかのように、女は「てぃーしゃつ」と語気を強めながら「てぃー」のとき腕を横にすーっと伸ばし、次に「てぃん(しゃつ)」と言うときは腕を「ん」のところで急降下させる。この腕の動きを「発話に誘発されたダンス」と呼んでみたくもなるのだけれど、これが「ダンスか否か」はさほど重要ではないだろう。ものや言葉からこぼれでてくる動きをともなったかたちはドローイングになぞらえてみたくなる感触もある。ただし、ならばひとつ気になるのは、この「ドローイング」に強い個性あるいは妄想とでも呼ぶべき要素が希薄なことだ。一つひとつの出来事の発端に置かれた「もの」の選択理由が曖昧なところに、その希薄さの一因がありそうだ。舞台は仮設された木製の床で、その下に地下倉庫のような空間があり(観客は着席する前にその空間に通される)、ものはその地下空間から各パフォーマーによって舞台に持ち上げられるわけだが、なぜいまこのものがこのパフォーマーの手で選択されたのかが、観客にはよくわからない。わからないまま、大量のものたちが現われ、また引っ込められる。そのわからなさ、その抽象性が、作品鑑賞を方法論へ集中させるわけだけれど、同時に、パフォーマーの発話のあり方や動きのあり方そのものに観客(少なくともぼく)が興味をもつ意欲を削いでしまったのではないかと思うのだ。
2011/09/23(金)(木村覚)
大橋可也&ダンサーズ『OUTFLOWS』
会期:2011/09/17~2011/09/19
こまばアゴラ劇場[東京都]
冒頭の数十分が印象的だった。コンクリートの床の一部。そこにすぐ脇にいる、後ろから抱きしめられる女が映された。もまれる胸が床に拡大される。映像の身体と生身の身体が並べられた。目の前の生身の二人よりも映像に、ぼくの目は向かってしまう。映像の近さと生身の遠さ、そんなことを感じさせられる。大橋の企みはさらに続く。斎藤洋平による映像の上に、10人ほどのダンサーたちが倒れる。さらに1人の男が現われ、手の映る小さなプロジェクターを使い、ダンサーの体をなでてゆく。映像の身体(手)が生身の身体に重なる。官能的で、陵辱的にさえ見える。大橋はまず、映像の身体と対比させつつ生身の身体をもてあそび、それによって、ヒエラルキーの下位に生身の身体を位置づけた。丁寧なイントロダクションがこうして置かれた故だろう、その後は、目覚ましい新展開は見られないものの、十分に見応えのある舞台となった。人間存在のどうしようもなさが現われている。それがいい。「OUTFLOWS=流出」というタイトルが「震災」を意識しているのは間違いないだろう。いま、日本の舞台表現には、そうした「震災」に関連した表現が溢れ、その溢れ具合は「ブーム?」と揶揄したくなるほど甚だしい。そのなかで、舞踏をルーツにもつ大橋の身体へ向けたアプローチはすがすがしい。がれきのような、見捨てられた家畜のようなダンサーたち。土方巽は、舞踏は「立てない」ところからはじまる、と言った。この「立てない」を十分に噛み締めることからしか、「震災」以後(常ならぬ世)を生きる勇気は生まれないような気がする。
OUTFLOWS [Excerpt]
2011/09/19(月)(木村覚)


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