artscapeレビュー
パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー
川染喜弘/ツポールヌa.k.a. hot trochee「(音がバンド名)presents」
会期:2009/01/26
円盤[東京]
magical, TVで不完全燃焼だった小林亮平を再度見たくて、川染喜弘と組む(音がバンド名)の自主企画へ。それぞれのソロ。観客数は10人弱と少ないが、きわめて衝撃的な上演だった。
ツポールヌa.k.a. hot troche(小林亮平)は、終始、背中を向け、しゃがんだままマイク越しに「あれ?」とか言っている。もうはじまっている? 1時間の上演の9割は、機材のコンセントを探したり、接触の具合を直したりに費やされる。しっかり準備しておけよ!と非難するのはお門違い。なぜなら彼(ら)のパフォーマンスの真髄は準備の過程に、あるいは作品と作品の間にあるのだから。爆笑のピークは、接触の悪いリズムマシーンが直るとすかさず阪神の小さなプラスティックバットでぶっ叩きつづけ、また音が止まると「あれ?」と直す瞬間。因果の自家中毒が生む奇怪な時間。狂気の沙汰はつづき、最後は、触れると50音の鳴る幼児用のボードを取り出し、観客と一緒にこっくりさん。失策のみの演奏が不思議と退屈でないのは「準備」がひとつのフレームになって機能しているからこそに違いない。そうしたフレームへの意識が明らかである故に、小林(や川染)の行為はアートとして評価すべきものとなっていた。
続いて登場した川染は、高いテンションで観客を煽り、このフレームを巧みに観客に語り出す。川染め曰く「これから即興のオペラをはじめる」と。ただし、「思い浮かんだ瞬間、ストーリーばかりか漏らした単語の1音までずたずたにカット&ペースト+エフェクトしていく」と。そこで「村」をカットし代わりに床に落ちていた「ビニール」をペースト。「銃声」をカットし「ヘリコプター音」をペースト。これをひとり全身で実行。音楽的なアイディアが演劇をラディカルに変容させる。とはいえ、きれいにまとまるどころか延々とリハーサルとも上演ともつかぬ時間が止まらない。途中で、発泡酒を煽ると「カンフー少女」が暴れ出すという突拍子のないレイヤーが差し込まれた。とっさに浮かぶ思いつきとそれをとっさに加工・解体する、その連続。
これは、完成を拒んで、行為する身体とはいったいなんなのかを問い、問うて遊ぶゲームである。川染と小林はぼくの知る限り、いまもっとも根本的かつキュリアスかつキュートなパフォーマーだ。
2009/01/26(月)(木村覚)
山内圭哉(脚本・演出・主演)「パンク侍、斬られて候」
会期:2009/01/20~2009/02/01
本多劇場[東京]
学生に誘われたまたま見た。なるほど大衆芸術としての演劇とはこうしたものかと思わされる。町田康の同名小説が原作。愚行をつづけこの世の糞とみなされ排出(殺害)されることで、この世の嘘から自由になろうとする「腹ふり党」と、その力を借りて権力闘争を画策する者たち、また彼らに仕える侍たちが織りなす面白おかしい、ときにグロテスクな芝居。
山内扮するパンク侍を中心にあっという間、前半の90分が過ぎる。山内の飄々とした台詞回しがなんとも絶妙。台詞回しばかりではない、ギャグのテイストやいざ殺陣のシーンになるとCG映像へ転換するやり口など、いちいちの仕掛けがことごとく的確で、そのなかに今日の本国の政治に対する揶揄を溶け込ませるなんてスパイスも忘れない。爆笑/失笑の連続に、まるで自分の心が分析尽くされているような気にさせられる。マッサージチェアー?いや、もう、これはほとんど人間科学。と感心しつつ、次第に狙われたツボがお約束過ぎとも思いはじめた後半、「腹ふり党」の踊りが狂気を帯びた暴走と化し、世界が混沌としてくる。混沌の行く先は判然としないまま、さきほどまでの心地よさはかき消され、舞台の激しさに笑いつつ戸惑ううち終幕となった。
2009/01/21(水)(木村覚)
泉太郎「山ができずに穴できた」

会期:2009/01/20~2009/03/07
NADiff Gallery[東京]
本屋の地下にあるいびつな白い部屋、壁に映るのは人体のでたらめで、ユーモラスな運動。同一人物を撮影した紙が次々に手で引きちぎられてゆく動画は、下の紙の体と上のそれとがときに重なり、パラパラマンガに似て非なる原始的で奔放な動きを見せる。「ダンス」なんて言葉が不意に漏れてしまう魅力があった。壁の下に紙の残骸。プロジェクター台に半分隠れたテレビは、紙にプリントされた元の映像(壁に沿ったり壁を蹴ったりする泉)を映す。重層的な映像(「重ねた紙を上からちぎってゆく映像」=「運動する泉」+「それを映した映像」+「映像を映した紙」)を重層化のプロセスごと展示するやり方は、最近の泉らしいこだわりを示している。事が重層的になれば必然として、作家の思惑とその結果のズレは増加する。プロセスの開示はそのプロセスこそ主役なのだといいたいようだ。タイトルにある「~できずに」は、こうした思いのズレにこそ泉の関心があることを明かしている。
2009/01/21(水)(木村覚)
夜と昼/アラン・セシャス

会期:10/31~1/18
メゾンエルメス8階フォーラム[東京都]
パリ在住のアーティスト、アラン・セシャスの個展。会場内に敷いたレールの上を3体の擬人化されたネコが移動していく《夢遊病者たち》やエルメスのスカーフ、カレをモチーフにしたネオン作品《カレ海賊》、渦巻状の模様が高速で回転していく《エミール・クーエへのオマージュ》などが発表された。真っ白のネコ人間が目を閉じて両手を突き出しながらさまよう様子は、文字どおり白昼夢を見ているかのようだったが、最後の一匹だけは眼を見開き、しかもコートの下の興奮状態を隠していないせいか、まるで延々と尾行してくる変質者のようで、不安にさせられる。
2009/01/18(日)(福住廉)
サンプル「伝記」

会期:2009/01/15~2009/01/25
こまばアゴラ劇場[東京]
サンプルの芝居の根底にあるのはニヒリズムである。話の筋はこう。
浅倉シェルター社長の死後、伝記を出版しようとする浅倉の親族とその編纂を任された会社資料部のスタッフたち、社長の元愛人と息子、出版事業に出資を申し出る女、社長の家の使用人など、社長と伝記をめぐるそれぞれの思惑のズレが対話によって肥大化し、収拾がつかなくなってゆく。よくある「中心の不在」をめぐる物語(?)といってしまえばそれは確かにそうで、父への愛憎(コンプレックス)を基点に、きわめて明瞭な構造が舞台を構成する。この構造は、ちょっとしたハプニング(車椅子の元愛人が失禁したり、金持ちの女が意味不明の挑発を男性スタッフにふっかけたり、突然歌い出したり……)によってわずかに歪む。この歪みが、観客の笑いを引き出し、舞台を推進させる。とはいえ、その歪みに社会の歪みや人の心の歪みを反映させるなんて気持ちは、主宰・松井周にははなからない。人生とは?伝記とは?などと問うのは意味がない。ここで伝記とは、歪ませて遊ぶおもちゃの骨組みをつくる原材料以外ではないのだから。といって歪みの角度が笑いを狙うこともない。構造を歪ませる行為がただの純粋な遊び(であるが故に、この遊びは遊びでさえないのかも)であることをはっきりと告白するために、スタッフたちが突然口紅を塗りあうなど振る舞いの無意味さは次第に激しさを増し、その甚だしさがピークを迎えたあたりで終演した。
この形式主義の高度さが日本の若手演劇のクオリティを証しているのは間違いない。とはいえ、隠しがたいのは、形式が内部で機能すればそれだけ、ぼくの疎外感がエスカレートしたこと。浅倉と同じく観客もここでは死者に近い存在であり、不在としてのみ位置づけられている気がした。
サンプル「伝記」:http://www.komaba-agora.com/line_up/2009_01/sample.html
2009/01/16(金)(木村覚)


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