artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

黒田オサム Performance77

会期:2009/02/11

テルプシコール[東京都]

ホイト芸パフォーマーとして知られる黒田オサムの公演。絵描きとしての黒田オサムの誕生秘話を物語る紙芝居から、乞食芸のパフォーマンス、黒田自身による革命演説歌の唱和など、盛りだくさんの内容で、楽しめた。来場者に配布されたパンフレットに収録された、黒田オサムロングインタビューもたいへん貴重な資料。上野の山の乞食や男娼の暮らしぶりから、敗戦後に群馬で立ち上げた「ホワイトグループ」についての証言、アナキズムの歴史的展開にいたるまで、とうとうと語るその語り口にひきこまれる。たとえば、こんな具合。「おたまじゃくしが読めなくてもね、おたまじゃくしが語りだしてね。おたまじゃくし以前に、音はあったわけですからねぇ(笑)」。

2009/02/11(水)(福住廉)

カンパニー マリー・シュイナール「オルフェウス&エウリディケ」

会期:2009/02/06~2009/02/08

北千住・シアター1010[東京都]

10人ほどのダンサーたちは、男女とも黄金のニップレスのみの裸身。真っ白な舞台に白い肌が際だつ。奇声を拾うマイクとか、身体を拡張させる衣装・オブジェとか、エロティックかつユーモラスきわまりないポーズとか、シュイナールらしい仕掛けは、とてもかわいく、ポップで、美しい。とはいえ、彼女の最大の魅力はそうした収まりのよいポイントではなく、観客を圧倒するフィジカルなプレゼンスにあるといいたい。中盤、長尺のラッパを轟音で吹き鳴らし、全員がバラバラで狂ったように踊りまたポーズをひたすら決め続けるところは、紅潮する肌とか揺れる胸など、目の前で躍動する身体の激烈さに、ひたすら高揚してしまった。「揚がる」感覚へ向けてすべての要素が結集している。そうした戦略に、舞台表現としてのダンスの今日的な指針が示されている気がした。
カンパニー マリー・シュイナール:http://www.mariechouinard.com/

2009/02/08(日)(木村覚)

おいッ!パーティやんぞ!

会期:2009/02/06

六本木・buLLEt's[東京都]

ぼくはこの分野の状況を評する知識も経験も乏しい。けれども、あまりに面白かったのでメモしておきたいのだ。近年、J-COREなどと呼ばれる音楽の一傾向がある。アニソンやJ-POPを大量に混入させたハッピーハードコアな(ナードコアに通じる)テクノ。日本人的で「同人音楽」的な音楽(DJテクノウチほか『読む音楽』を参照した)。と書いてみても、まだ自分のなかでよく咀嚼できていないのだけれど、オタク的、テクノ的、ハウス的な要素が混在する(ただしそこにアートは含まれない)様が、ともかく痛快だったのだ。クラブイベントなのでDJプレイとLIVEと称するパフォーマティヴな演奏が交替で続く。神戸から来たtofubeatsはWIRE08に出演したことで名の知れた高校生DJ。Perfumeをポップに破壊したサウンドに、フロアは機敏に反応する(9.5割が男子、その5割は眼鏡)。DJテクノウチのプレイが機材のトラブルで5分と聴けなかったのは残念。CDRやパジャマパーティーズの真摯に自分を否定したり肯定したりするパフォーマンスはなかなか感動的だった。オタクのオタク性は自分のなかの「好き」を大事にするところにある。高等なアートの自己批判性より、シャイで率直な彼らの振る舞いこそ、今後いろいろなものを繋ぎ束ねてゆく力となるのではないか、と思わされた。六本木buLLEt'sという会場も面白くて、お金を払うと客は入口で靴を脱ぎ赤いカーペットの上で踊るのだった。友達の家に居るようなコージーな雰囲気がイベントのあり方とぴったりあっていた。

2009/02/06(金)(木村覚)

ピーピング・トム「Le Sous Sol/土の下」

会期:2009/02/05~2009/02/07

世田谷パブリックシアター[東京都]

寓話性を色濃く含んだダンス作品。男2人と女1人のダンサーたちは、敷き詰められた土の上で、反転したでんぐり返しとか、体の一部がなぜか磁石のようにくっついて離れないといった事態を、きわめてアクロバティックに(つまり事故すれすれの状態で)見せた。そのありえない運動はファンタジック(曲芸的)でもあり、またその過酷さ故に踊る身体を強く意識させもする。いや、身体を意識させたといえば、彼ら以外の出演者、オペラ歌手と老婆だ。男ダンサーと老婆とが交わすキスには「そんなことやらせるか!」と思わずにはいられない。が、そんな柔な批判など、老いた体は舞台のマテリアルとして存在してはならないというのか?と目の前の舞台それ自体に反論され、一蹴されてしまうだろう。次第に、この老婆は体が老いているだけの子どもなのではないかとの錯覚がぼくの内で起こり、その錯覚にあまりにふさわしく、最後の場面で老婆はオペラ歌手の大きな乳房を口に含んだ。「土の下」=死というモティーフは、いまここでそのモティーフを上演するリアルな限りある身体に対する思いを強くさせた。けれども、その目の前の身体とて、身体というもののイメージの媒体でしかない。

2009/02/06(金)(木村覚)

We dance:神村恵「Seeing is believing.」

会期:2009/01/31~2009/02/01

横浜市開港記念会館[神奈川県]

ソロ作品。冒頭、南米の民謡が流れると神村は、まっすぐ前を向いた状態で舞台奥から斜め前へとステップを踏んでゆく。そんななんでもない動作がとてつもなくおかしく笑わずにはいられないのは、音楽と神村の身体とが等価の存在感をもって舞台に並置されているからだろう。互いが無関係を装ってすましているといった調子で、そんな両者の配置自体がダンスなのである。シンプルな振りが続く。ヘッドバンキングのようになる振りでは、顔が過剰に紅潮する。かっこつける身ぶりが希薄で、そのために、身体はダンサーの所有物というよりも、単にものとして扱われていると感じる。すべてが他との距離をもっている。クールなのだ。だからこそ、観客はその距離のあり方に心奪われ、望まずして爆笑させられてしまうのである。
We dance:http://wedance-offsite.blogspot.com/
神村恵:http://ameblo.jp/kamimuramegumi/

2009/02/01(日)(木村覚)